第23話


「ありがとう、一条。本当に感謝します」


 と私は心からの感謝の気持ちを表した。彼の表情は柔らかく、優しさがにじんでいた。


「さて、次はあなたの未来についてですが、殿下。なにかお考えがありますか?」


 彼の問いに、私は新宿の賑やかな街並みを見渡しながら、ため息をついた。目の前には、昼間の喧騒が続く中で変わりゆく街の光景が広がっていた。


「正直なところ、まだ何も決めていないの。ソーニャが言っていたように、大学も一つの選択肢だけど、それが私の進むべき道かどうかはわからない」


 一条は思案深げに見つめ、しばらく黙っていた。


「殿下、あなたは多くのスキルと経験を持っています。これまでの苦難を乗り越え、生き抜いてきたその強さは、誰もが持っているわけではありません。その強みを活かし、まだ考えていない方法で他の人を助ける道があるかもしれませんよ」


 私は彼の言葉をじっと考えた。


「社会福祉の仕事とか、そんな感じのこと?」


 彼は頷き、少し微笑んだ。


「それもいい選択です。ソーシャルワーカーのような職業ですね。しかし、私はあなたがもっと広い範囲での仕事をしてもいいと思っています。あなたの独自の視点と経験は、外交や国際関係においても貴重です。あなたの物語や経験が、たとえば外交専門のエージェントとして、国と国の橋渡しになるかもしれません。」


 彼の言葉は、私の心に深く響いた。未来への不安と希望が交錯し、何かが動き始める予感を抱いた。


「あなた本当に、私がそんな国家間に影響を与えるような大役を務めることができると思う?」


 私は疑念を含んだ視線を向けた。


「もちろん、そう思います」


 と彼は真剣なまなざしで答えた。


「あなたはすでに周りの方々に対して、大きな影響を与えています。ですから、大きな規模で何ができるかを想像してみてください。」


 新宿の賑やかな街を歩きながら、私は新たな目的意識を感じた。未来は不確かだったけど、一条、槇子、ソーニャ、そして少佐たちと共にいれば、これから何が来ても対処できると感じていた。


「殿下、しばらく私の家に滞在してはいかがですか?」


 と彼が提案した。


「それもまだ決めていないの。少し長く滞在するかもしれないし、すぐに出発するかもしれないわ」


 と私は答えた。話をしているうちに、太陽が沈みかけ、周囲の明かりが薄れてきていた。


「でもまあ、少なくとも今日のところはあなたの家に行きましょう。昼間が終わりかけているから、寒くなる前に帰りましょう」


「そうですね、殿下」


 と彼は応じた。


 その瞬間、私は既に冷えた空気を感じていた。今夜はこれから厳しい寒さが襲ってくる、私はそう予感していた。そしてそれから帰路に向かおうとした矢先、私たちの思索を中断する大きな声が響いた。


「号外!号外!」


 新聞配達員が声を張り上げながら、号外の新聞を配っていた。彼の叫び声が、賑やかな新宿の街に響き渡っていた。


 私の好奇心と疑念が引き寄せられ、思わず手に取った一部の新聞が目に入った。


「憲兵将校一団が決起。クーデターを目論むか。一団は永田鉄山元帥を殺害。首謀者とされる容疑者は、前橋駿憲兵少佐」


 私は驚愕し、呆然として立ち尽くした。衝撃で頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。


「二・二六事件だ」


 一条が小さく震える声で言った。その声には深い悲しみと緊迫感が込められていた。


「陸軍本部によって歴史から抹消された事件です。我々のような限られた公務員しか知る由もない。」


「それと今回の事件とはどう関係があるの?」


 私は動揺しながら尋ねた。心の中に広がる不安が抑えられなかった。


「酷似しているんです」


 彼は冷静に説明したけれど、その表情には深い憂慮が浮かんでいた。


「事件は今と同じ二月末に発生して、クーデターを起こした青年将校たちは、次々に政府高官を暗殺していきました。」


 一条の顔は真剣そのもので、必死の形相が見て取れた。


「時間がない。何かしないと。絶対にこんなことを再び起こさせるわけにはいかない。」


 一条は叫びながら、全速力で走り去った。その背中が遠くなりながらも、私の心には彼の言葉が強く残った。


「一条、待って!」


 呼びかけたが、人混みに阻まれ、彼はすでに耳に届かないほど遠くへと消えてしまった。


 空気は予想通りひどく冷たくなり、夕暮れと共に雪が降り始めた。新聞の重さが鉛のように感じられ、私はその場に立ち尽くしていた。


 その時、横からエンジンの音が近づいてきた。音の方を振り向くと、一台の車が停まり、一人の年老いた男性が降りてきた。


「突然申し訳ありません、殿下」


 老人は丁寧に頭を下げ、その姿には謙虚さと誠実さが滲み出ていた。


「私は石原莞爾、ただの退役軍人です。申し訳ありませんが、どうか私たちに手を貸していただけませんか」


 新宿の街は混沌としており、雪が静かに積もり始める中、鮮やかなネオンの光が雪を照らしていた。

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血の紋章、失われた約束――憲兵の記憶 @nararu

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