21.あの日

 「遅い」

文句と共に迎えた麗人の様子に、美形二人を従えた作家は唖然とした。

強風が吹き込んだか、竜巻でも侵入したのか、ロビーには書類やら何かの破片が散乱し、放り出された脚立、梯子、何に使ったのかもわからないロープや筆記具などが転がり、職員がそれらをせっせと拾って片付けている。

「昨日の今日で、何の騒ぎだ……?」

両の手に陶器の壺が入った包みを抱えたソレルの呟きに、ニムは頭を搔き、ブラックは無言の微笑みと共に麗人を見た。ブリーフケースを持っていた麗人が当然のように差し出すそれをブラックが文句も言わずに受け取る中、ニムは呑気な顔で言った。

「えーと、ペトラ……これは何が有ったの?」

「院長がFIBOフィボの実験をしくじって、被験者が暴れたのよ」

軽く顛末の説明を受けたニムは、後片付けを眺めながら首を振った。

「はあ……なかなかの暴動とお見受けするが……院長は?」

「”今は”院長室」

含みのある回答からして、彼は忙しく動き回っていたようだ。同じく察した様子のソレルが渋面で奥を見た。

「あんたの用事は済んだの、ニム?」

ソレルが抱えた包みを見ながらのペトラに、ニムは頷いた。

「物事には、区切りやステップが要るからね」

「現実は、あんたの話ほど上手くいくものではないわ」

「いいんだ、ペトラ。僕は僕、君は君だ。ボスが僕に同行を命じる時は、君の手早い仕事に、僕のお節介が必要な時だろ?」

麗人は肩をすくめて帽子を指先で直すと、病院の奥へと顎をしゃくった。

「行きましょう」

黒装束が二人も揃うと、途端に葬列のように見える一行は院長室に向かった。

途中、麗人はブラックに理事長たちを呼んでくるように言いつけ、彼はにこやかに従って行った。

「色男サンは、あんたが言うと何でもやるんだな」

皮肉なのか見たままを言ったのか、呟いたソレルに麗人は見向きもしない。代わりにニムが苦笑混じりに答えた。

「何でもじゃないよ、ソレル。あれでもブラックは納得がいかないときはちゃんと説明を求めるし、拒否することもある」

「ホントかよ……俺には、火に飛び込むのも辞さないように見えるぞ」

「ボスかニムが言うならやるかもしれない」

呟いた麗人は当の作家が何か言う前に、薄く砥がれた刃のような目でソレルを見た。

「私が命じるのは、あれが安易に馬鹿な選択をしない為よ」

「……馬鹿な選択?」

「此処の連中が良い例だと思うけれど。本来、人間は理知を持たなくては他の生物同様、種の存続を行う為に行動し、思想や哲学を持たずとも生きられる。種を存続する為、より良い方法、環境、社会を模索する過程で、人間の頭脳は良くも悪くも発展し、ややこしくなった。それが現状よ。世界は一人の人間そのものよりも、他のものを優先し、支配されるステージに在る。ブラックはその最も低層で使い捨てられた人間。為政者が使う、汚い金や誤った信仰、情報、価値観によって押さえつけられた人間よ。此処で『子供』や『仕事』を優先し、使われることに恐怖を感じない連中は、あれに似ていると私は思う。自由にさせると、いきなり銃で自分や他人の頭を吹っ飛ばす可能性があるタイプの」

厳しい回答にソレルは押し黙り、抱えた包みを見つめた。

理知無くしては成り立たない人間社会。その理知を発信する者に誤りがあれば……理解できる者は反旗を翻すこともできようが、理解できぬ者はいたずらに従い、正す意味も知らぬままに犠牲になる。

「……俺だって、わかるようにしてやりたいさ」

軽すぎると思うほどの包みを重く感じながら、ソレルは呟いた。

「母さんだって……わかりたかった筈だ。自分の、本当の子供が誰なのか……」

「あんたが何度も立ち止まるのはそれが原因ね」

取って捨てるように告げる麗人に対し、しばし黙っていた作家が口を開いた。

「彼女のように進み続けるのも大切だけれど、止まることは、悪い事じゃないよ。さもないと、車にかれたりするからさ」

苦笑混じりの言葉にソレルが顔を上げ、麗人はさっさと辿り着いた部屋のドアをノックしている。

「なあ、先生……俺は轢かれると思うか?」

憂鬱な琥珀色の眼差しに、作家は森の双眸を細めて笑った。

「後ろ向きに歩かなければ、大丈夫じゃないかな」

転んだり、何かにぶつかるのは痛くて危ない――体験談のように喋る作家に、琥珀色は呆れたようにほんの少し和んだ。

「全く、あんたには敵わない」




 院長室に入ると、机の向こうから病みやつれた目がこちらを見上げた。

「ソレル……?」

「オギー……ひどい顔だ。一睡もしていないんじゃないか」

「……僕しかできないことだった。仕方ない……」

死神でも見るような目が喪服の麗人を見、強張った表情が神経質に歪んだ。

「もう……待っては頂けない様ですが……」

「ミスター・ジェファーソン、弊社を取り立て屋か何かと勘違いなさっているのでは?」

「いいえ、ミズ・ショーレ。あなた方の正体はそれらの何倍かは強制的だと、充分に拝見しました。大人しく従うのが最良であることも理解しています」

「それは何より。では、速やかにROMOロモとFIBOのデータ並びに全ての薬物の提出を願います」

「……データは全て此処に有ります。薬物は研究室の保管場所に。持って来させるよりも、取りに行く方があなた方には良いでしょう」

帽子の下の麗人の目はスッと細くなったが反論はしなかった。横にずれる医師の方へつかつかと歩み寄ると、開いたパソコンを立ったまま操作し始める。パスワードはおろか、証拠の削除デリートも行っていないらしい。全く抵抗する気の無い医師をニムはじっと見つめた。

――追い詰められたときに取る行動として、彼は研究を進めるのを選んだ。

何故? それしか方法が無いからか? 現状、失敗に終わったのを見るに、それは成功率の低い賭けだったろうに。他に賭けるよりは、見込みが有ったのだろうか。

前の院長は逃亡したのに。

麗人の脇に突っ立った医師は、本当に立っているだけだった。

手には何も持たず、何処かに連絡する様子も、耳で何か聞いている様子も皆無だ。

ただ、憂いを帯びた薄いブルーの目がパソコンの方を見つめ、疲れた面差しや萎れた花みたいな赤毛が室内の光に尚青白く見えた。

同じように、親友でもある男を見つめていたソレルが口を開いた。

「オギー、母さ――いや、エルバ・クランツの遺骨が見つかったんだ」

「えっ……」

急に生き返ったように振り返った医師の目は、ソレルが両の手で抱えた品に釘付けになった。

「先生が見つけてくれた」

信じがたいといった視線をようやくこちらに向けた医師に、ニムは苦笑した。

「僕が見つけたというより、教えてもらった感じなのですが」

「”教えて”……? ……何処に有ったのですか……?」

「此処と隣国を繋ぐ定期船の一つの船艙です」

「定期船……」

「前の院長が此処を出る時に使った船の様です。漂着していたのを業者が改装して、今の持ち主に売っていました」

「……そう、ですか」

気後れした様子で呟くと、オーガストは気が抜けたようにふらりとよろめいた。壁に背を預けると、片手で額を押さえた。

「本当に……エルバさんの遺骨なのか……?」

「ああ。きちんと調べる必要は有るだろうが、服と一緒にこれが有った」

ソレルがつまみ上げたのは、この地方独特の信仰の首飾りだ。太陽のようなモチーフの裏面に、エルバ・クランツの名が記されていた。

「服は覚えがあるし、こいつを一緒にしてカモフラージュするなら、隠しておく意味が無い。骨に関しちゃ、セオドアに立ち会ってもらった。年齢は一致するし、例の特徴が現れてる」

「例の……じゃあ、本当に……」

「……そうだよ、オギー。エルバはFIBOで死んだんだ」

「…………」

何故か、医師は目を伏せて押し黙った。

「どうかしましたか、ミスター・ジェファーソン?」

ニムの物静かな問い掛けに、医師は双肩を震わせた。喘ぐような眼差しがのろのろと持ち上がり、ニムを見、ソレルを見た。

「遺骨に……斑点が……?」

「ああ、有る。間違いないよ、オギー。セオドアも見てくれた」

そう伝える琥珀色は、金ほど輝かず、木よりも目映い。それをどこか神経質な青い目が刺すように見つめた。

「だから、もうやめろ。FIBOは何ももたらさない。ステラには、お前やベックみたいに一途な奴が居る。エルバのようにはならないし、ならなくていいんだ」

「ソレル……僕は……――」

オーガストが痛ましげに呟いたとき、控えめなノックの後にブラックが扉を開けた。

「ああ、おかえり」

ニムが声を掛けると、彼はにこりと笑んで、ダグラスが腰掛けた車椅子を押すマルガリータを通してから、そっとドアを閉めた。

「貴方が、ミスター・ハーバーですか」

車椅子からすっと片手を差し出す男に、ニムは腰を折って握手した。

「お会いできて光栄です、クランツ理事長殿。息子さんにはお世話になりました」

「こちらこそ。ミズ・ショーレと、彼は命の恩人です」

その暴れっぷりを思うと少々耳が痛い気もするが、当の黒服の二人が何も言わないのでニムも愛想笑いに留めた。マダムに会釈すると、彼女も小さく頷いた。

「お会いしたばかりで恐縮ですが、先程、奥様の遺骨を見つけて来たんです」

「伺っております。関与のない方々にご足労をお掛けし、申し訳ありません」

こうべを垂れる理事長は堂々としており、銃撃されたばかりの人間とは思えない。冷静な回答に、ニムは丁寧に頭を下げ、そっぽを向いているソレルと俯きがちなオーガストの方に振り返った。

「じゃあ、ソレルくん、最後の真実を聞かせて貰おう」

「……は?」

遺骨を机に置いた青年の胡乱げな顔は、もう慣れた。実の父母によく似たしたたかさと、母と同じく、予定不調和には過剰反応するところ。

「エルバさんを殺したのは、誰だい?」

「おいおい、先生……母さんは自殺だって知ったんじゃないのか?」

「ふむ――でもさ、君はさっき、彼女はFIBOで死んだって言ったよね。そこの遺骨に残る青い斑点は、確かにその証拠だろう。だが、知的障害者だったエルバさんは、FIBOをどうやって接種したのかな? 君は前に……ステラが研究対象という話を聞いた時、『FIBOを子供に飲ませるなんて』って憤ったよね。つまり、君が知っている薬物の形状は経口摂取するタイプ。そのFIBOは、『果樹園フルーツ・パーク』が流用していた、即死するほど強くないドラッグなんじゃないかな?」

二の句が出なかった青年の顔から、血の気が引くのが見えるようだった。

「それは……」

「奴らが撒いていた錠剤は、離島施設と奴らのアジトで発見している」

事務的に述べたのは喪服の麗人だ。

「既に成分は分析済み。致死量に達するには、かなりの数と時間を要するのも判明しているわ」

「――僕です。エルバさんにFIBOを打ったのは……」

「オギー……嘘を吐くな‼」

急に自白したオーガストの肩を苛立ったソレルが掴む。一方、対峙している作家はひどく呑気に言った。

「打ったということは、注射でしょうか」

「そ――……そうです」

「院長――お二人の友情は理解できますが、この期に及んで、それはナンセンスだと僕は思います」

「えっ……」

驚いた顔を森のような両眼で見つめ、ニムは静かに首を振った。

「ソレルが隠したいのは、エルバさんの死の真相よりも、ステラのことです。そうだよね?」

「ど、どういうことですか……?」

「貴方は、ステラ・ターナーはエルバさんの子供で、妹だと思っていた筈。でも、本当は違うんです」

ニムに倣うようにオーガストが振り返る先で、ソレルは重たげな琥珀を床に伏せた。

「ソレル――……」

ほんの数分、重い沈黙が落ちた。悠久に続くかと思われた静けさを経て、腹部でも痛むような顔でソレルは答えた。

「先生は、何でもわかるってか……」

両腰に手をやり、深く息を吐いた。

「――ステラは、エルバのクローンだ」

息を呑んだオーガストが、唇をわななかせた。

「な……なんだって……? 馬鹿な……、そんなことが……」

「……母さん……エルバが死んだあの日、ジェファーソンは部屋から慌てて出て来た。俺たちはそれを見て、奴がいつもと違うことに気付いた……診察直後、俺は必ず部屋に入っていたし、お前は付いてくれていたから」

吐き出される言葉の全てが、溜息のようだった。ニムの方へと振り返りながら、仕方なさそうに言う。

「俺が診察の後に部屋に行っていたのは、FIBOを投与された後の短い時間だけ、エルバは俺のことをはっきりと『ソレルじゃない』って言うからだ。マダム・モリーもオギーも、俺を心配してやめるように言ったが、俺はどうしてそうなるのか、それなら真実は何なのか……確かめずにはいられなかった。結局、エルバから真実は聞けなかったし、俺たちはお互いの出自について、薄々感付いていたけどな……」

改めて細い溜息をこぼす青年に、ニムは頷いた。

「君は、優しい男だからね。『子供』の時から、そうだろうと思っていた」

「……よく言うよ」

拗ねたように言うと、彼は首を振った。

「先生、俺は薬に関する詳しい事情はわからない。でも、あの日はきっと、ジェファーソンがエルバにFIBOを過去最高値で投与したんだ。それがわかるぐらい、あの日のエルバはいつもと違っていた。そのエルバが言ったんだ……”私”が、もう一人居るって」



無理しない方が良い、と、部屋の前でオーガストは不安げに言った。

「院長先生が慌てていたし、何か有ったのかも……」

「それなら尚更、見に行った方がいいだろ」

「だったら僕も……」

「いや、人を呼んできてくれ。すぐにマダム・モリーが来ると思うけど」

薄いブルーの目が部屋と少年とを彷徨い、頷いてから廊下を駆けて行くのを見てから、ソレルは部屋の奥に踏み入った。

エルバは窓辺の長椅子の上に行儀よく座って、仄かな日差しが降る方を見上げていた。薄暗い部屋に差す光に、埃がきらきらと舞い散る中、長い金髪はほつれていたが、彼女はひどく大人しく見えた。

「……お母さん?」

刺激せぬよう、距離を置いて声を掛けると、呼びかけそのものに振り向いたらしい彼女はぽつりと言った。

「どなた?」

無邪気なその質問は重かったが、ソレルは落ち着いて名乗った。

エルバはぼんやりと聞き入れ、目の前の人物が何者でも良さそうな顔をした。

「お願いを、聞いて下さる?」

驚いた。エルバがそんなことを喋ったことはない。小さく頷くと、彼女は人形のような眼差しで言った。

「病院に、もう一人の”私”が居るの」

「もう一人の”私”……?」

何のことだがわからない。エルバは目の前に居る。飾りのない白い服を纏い、他の誰でもない美しい顔、長い金髪、透明でありながら青に揺れる水のようなブルーの目。天使が舞い降りたような、危うい美しさ。

「もう一人の”私”を、何処かに連れて行って」

「何処かって……」

「此処に居てはだめ」

「お母さん、何のこと――……」

「お願い」

無表情に尚も続ける彼女に、狼狽えた表情でソレルは頷いた。

その時だ。ふっと母の表情は和らいだ。

「ありがとう、ソレル」

うっすら微笑んで首を傾げた彼女に、ソレルは胸が一杯になった。何かわからないものが体の中に溢れて、涙が出そうになる。

「もう一つ、いい?」

朴訥と言った母に、子供は何でも聞くといった様子で頷いた。

「あれを取って」

母が細く白い指で示したのは、置き忘れた様に長椅子の下に落ちていた注射器だ。落として転がったのか、脚の傍に隠れるように在ったそれは、針にはキャップが嵌められ、シリンジには真っ青な液体が満ちていた。これが、FIBOという薬だろうか。

ソレルはわずかに躊躇した。

「取って」

尚も母が命じる。――取るだけなら……母に注射器を扱うのは無理だろう。

拾い上げて手渡すと、彼女は小さな子供がビー玉でも取ってもらったように、それを光に透かして楽しそうに眺めた。

ぼんやりとそれを見ていると、廊下を歩いて来る音が聴こえた。

オーガストが誰か連れて戻って来たのかと廊下を向いたとき、妙な音がした。

振り向いた先を見て、ソレルは目を剥いた。

エルバの喉に、注射器が生えている。キャップがその片手からぽとりと落ちる。彼女はそれが何か知っているのかいないのか、知っていたからそうしたのか、自らの手で青い液体を喉元に押し込んだ。

「お母さん……!」

冷静さを欠いた手が勢いよく注射器を引き抜く。常識的には皮膚に沿って打つものを、真っすぐ突き刺していたそれからぱっと血が舞い散った。彼女の体は軽く跳ねたが、天を見つめるブルーの目は見開かれ、微かに震えて――それきりだった。

「お母さん……?」

覗き込んだ青は天を――いや、もっと遥か遠くを見ている。力を失い、頭からずるずると床に落ちて広がる金髪。静かに、風が吹き込む。

その時、多分、自分は叫んだ。母のように、何を喚いたかは覚えていない。

「ソレル……!」

我に返ったとき、目の前には先程も見た薄いブルーの目が揺れていた。自身の両肩を支えて揺さぶっていたオーガストだ。

「オギー……」

「ソレル……大丈夫……? 何が有ったの……?」

「何が……?」

のろのろと振り返った窓辺には、先程見た時よりも多くの血が飛び散り、床には母の脚が投げ出されている。その前に座っていた人物の為、顔は見えなかった。ついさっき、確かに温かなものに満たされた胸に、みるみるうちに重くどす黒い何かが覆いかぶさる。いつの間にか、辺りには大勢の人が居て、寝転んだ母の前に膝を付いていたのはダグラスだった。父が振り返り、目が合うと、何故かソレルは慌てて逸らした。

ちょうど入り口にジェファーソン院長が現れ、彼がソレルと同じような表情――信じ難いものを見るような目で歩いて来ると、父親が立ち上がった。

「オーガスト、ソレルを連れて外に出ていなさい」

冷静に告げられた一言に、オーガストは大人しく友人を支えた。

院長と入れ違いに、ソレルは肩を抱かれるように出て行った。

呆然自失状態の心に一つ、居残る言葉。


――もう一人の”私”を、何処かに連れて行って。


 低く嗚咽を漏らしたのは、マルガリータだった。

その様子を虚ろな目でソレルは見ていたが、ニムに振り返った。

「俺が殺したと言えば、そうなんだと思う……」

「いや……意地悪な質問をして悪かった。君は犯人じゃない。――そうですよね、理事長殿?」

問い掛けに、マルガリータの片手に手を添えて、ダグラスは物静かに目を上げた。

「ソレル、エルバの死因はFIBOだ。我々が部屋に来た時、エルバはまだ死んでいなかった」

驚愕に染まった目が父親を見たが、当のダグラスは静かに首を振った。

「ジェファーソンが来て間もなく息を引き取ったんだ。奴はエルバにレベル10を投与したことを認めたが、部屋に残っていた注射器に関しては記憶にないと豪語した。私はソレルかオーガストのどちらかが持ち出した可能性を否定できず、奴の要求を呑んだ」

ソレルが嘲るように鼻で笑った。

「……どうせ、『子供』の言うことは信用できないからだって言うんだろ?」

「……ああ、あの当時はまだ、『子供』の権利は弱かった。私も……説き伏せるよりも隠す方を選ぶ弱さが有った。ジェファーソンは我々がモンス・マレを奪い取った経緯も知っている協力者だ。あの時、下手に騒がれれば、落ち着いて来た統治に支障が出ると判断した」

冷静と憂鬱に満ちた返答に、ニムは控えめな声で訊ねた。

「――ジェファーソン院長の要求は何だったんですか?」

ダグラスは厳しい目で答えた。

「FIBOの研究の続行です。奴はもともと、エルバの為にFIBOを開発し、彼女の精神を健常者のレベルにしようと苦心していた。故に、我々は秘密裏に治験者を提供し――奴の方からは、入り込んだ『果樹園フルーツ・パーク』を抑える為のROMOロモを提供していた。当のエルバが亡くなって以降も続けるという意志に裏が有るとは思っていましたが……まさか、クローンを作っていたとは……」

この利発そうな男が気付かなかったのは、モンス・マレの事情も有るに違いない。マルガリータの話は無論のこと、モリーの日記や、セオドアの話からして、この地の改革はかなりの大仕事だった筈だ。おまけに、入り込んできた邪魔な『果樹園』対策もせねばならないし、悪党が跋扈していた地では敵は他にも居ただろう。都市計画や市政運営とは、何かを決めるにも進めるにも難儀なものだ。いくら優秀な人間でも、一手に引き受けるには重い荷を背負いながら、この男は此処を発展させてきた。

言葉が切れた時、清聴していた喪服の麗人が帽子の下から鋭い目をもたげた。

「アドルフ・ジェファーソンは、クローン研究を理由にドイツ医学会を追放されています。お宅は御存じかと思っていたけれど」

「当時、貴女がいらしたらと思ってやみません、ミズ・ショーレ」

賛辞とも皮肉ともつかない言葉を投げかけ、ダグラスはソレルに振り返った。

「あの日、ジェファーソンが焦っていたのは、FIBOを投与し過ぎた為ではなかったということか?」

「多分な……奴が持ち出した資料は難破した時に海に沈んだみたいだから、もう確かめようがないが、エルバの実験結果に良いか悪いか、とにかく驚くような結果が出たんだと思う。レベル10ってのに達してみて……エルバは他の被験者と何かが違っていたのかもしれない」

ふと、オーガストが顔を上げたが、彼は何も言わなかった。ダグラスも気付かぬ様子でソレルに続ける。

「では、奴が逃げたのも……」

「ああ。俺が、ステラをこっそり連れ出したから、バレたと思って逃げたんだろ……まさか、屋敷に置いたままだった遺骨を持っていくとは思わなかったが……」

エルバの死後、ソレルはすぐにジェファーソンの身辺――病院の研究室を調べたという。その調査は権力者の子供の立場を利用したもので、形はベックがやったのと似た方法だったが、その時は保育器に居た赤ん坊をどうやって連れ出すかは思い浮かばず、連れ出した後のことも思案した上で行動した。

最初は教会に匿い、子を望んで祈りに来ていた高齢の夫婦に託したが、世の中そう安易にいくわけがない。それこそ、その子が何者なのかを証明する戸籍が必要となるし、エルバの死後に発布されたシステムには金のプレートが要る。

ステラの存在を明るみにしてジェファーソンを利用するつもりだったが、彼は逃げてしまった。愛故の執着なのか、何処かで再びエルバのクローンを生み出す気だったのか、最後に何を掴んだのかもわからぬまま。

「だから俺は、お前に嘘を吐いた」

琥珀色が見つめる先には、あの日とよく似た、薄いブルーが有る。

「……親父たちが、オギーの優秀さを見て、病院の後を継がせる為にジェファーソンの姓を付けたのは知ってたからな。律儀なお前は他国で学んだ後、ちゃんと戻って来て、院長が抜けた病院を継いだ。俺はそのタイミングで、ステラの存在を明かした。エルバの子供で、お前の妹に当たるって……」

もうその頃には、ソレルの頭は上がっていなかった。深々と下げられたそれを、朝の湖のようなブルーが見つめる。

「ごめん。お前が……こんなに頑張ると思わなかったんだ。いや……気付いてて、俺は利用したのかもしれない……ステラを、エルバと同じにしたかったわけじゃないのに……何処かで期待もしていた。もしかしたら……あの日、失ったものが帰って来るんじゃないかって……」

「……謝らないでくれ、ソレル」

思った以上に、彼は率直にそう言った。ニムはその様子を静かに見つめた。傍目には、それは美しい友情だった。

「君はエルバ……いや、お母さんとの約束を守ろうとしただけだ」

親友の肩に手を置いたオーガストの言葉は、苦しそうだったが、穏やかだ。おおよそ、72名もの人体実験を行い、やつれるほどに研究を進めた男とは思えない。

「多分、僕も……頭が一杯だったんだと思う……大きくなるに従って、エルバに似通っていくステラを見ていると……なんだか、不安で……――」

不安。多くの人間を凶行に走らせる要因でもある感情。焦燥に突き動かされた研究……ROMOという薬に頼ってまで、成果を追った結末。

――これでいいのか?

ニムが揃って沈み込む青年たちを見つめていると、不意に背を小突かれた。

いつの間にか、後ろに居たペトラである。

「これからどうするの、ニム?」

「どうして僕に聞くんだ?」

喪服の麗人は、呆れたように黒帽子の下から睨んだ。

「あんたが、こういう場にすると言うから付き合ったのよ? 一連の告白は済んだようだけれど、おかげで弊社では解決できない問題が出ている」

「えーと……」

全く以て仰る通りだ。

ブレンド社は警察組織でもなければ、法的な力も無い、調査会社に過ぎない。

この場で見聞きしたことを公的機関に伝えることはできようが、過去の件に関してはどうにもならないし、オーガストの研究に関して非人道的であると申し立てても、此処は閉鎖自治区――関係した『その他』の人々が声を上げても、物の数ではあるまいし、目下のところ……ROMOとFIBOを取り上げるしかない。

それでも、この場で彼らのすれ違った過去を擦り合わせるのを選んだ作家は頬を搔き、両眼の森を瞬かせると、両手を軽く掲げて言った。

「とりあえず、お茶でも飲もうか?」

誰ひとり同意する空気では無かったが、まことに有難いことに、視界の端でブラックがくすりと笑った。

「茶器を借りてこよう」

いつもの薄笑いで、彼は颯爽と出て行った。持つべきものは親友である。

彼を見送り、ニムはオーガストを見た。彼は少しだけ肩の荷が下りた様子のソレルを見ていた。狂人には見えないその姿を、森はじっと見つめた。


――結末は、どうするか。

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