透明なパッセンジャー

根古マキ之

透明なパッセンジャー

 父の仕事の関係で、私は10代の一時期をスコットランドで過ごした。18世紀以降に建てられた新市街と、それ以前の旧市街が調和するこの美しい都市では、その歴史や霧の深さからか、心霊スポットを巡るゴーストツアーが催されたり、幽霊が出るという名目で物件が売り出されたりと、日常の中で幽霊の存在が当たり前のように感じられた。


 そんな街で私が体験した不思議な出来事をお話ししよう。


 都市の中心から少し外れた中学校に、私と姉は通っていた。ある秋の日、友達が「この国の人は傘を差さない」と言っていたのを鵜呑みにした私は、しっかり者の姉の傘に入れてもらい、無人のバス停で帰りのバスを待っていた。灰色の空から降り続く冷たく重い雨は、小さな折り畳み傘では心許なく、肩を寄せ合う私たちの鞄はずぶ濡れになっていた。


 雨水を吸ったウールのセーターから獣毛臭が漂う中、私も姉も沈黙を貫いていた。虫の居所が悪い二人が下手に口をきけば、たちまち喧嘩になるであろうことは、これまでの経験から互いによく分かっていたからだ。


 バスの時刻表と腕時計を見比べていると、不意に私と姉の顔の間に、何かがぬるりと割り込んできた。肩の上、うなじや首筋に、人肌のような生ぬるさを感じ、雨音を遮られた傘の下、「はぁーー……はぁーー……」と、わざとらしいほどの息遣いが耳奥に這い上がってきた。どっと冷や汗が流れ、頭の中は真っ白になり、心臓が激しく打ち始めた。


 それでも、これ以上この不審者に隙を見せまいと、私は思い切って後ろを振り向いた。だが、そこには誰もおらず、雨だけが地面を打っていた。


 姉に揶揄われたのだと思い睨むと、彼女は青ざめた顔で私を見つめていた。


「……今の、何?」


 震え声で尋ねた姉に、私は言葉を返せず、ただ頭を横に振った。


「男……だったよね? 大人の……」


 私は小さく頷いた。まだあいつが後ろにいるかも知れないと思うと、声を出すのが怖かったし、実際に姿を見たわけでもないのに、二人とも同じイメージを抱いていたことが、さらに恐怖を煽った。


 これ以上の答え合わせはしたくなかったが、姉はなおも口を開いた。


「それに……頭しか……」


 先ほど生暖かい湿り気を肩の上にしか感じなかったせいか、背中がゾクゾクと冷えてきた。


「もしかして……生首、みたいな……」


 姉が言いかけたとき、道の向こう側にバスが見えた。


 私たちは逃げるようにバスに乗り込み、空元気で手遊びゲームに興じながら帰路についた。その話は、それっきり一度も口にしなかった。翌日から、私は折り畳み傘を必ず鞄に入れ、バス停では姉と少し距離を置いて待つようになった。


 あれから二十年近く経った今でも、あの日肩越しに感じた気色悪い生暖かさと、耳を伝う妙にリアルな吐息が忘れられない。しかし今にしてみれば、あのおぞましさは、恐怖心というよりは嫌悪感に近かったように思う。


 電車で通勤するようになって気が付いたのだが、あの感情は、汗ばむ真夏の満員電車で、駆け込み乗車してきた乗客にサンドイッチにされた時の不快感によく似ていた。そして、あの大袈裟な吐息も、駆け込み客の息切れそのものであった。


 もしかすると、あの透明な不審者も、ただ帰りを急いでいただけなのかもしれない。


 あの日私たちはエンジ色のセーターを着て、傘で屋根を作っていた。彼から見れば、それは赤い路面バスの入り口に見えたのではなかろうか。


 彼もあの後、私たちと同じバスに乗ったのだろうか。たまたま乗り合わせたパッセンジャーに過ぎないが、彼が無事目的地に辿り着けたことを、今更ながら祈るばかりである。

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透明なパッセンジャー 根古マキ之 @rootspia

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