壁打ち相手とカットスロート
狐木花ナイリ
〇
俺は二留していた彼女を馬鹿にしていた、というか、おそらく見下していて。それを実感したのは俺が就職に失敗してからだった。留年した大学生と、就職に失敗したフリーター、全く違う生き物だというのは分かっていても、俺は昨年までの彼女と今の自分を重ねざるを得なかった。
同年代に後れを取っている──漠然とそんな感覚を持って日々を繰り返す二十三歳。五月、ゴールデンウィークの日曜日の昼下がり、駅の改札で俺は先輩を待っていた。
改札口から人間達が放出されてくる。早足で歩く人の群れから、背伸びして、先輩を探す。スーツの女性と目があって、小さく手を振りあう。
「電車が止まっちゃってさ。遅くなっちゃった」
「へー」
改札口で先輩を迎え、俺達は帰路に就く。街路樹が並ぶメインストリートを少し下ってから、そして住宅地に出た。太陽が俺達の身体を焼いてきたから、俺はアイスコーヒーを、先輩はコーラを買った。纏めて二本購入出来れば良いのに、いちいち小銭を入れ直す必要があるのが面倒だった。
かしゅと気持ちの良い音を鳴らして缶を開け、先輩がぐびぐび啜る。
「で、どうなの?結果は」
「ああ。無理だったよ」俺がスマホを手渡すと、先輩が俺のスマホからお祈りメールを削除して、笑った。「どんとまいんど」
俺は答えた。「気にしてないよ、別に」
「そう。まあ、良いじゃない。数、数。現役の頃も数が足りなかったんだよ。当たって砕けろ、なんだよ。既卒者のけー助くん」先輩の背中が語った。
「先生、砕けるどころか、死にたいですよ」俺は冗談めかして呟いてみる。
「そんなの駄目ですよ。けー助くん」
そう言って振り返る先輩に俺は、はははと笑い、頷いた。「分かっていますよ。先生」
丁度、俺達は橋の上を歩いていて、中間地点で先輩が立ち止まったから俺も立ち止まった。
「なに?急に止まって」俺が聞くと、先輩は悪戯っぽく笑って欄干に寄っていき、手に握っていたアルミ缶を橋の外に出して、少し傾けた。
「これを垂らしたら、どうなると思う?」
「川に?」
「うん」
欄干に手をかけて、橋の下を覗き込んでみる。住宅街を縫うように流れる小さな川だ。足下の二メートル下、川から垂直に立っているブロック張りの堤防の幅で言うと三メートルくらいの狭間には緑がかった水が流れていた。
俺は想像した。
先輩が傾けたアルミ缶の口から静かにコーラが流れ出る。その流動体は宙を伝って、川に張り付き、最終的に水面には赤茶色の細い柱が建った。数秒後、透明な足に押し潰されるみたく柱は川に沈んで行く。緩やかに流れる川の中でコーラの赤い靄が一瞬広がり霧散した。
「違うよ。その前にやることがあるじゃん。川をダーツの丸いヤツで埋めなきゃ」
先輩が口を挟んできた。俺は首を捻った。
「埋めても流れて行っちゃうでしょ?」
「本当に?」
「そりゃ、わかんないけど」
「よし。けー助、分かんないなら行動しよう。丸いやつ──ダーツボードを取ってきて」
「どこにあるの?ダーツボードって」
「ダーツバーとか?」
「じゃあ、駅前のダーツバーに行こう」
「待って。私は仕事で疲れてるの。あのコンビニで待ってる」
丁度、近くに見えたコンビニを指差した先輩に。
「俺だって、バイトで疲れてんだけど」
なんて俺は言えなかった。俺は未だ微妙なコンプレックスを抱えているのだ。
駅前の閑静なアーケードの外れにある雑居ビルに俺は一人で向かった。一階のレコード屋から漏れる音に耳を傾けながらも細い階段を上り、一面磨りガラスの扉を押して、店に入った。全体的に黒を基調とした内装の部屋で、中心のあたりには小さなテーブルが疎らに生えている。その奥の壁にはダーツマシンが五つ規則的に並んでいた。俺が部屋を物色していると奥の方から店員が出てきた。
「すみません。お客さん、まだ開店していなくて……」困り顔で言う店員に、俺は謝りながらも聞く。
「ごめんなさい。すぐ帰ります。でも、少しお願いがあるんです。──ダーツボードって貰えたりしませんか?」
すると、店員はふひ、と気味の悪い声を出した。
「お客さん、おもろいすね。ただ、当店のは あれなんで」
そう言って店員が手で示したのは、無数のLEDライトで装飾された黒のダーツマシン。その中心に備えられている的──ダーツボード、俺と先輩が求めているのはこれだ。
「丸い的の部分だけが欲しいって話ですよね?」
「はい」俺はあの部分だけが欲しい。
「あれ、剥がせるわけないすもん。機械ごと欲しい訳じゃないでしょ?」
「はい。……難しいですよね。ダーツならここだって思ったんですが。帰ります」
「ああ、そうだ!いいものがありますよ。ちょっと待っててください」店員が手を叩き、裏の方に消えていった。
少しして店員が戻ってきた。
「これってどうです?──子供用の玩具なんですけど」
彼が持ってきてくれたのは、俺の求めていたものだった。彼が右手に持つのはマジックテープの貼られたプラスチックのボール──これを左手のダーツボードを模した的に投げて遊ぶ玩具。
「完璧です。頂いても?」
「勿論です。貰っちゃってください。──ボールはいりますか?」
「それは要らないかもしれません」
「オーケーです」
「……すみません。これって何個かあったりします?一つだけ?」
俺が聞くと、店員は苦笑した。
「何個、いるんすか?」
「川を埋められるくらい」俺が大真面目に答えると、店員は眉を顰めて考えるような仕草をとった後、なにかを数えるように指を折った。
「なるほど。ええと、そうすね。──ちょっと待っててください」もう一度、彼は裏に戻っていき、数分して、大きなボストンバックを抱えてかえって来た。
「ここにあるだけ入ってますよ。ボールは抜いておきました」
「こんなによろしいんでしょうか?」
「ええ、まあ大丈夫ですよ」
再度来店することを約束して、俺は先輩の待つコンビニに戻った。彼女は窓際のカウンター席でコーヒー片手にスマホを触っていた。
「お待たせ」俺が言うと、先輩は真顔になった。
「何?」
「ダーツボード集めてきた」
「は?」先輩は、まず額に眉を溜め、そして、ため息を吐いた。
「川に並べるんじゃないの」
俺が言うと、先輩はもう一度ため息を吐く。
「そっか、そうだったね。行こう」
俺達はもう一度、橋の中間地点に立ち、川に玩具のダーツボードを並べていった。なるべく水平に落下させるのを意識してボードを手放すと、それはぺたりと水面に張り付いていく。そのままどこかへと流れていくと思ったが、俺が放った一枚目がどこかに引っかかって停止、それに連なるようにして次のボード達も溜まっていった。
俺達は二枚、四枚、六枚──数千枚のボードを川に並べていき、作業中、隣で彼女がいろいろなことを話していた。
「これ、不法投棄じゃない?」とか「ばかみたい」とか「でも、若気の至りだよね」だとか。
しかし、その殆どは俺の耳に入らなかった。そのくらいに俺は集中していたのだ。そして、目に見える範囲の川の総てがダーツボードで埋まった。
「埋まってないよ。ほら、隙間がある」先輩が細かいことを言った。残念ながらボードは円形だから、並べても隙間が出来てしまう。
「でも、まあ、良いじゃん。──コーラ垂らしてみてよ」
「分かった」
笑って先輩は、新しくコンビニで買ったコーラを流した。ペットボトルの口から赤茶色の液体が落ち、並ぶボードの一つの中心に突き刺さって弾けた。それだけだった。
「隙間に落ちなかったね」「思った」
ここで妄想を止めて俺は言った。
「やめとけよ。面白くもなんともない」
「うん。分かった。やめとくね」先輩は傾けていたコーラの缶に口づけた。俺はそこで気が付く。彼女の顔の位置が高い。俺は彼女を見上げていた。
「それよりも大丈夫?今、二分くらいフリーズしてた。別の世界に行っちゃったみたいだった」馬鹿にするような先輩の笑い声を聞きながら俺は、欄干に預けていた身体を立ち上がらせた。
「うん、ちょっとやばかった」立ち上がり俺が腰についた泥を払っていると、先輩が笑ってくれる。
「想像力豊かで先生は嬉しいですよ。けー助くん」先輩が笑って、俺も笑う。「何も嬉しいことなんてないですよ。先生」
答えながら、俺は川を眺めた。あの光景が脳裏に焼き付いている。
未だに、いや、常に、川の表面には幾つものダーツボードが敷詰められて留まり、並ぶ円の本当に小さな隙間から、ゆらゆらと流れる水が見える。ただただカラフルなダーツ川を俺が眺めていると。
ぱん。
なにかが破裂したような音が聞こえた。
「コーラの音?」
「ん?なんの話?」
「今、なんか変な音しなかった?ぱんって」
「ああ、あっちで人が飛び降りたの」
先輩が示した方に振り向くと、川の奥の方で背広姿の男が四つん這いになっているのが見えた。遠くに見える彼を注視してみると、小さく震えているのが解り、耳をすませば細い蛇のような声が聞こえてくる。
「そういうのは早く言ってくれ!」
「えー知りもしないやつの飛び降りだよ。ていうか、こんな高さじゃ人は死なないって」
「そういう問題じゃないって。とりあえず見てくる」
既に、先輩は俺の腕を強く掴んでいた。
「ねー早く帰ろうよ」
「待って救急くらいは」
「ねー、別に良いじゃん。けー助。そういうの、うざいって。人身事故で止まった電車を待ってるみたいな感じ。ほら、放っておいてあげようよ」
「えー」「ねー 遅い」
俺達が問答しているうちに、男性は堤防を登り、ダーツ川から上がっていた。彼はこちらに会釈してから、痛みが残っているのか、に不格好な歩き方で曲がり角に消えていった。
ほらね、と言わんふうに先輩はにっこりと笑ってから、俺の腕を離した。
「下らないこと考えてないで早く帰ろうよ。あ、でもその前にコンビニ寄っても良い?最近、新しいフラッペ出たんよ。スイカ味の。夏が来るって感じだよね」
そして、俺を離した手、近くにあったコンビニを指差した。
壁打ち相手とカットスロート 狐木花ナイリ @turbo-foxing
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