第2話 光の粒


人が生命を維持させるために必要なものとは?


食事、そして睡眠。


この二つが挙げられるだろう。


しかし、この世にはその中の睡眠に関して特殊な関りを持つ人間がいた。


それが、眠与者と呼ばれる人間たち。


彼らが特別なのはただ一点のみ、それは眠りのエネルギーを持っているということ。


眠りのエネルギーとは、彼らが体内に持つとあるエネルギーのこと。


このエネルギーは、人々が睡眠を取る時に利用されるものである。


そして、彼らは睡眠だけでなく、自分の日々の活動で消費されるエネルギーとしてその




眠受者と呼ばれる人間がいる。


彼らが眠りにつくためには、眠与者が持つ眠エネルギーを体内に取り込む必要がある。


つまり、眠エネルギーを自身の体内に持っていない存在。


眠受者にとっての眠与者とはどういう存在だろうか。


眠りたくても眠れない自分を想像してみる。


布団に入って、毛布をかぶっても一向に眠気がくる気配がないとしたら。


一日だけならまだいいだろう。しかし、これが何日も続いてしまえば人間の体力は底をつき、徐々に自律神経も乱れ、しまいには発狂して死に至るだろう。


それほど、睡眠とは人間にとって欠かせない大切なもの。


もし、眠受者がそんな大事な自分の眠りを眠与者という存在が持つ眠エネルギーによって左右されているという事実を知ったら、恐れおののくだろう、と眠与者たちは考えた。


よって、今現在眠与者だけが眠エネルギーの存在を知り、選別を受けた、限られた数の眠受者だけが同様にそのエネルギーの存在を知っているというのが世の状況だ。


しかし、これは建前でしかない。


この世の仕組みは眠与者にとって都合の良いように出来ていた。


昔々、とある男が人間の体内に人々を眠らせる眠エネルギーがあることを発見した。


彼は、しばらくそれについて研究するうちに自分と同じ体質を持つ人間と、それを持たない人間、二種類の人間がいることに気が付いた。


そして、彼は自分と同じ体質の人間を眠与者、そうでない人間を眠受者と名付けたのだった。


眠受者にとって不幸なことに先に眠エネルギーの存在に気が付いたのが眠与者だったこと。


もし、眠受者が先にそのことに気が付いていたらどうだったのだろうか。


おそらく眠与者は眠献者とでも呼ばれていたに違いない。


しかし、眠与者の方が眠受者よりも先に眠エネルギーの存在に気が付いた。


それが変わらない事実だった。




とある国を支配する、ある一族は、血肉を分けた我が子が産声を上げた瞬間語り掛ける。


(君は眠りのエネルギーを持つ人間だ。しかし、これを持たない人間もいる。哀れなことに彼らは自分がそれを持たない人間であることを死ぬまで知らない場合が多くだ。けれどこれは仕方のないことだ。何故ならそのエネルギーがこの世に存在していること知らないのが当たり前の方として生まれてしまったのだから)と。


まだ目も開かないうちから言い聞かせられたため、物心つく頃には自分たち眠与者が優遇されるこの世界に、何の疑問も持たない人間が出来上がる。


しかし、そんな一族の中から、この世の不平等さに幼いときから疑問を抱いた、椿風雅という人間があらわれた。




彼、椿風雅は豪生学院という眠与者と眠受者が共に学べる、この国の首都にある学び場で寮生活を送っていた。


現在の時刻は、午前二時。


眠与者も眠受者も誰もが寝ている時間に風雅も当然寝入っていたが、そんな彼ににじり寄る人間がいた。


名は杉政広。医者の両親を持つ眠与者の男である。


彼は都市にあるこの豪生学院に入学するまでは、とある地方の工場地帯に住んでいた。


そこでは、両親は工場勤務の多くの眠受者の診察を引き受けていたため、そんな両親の姿を見ていた政広は、眠与者も眠受者も皆同じ人間、平等であるという考えを当たり前に持っていた。


彼は実家で両親は勿論のこと、この地域唯一の医者の子どもとして大層可愛がられたため、少しばかり自分勝手な部分があり、何か騒動があった際には彼の姿を見かけないことはないというようにお騒がせな人間ではあったが、クラスの者にはそれも彼の魅力の一つとして、好意的に捉えられている。


政広は四年間過ごしたクラスメイトとは全員仲が良かったが、特に仲のいい人間がいた。


それが、椿風雅。


最初に彼と出会った時の衝撃といったらなかった。


地元の人間意外と接する機会の無かった政広は、一体ここでどんな人間に会えるのかと期待を胸に抱いて、入学式当日を迎えた。


目に映る人全員が気になっていた政広だったが、ふいにとある人間から目が離せなくなった。


何故なら、その人物の目が異常にギラついていたからだ。


これは面白そうだと声をかけるとその予想が裏切られることは無かった。


それからの日々、この学校生活は互いにとって輝いているものになっていると政広は思っている。




眠与者の生徒がまとめて集められた寮の最上階、横になり眠っている風雅の顔を覗くと、大層整っている顔がそこにはあった。


まとめられるほどの長さまで伸ばしている黒く艶やかな髪。


整ったすべての顔のパーツは彼のハンサムな造形を支えていたが、彼の最大の魅力は今は隠されていた。


(寝ているともったいなく感じるな)と政広は一人思う。


今のままでも、誰もが称賛するような滅多にいない十分な顔の整い方ではあったが、彼を魅惑的にする一番の要因である、あの瞳の輝きを見慣れた政広にとっては少々物足りなく感じてしまうのだ。


今日は七月九日。星を見ようと風雅の体を揺さぶる。


一年の中で最も多くの人が夜空を見上げるのはおそらく二日前、七月七日だろう。


星が好きな政広も、もちろん空で輝く星の光を堪能しようと考えていたが、その日はあいにくの雨だった。


リベンジの機会をうかがっていたが、ついにその日がやってきた。


一人でこの景色を独占するのではなく、風雅にもぜひとも共有してやらなければと考えて彼を眠りから目覚めさせようとするのだが、今日は眠りが深いのかその目が開くことはなく、政広はより一層強く手に力を込めた。




政広の力強さに、意識はあったものの、寝たふりをしていた風雅だったが、思わず目を開けてしまった。しかし再び知らぬ顔をして再び布団を上に引き上げた。


風雅の白々しいその態度に、起きる気がないのだと気づいた政広は、(そっちがその気なら一人で星を見るだけだ)と考え背を向けたが、布団を被ったまま薄ら目で様子を窺っていた彼に右腕を掴まれ引き留められた。


風雅は、あとどのくらい強く揺さぶられれば起きようかと逡巡していたが、思っていたよりもあっさり諦められたため、その手に思わず縋ったのだった。


「おはよう。いや、違うな。ついさっき俺たちは布団に入ったばかりだ。


こんばんはの方がまだ合ってるように思える」


ちらりと見た時計は、午前二時を指していた。学校という場で勉強に体育、頭も体も酷使した人間たちが起きるにはまだ早い。


先へ進もうとも掴む手のせいでどうにも動けなくなった政広は、しぶしぶ風雅の方を振り向き、彼得意の、してやったりといった右の口元だけ少し引き上げ、ニヤっとした表情をした。


「ようやくお目覚めか、寝坊助君。ほら、体を起こせ」


掴まれた右手をサッとあしらい、政広は一人窓に向かって再び歩き始めた。


「寝坊助って言ったってまだ二時だろ? 起きている方が変だと思われる時間帯だ」


ならって地面に足をつけ、窓に向かって足を踏み出したが、真夜中だというのに足取りがはっきりしている政広とは違い、風雅の足取りはまだおぼつかない。


「……じゃあ君は大口を開けたみっともない面をさらしてまだ眠っていたら良い」


政広はそれだけ言うと、窓に足を掛け、上へと軽々しく飛び上がった。


「気を悪くするなよ、俺はまだ眠い。一人で上ったんじゃあふらついて屋根から転げ落ちるのが目に見えてる」


一人先に屋根に上ってしまった政広にも聞こえるように少し声を張り上げる。


しかし、一向に助けがくる気配がない。


(何がそんなに機嫌を悪くしたのか、寝たふりを決め込もうとしたことか? だったら今度はもったいぶるのをやめるか)と考え窓のふちに足を掛けると、上からスッと手が差し出された。


「ほら、さっさと上がってこい」


ありがたくその手を掴み、手に思いきり力をかけると、ふわっと体が浮き、気が付いたら風雅は、ごつごつとした感触を尻に感じていた。


「君全体重をかけたんじゃないだろうな?」


遠慮という言葉を知らないな、と隣で手を擦りながら政広はぼやいた。




風雅たちが通う、豪生学院は十二歳に入学し、十八歳になるまでの六年間の間生徒全員が共に寮生活を送るという寮制度を導入している。


生徒たちは皆、彼らがいるこの建物ともう一つ、向かいにある建物に全員が寝泊まりをしている。


「で? 結局君はぐっすり寝ていた俺を起こして何がしたかったんだ」


「何がってそりゃあ、いつものだよ」


ほら、と顎で上を指したあと、仰向けになって空を見上げる政広にならって風雅も隣に寝そべり目を開けると、そこには真っ暗な闇の中にきらきらと輝く満点の星空が広がっていた。


「な、綺麗だろ?」


政広の瞳は、星の光が反射してうるうると輝いている。


その瞳をうけて、(こんなに星が好きな人間が彼以外に同世代にいるのだろうか)と風雅は思った。


この前だって、七夕だというのに雨のせいで空が厚い雲に覆われていたことに対しての文句をたらたらと話すのを黙って聞いたばかりだった。


出会ったばかりの時にこうして真夜中に起こされたときには一体何が起こったのかと飛び起きたものだが、風雅の中で今となってはいい思い出となっている。


「君って本当に星好きだよな」


ずっと見つめているとその輝きに目がチカチカしてしまいそうで風雅は横にいる政広の方を見る。


「まあな。ほらあれ見ろよ。中々綺麗に見える。」


空には、星たちの粒が集まり、帯状に見える天の河が見えた。


「今日は天気がいいからよく見える」


夜中の今、昼と比べると比較的涼しい気温とはいえ、夏のこの時期はどうしても暑い。


風雅は屋根と背中に挟まった寝間着に、汗が染み込むのを感じる。


「しかし一年に一回しか会えないってどんな気持ちなんだろうな」


風雅の心臓は少し早く波打っていた。


大空の広大さを視界いっぱいに受け止めるという非日常感からだった。


そのため、それに浸っていた彼は一瞬政広が何を指しているのか分からなかった。


「……織姫と彦星の話か? まぁ限られた日しか会えないからその一日を楽しみに一年頑張るんじゃないのか?」


「織姫は機織りを、彦星は牛の世話に精を出す。良いことのように聞こえる。


でもそれってお互いの存在を神に人質として取られてるといってもいいんじゃないかって最近思うんだ」


「人質に? ……まぁ確かに二人が出会ってしまって、その役目を放棄したっていうなら、二人にとってのその役目とは、進んでやるような価値を見出せるものでは無かったということ。けど、二人が出会ってしまってからは、お互いの存在が何より大事なものだからその役目を放棄できない、と」


「そうそう。神ただ一人にとって都合のいい話なんだ。……君だったらどうする?」


「俺が同じ立場になったら……」


七夕の昔話で、人質なんてそんな物騒な捉え方は生まれてこのかたしたことがなかったので、風雅は返事にとても困った。


(この世で最も大事な人間と、もし一年に一回しか会うことを許されていなかったら。もし、それを理由に何かを強制されていたら、考えてもそんな場面が想像できない)


けれど風雅は、自分のそんな立場は許容できても、相手のそれはとてもじゃないが見過ごせない、それだけは自分の今の気持ちとして浮き出てくるのが分かった。


政広は風雅の答えを聞くと「具体的にはどうする?」と更に問い詰めたが、これ以上考えても風雅にはその時、自分がどんな行動をとるのか分かりはしなかった。


「君自分のことが分かっていないみたいだけど、僕にはこれが分かってしまうんだ」


そのいい様に(俺が分かっていないのになぜ政広が分かる)と風雅は思ったが、彼の言う”自分がとる行動”というのが気になったのでその先を急かす。


「……それは君が考えることだ。今日は僕の場合の話をしよう」


「ここまで言っておいて、結局もったいぶるのか」


「だって君がいざその立場になった時に、僕が言っていたからこうしなければ、なんて考えに至ったらどうする?」


「君は俺のとる行動はこうに違いないっていう自信があるんだろう? そうしたらその時に矛盾なんておきないはずだ」


風雅の返しになるほど、と納得したような顔をしたがすぐにその考えを振り切ったのか彼が求める答えは返ってこなかった。


「僕はさ、相手が僕にしてほしいことをしてあげられる」


しばらく政広の言葉を自分の中でかみ砕こうとしたが、風雅は彼の言うことがさっぱり理解が出来なかった。


生まれてからというもの、表面上は平和な世に生きる風雅は、政広の言うその場面に想像力を働かせることが出来ず政広の答えをさらりと流したものの、もしほんの少しでもそれに気づいていたら、いつも隣で笑っている彼にそんな考えを抱かせる相手が存在していたのかと気になって、空に広がる星の輝きなどはとてもじゃないが目に入らなかっただろう。




「いつか分かる。それよりほら向かいを見ろよ。あっちの棟でもだれかが俺たちと同じように空を見てる」


話をあからさまに逸らされたとは、感じたものの指を差されてしまえば、その先に視線がいくのは仕方がなかった。


政広の指の先を目で追うと、そこには確かに二人と同じく屋根の上で仰向けで夜空を眺めている二人組がいた。


この時間を楽しんでいたのは、幸せにも世で自分たちだけだと思い込んでしまっていたため、風雅は向かいの二人を視界に入れた瞬間、多少興ざめしていくのを感じた。


「あいつら知ってる奴かな? 風雅、君見覚えあったりしないか?」


浮かれるほどの熱がすっかり醒めてしまった風雅に気が付いているのか、いないのか政広は返事のない彼には気もやらず、独り言をつぶやく。




政広は目を凝らして向かいの二人を見つめているが、誰よりも友好関係の広い彼が知らないのなら俺が知っているはずもない、と風雅は思った。


「これも何かの縁だし思い切って名前を聞いてみよう」


(聞いてみる? 二つの棟の間にはなかなかの距離がある。一体どうやって聞くのか)と風雅が頭の中で考える隙も与えずに、政広は向かいの二人に向かって声を張り上げた。


「おーい! 君たち! 名前教えてよ!」


風雅は他の人間にばれないように、二人で度々この星空を見るのを密かに楽しんでいたのだが、寝ている奴らを全員起こしたいのかというほどの政広の大声によって、この時間はあっけなく終わってしまうのだ。


慌てて口を塞ぐが、もう遅かった。


「お前っ、ふざけてるのか? 今の声で高田まで起きたらどうする」


風雅たちの担任の高田は、学年主任で、怒らせるとなかなか面倒なタイプの教員であった。


クラスで騒動が起こると、大抵高田は風雅たちを戦犯と疑ってかかる。


ここから退散しようと政広の手を掴む風雅は、この何よりも幸福だった時間を、高田による説教の濁った記憶で塗り替えられるのは勘弁だという思いで沢山だった。


しかし、風雅の焦りとは反対にのんびりとした口調で言った。


「ちょっとだけ待たしてくれよ。ほんの少しだけ」


いくら腕に力を入れようが動かないため、風雅は座ったままの政広に目線を合わせるために、しゃがんだものの腰は決して下ろさずに説得を続ける。


「あいつらだって屋根裏に上ってたのバレたくないだろうし、返事なんて到底返ってくるわないだろ」


遠くを見つめ、こちらには決して向かない視線に(これは梃子でも動かないな)と風雅は感じつつも諦めるよう言う。


普段はそう感じられないが、政広はふとした時に、頑なに自分の意思を曲げない頑固さが垣間見れるときがある。


今日はついていないことに、その日らしい。


ため息をつきつつ、何が政広の琴線に触れたのか、その横顔から探ろうとジッと見つめていると、突然この状況を楽しむ光る目と視線が交わった。


「とても素晴らしく響き渡る僕のこの声はきっと一階まで響いているだろう。だから逃げたってもう無駄さ」


あっけらっかんと言う政広に、風雅は気づかないうちに入っていた肩の力がすうっと抜けたのを感じた。


二人で夜空を見るという、この貴重な時間を手放すのは惜しかったが、今後二度と来なくなるわけではない。


高田にバレていてもどうってことない。


来るか来ないかも分からない明日におびえるよりも、今の政広といる時間に集中する方がよっぽど彼にとって有意義に思えたため、風雅も素直に政広風雅も乗っかることを決めた。




突如、向かいから発された声が辺りに響いた。


「ノブユキ! それとアケミ!」


何の変哲もないこの夜だったが、この夜空の美しさに浮かされ、この場にいる四人は皆正気ではなかった。


先ほどの政広の急な問いに多少困惑していたように見えた二人だったが、ようやく状況を理解したのか目一杯の声で返事をした。


「おい、聞いたか? ノブユキとアケミだってさ」


「あぁ、聞いたさ。良い名前だ」


目を輝かせる政広が今にも返事をしたくてウズウズとしているのを風雅は肌で感じたが、先を越されまい、と吸えるだけ息を吸い、風雅は二人に名乗り返した。


「俺らは! 政広と風雅! よろしくな!」


こんなに大きな声を出したのは久々かもしれない。今の声を聞いた政広はどんな反応をしているだろうかと様子を窺うと、隣にいる政広は思い描いていた通り、お腹を抱えて屋根の上で笑い転げていた。


「君のそんな大声久々に聞いたかも。だめだ、面白過ぎる」


政広は笑い過ぎて、息を吸えないほど笑いがこみ上げている。


自分よりずっと年上でも機嫌を窺って、貼り付けたような笑みを浮かべる人間に生まれた時から囲まれてきた風雅にとって、政広の自分の感情に正直な屈託のないこの笑みは何よりも好ましいもので、風雅はその笑みを引き出すために行動を起こす自分が嫌いではなかった。


風雅は、自分が意図をもって行ったことに対して予想通りの反応が返ってくると満足感があったし、毎回自分と政広の相性の良さを噛みしめるのだ。


「笑いすぎだ。それにしても明日にでも眠受者の棟に行ってみて二人を探してみるかな」


風雅は、丸まったまま肩を震わせる政広をしばらく見つめた後、二人の顔がどうにか見えないかと、再び向かいを再び見ると、先ほどまで、のんびりと逢瀬を楽しんでいるように見えた彼らが、急に慌ただしくうろたえているのが遠目からでも感じられた。


どうしたのだろうか、と辺りを伺うと向かいの棟の最上階の部屋からこちらを見上げる瞳と風雅の視線が交わった。


さすがにこの騒ぎに目覚める奴が現れたようだ。


「おい政広、向かいの棟のやつがこっちに気が付いてる。多分こっちの棟の連中も何人か窓から様子を窺っているだろうな。今度こそ部屋に戻るぞ」


風雅はまだ寝転がったままの政広の腕を引っ張ると、ぐえっとカエルのような声を上げたが、今度は満足したのか大人しく連れられ、行きと同じように窓をくぐり、二人で無事に部屋まで辿りついた。




「生徒の何人かは絶対に気づいてるけど、高田にはさすがにばれてないと信じたいところだな。ご丁寧に名前も名乗ってることだし言い逃れは難しい」


寝たふりでもいいから、早く布団をかぶらなければ高田の説教を今この真夜中の時間から聞く羽目になると思い、戸の向こう側に意識を取られていると、先ほどから妙に大人しく声を出さない政広に疑問を抱いて後ろにいる彼を振り向く。


風雅は「なあ?」と声をかけるながら振り向いたが、そこには先ほど名乗り合った二人に手を振り続ける政広の姿があった。


残念なことに政広が振る手の先の彼らは、部屋に戻るので精一杯なのか政広の振る手に返そうとはしない。


「おい、いつまで手を振ってるんだ。高田が来る前に寝たふりでもしていた方がいい」


政広の振る手を止めさせようと風雅はその手を掴むが、サッと払われた。


風雅が政広が自分のことはまるで眼中にないことに気が付いた。


先ほどまでは、風雅も向かいの二人を含めた四人での特異な交流も楽しんでいたが、政広が自分を除けてあの二人と接点を持とうとする姿勢を見せることが気に食わなくなってしまったため、風雅の頭の中は、(どうしてこの手を止めさせられるか)ということしかなくなった。


「なんか全然手振り返してくれないんだよな」


誰に話しかけるでもなく、独り言として政広がつぶやいたが、風雅は自らの中の不満を解消するために、それを自分に話しかけられたものと捉えて返した。


「当たり前だろ。あいつらだってきっとばれたくないんだ。君に構う暇なんてないんだ」


「今日は中々特別な日になると感じたんだけど。仕切りが悪いなぁ」


返ってきた言葉に何の反応も示さず、政広は続けたが、特別な日という政広の言葉に風雅は打ちのめされた気分に陥った。


(二人で星を見たこと、それだけで非日常を感じ、時間を無駄にすることはしないと一つ一つを噛みしめていたのは俺だけだったのか。政広にとっては少なくともいつかの俺との夜より、あの二人と出会ったこの夜が特別と感じるものだったのだ)


そう思うと、一刻も早く政広を窓から離させることが自分の今やるべきことだと感じたため、強く彼の肩を引くことに決める。


「今日はもう寝ろ」


「君は寝ていていいよ。僕もすぐ寝るから」


「すぐって何時だよ」


「だから、二人が振り返してくれたら」


そこまで言うと、ようやく政広は風雅に向かい合った。


ずっと交じわることのなかった視線が交わったことで風雅は思いがこみ上げてきて、言うはずのなかったことをもらした。


「二人二人って。君にとって俺と二人の時間っていうのは特別じゃないってことは十分分かったさ」


これ以上ないほどにねと伝えたところで、風雅は自分が何を言っているのか我に返った。


(これではちっぽけなことで拗ねている幼稚な人間だと思われる。しかし、友人との時間を暗につまらないと言ったこいつにも非があるだろう。いっそのこと開き直って、ないがしろにしたものの大切さを思い出させるのも悪くない)と風雅は思い、その怒りを表すために顔を取り繕った。


しばらく見つめ合った後、無言で後ろを向く。(もう一言も話すことは無い)と背で訴えたかったのだ。


背を向けた以上、政広の様子を窺おうと、万が一にでも目があってしまえばこんなに気まずいことはないと思うと、風雅はずっと下を向くばかりしかできなかったが、今度は政広が一言申した。


「何だ。君って拗ねているのか」


拗ねている、と政広が言った瞬間風雅の心の中は荒れた。


自分でも恥ずかしいと理解している感情を当の本人にわざわざ指摘されれば、否定の言葉が思わず飛び出すのも無理はなかった。


「拗ねているだと? 自分の都合の良い方にとらないでくれ。ただ俺が言いたかったのは、今日会ったばかりの名前しか知らない人間に興味を持ちすぎだということだ。君の人を見る目に対してどうこう言いたいわけではないが、あの二人は特筆すべきところは何もないように感じる。それを分かってもらいたかっただけさ」


風雅はさっき用意したばかりの顔が、政広の指摘による動揺からすっかり剥がれ落ちていることに気が付かなかった。


飛び出した言葉とは裏腹に、その表情が政広の言葉を肯定しているということが丸分かりなことにも。


そして、今の風雅にとって最悪なことに政広は”思慮”という言葉を持ち合わせていなかったのだった。


「そんな顔で言われたって説得力がまるでないな。素直になればいいのに、ぽっと出の奴らにそんなに構うなって」


風雅は、自分の顔が熱くなるのをはっきりと感じた。


赤く染まったであろう顔を隠したい気持ちでいっぱいだったが、そうすれば更にからかわれるだろうと自尊心が働いていてしまっていた。


口を開こうにも声が出ないと分かっていたし、指先一本すら動かすことすら難しい。


(高田でも誰でもいいからこの部屋にきてくれ。俺たちの間に割り込んでこの耐えられない空気を壊してくれ)と、逃がれたがっていた高田を望むほどだった。


そんな風雅の心境は当然知らない政広だったが、何も言わない彼を見て言った。


「君何か勘違いしているようだけど、あの二人と仲良くなれたら最高な日になっていた、それは確かに違いない。だけどそれは君が隣にいたからさ。君がいなけりゃあの二人と出会ったって最悪な日にしかならない」


政広は多くの人間と話したがる。それは気まぐれだったり何か思惑があってのことだったりと様々な場合はあったが、ほとんどの人間はすぐに彼に気を許す。


その瞬間を最も近くで見ているのはいつも風雅だった。


そのため、風雅は(こいつは人の懐に入るのが上手い)とつくづく感じていたが、今の政広による情に満ちた言葉の連なりを一切信用せず、むしろ(今回も上手いこと言うじゃないか)という白けた感想を真っ先にもった。


しかし、政広の顔を見て、自分の薄情さに気が付く。


政広は、いつもと何ら変わらない、深い腹の奥に潜む思惑も何も感じない真っすぐな瞳で風雅を見つめていたのだ。


羞恥とは別の熱が風雅を襲った。


あろうことか、自分が政広の言葉を疑ってかかったこと。


自分には到底持ちえない、真っすぐな思いを伝える勇気があることの羨ましさ。


そして何より、政広が今伝えたかった言葉を受け取った相手が自分だったということ、これこそが風雅の体を芯から温めていた。


怒りに対する反射は人より優れており、それを表に出すことも厭わない風雅だったが、幸福な気持ちで感情が占められた時の反応は人よりも大層鈍かった。


つい先ほどまで、纏う雰囲気すらも赤かったように感じられた風雅だったが、今ではすっかり落ち着きを見せた顔色に変わっていた。


いつもの冷静さを感じさせる風雅が戻ってきていたが、実際はそう見えるだけの話だった。


内心は、うって変わって心地よい今芽生えたばかりの感情に浸っていたのだった。


その他の人間が見たら、風雅の今の心境は怒りが収まったのか、むしろ通り越して諦めの境地に入ったのか、と予想するものの中々正解にたどり着くことは難しかったが、四年も隣で彼を見てきた政広が(風雅のきげんはなおったな)、と確信を得ているのは当然だった。


「まぁ今日は君の言う通りもう寝るかな。明日からまた一週間が始まる」


「二人はもういいのかよ?」


あの二人が今日星さえ見ていなければ自分がこんな思いをすることはなかったはずだ、と彼らを憎々しく思っていたはずの風雅を、憎むばかりか二人に気を遣うようになるほど、彼の機嫌は政広に左右されていた。


「もういいかな。窓も閉められたみたいだし」


確かに向かいの棟の窓から見えるのは野次馬の爛々とした目の数々だった。


怒りが政広によって沈められたおかげで、風雅の思考が澄んだ。


全てを自分のせいとは言わないが、政広の交流を妨げる結果となってしまったことに多少の罪悪感を感じた風雅は、一言だけその申し訳なさを伝えようと寝床に向かう政広を目線で追う。


「悪かったな」


「何が?」


「いや、何ていうか……俺が邪魔したというか」


つっかえながらも言う風雅に謝罪の意をくみ取った政広はにやっと笑った。


「別に。どうってことないさ。それに明日眠受者の棟に行けばいい話だ。付き合ってくれるだろ?」


政広のその言葉に風雅は、明日も騒がしい一日になることの確信が持てた。


楽しみに口元が緩む風雅だったが、突如頭に何かが当たった痛みを感じた。


「おい、何か飛んできたぞ」


政広が風雅の後ろを見て言った。


風雅の気のせいではなく、部屋に何か突如放り込まれ、それが偶然にも風雅に当たったのだった。


政広が拾ったのは小さな紙で作られた紙飛行機だった。


「紙飛行機だ。懐かしいな、よく小さい頃作ったよ」


政広が懐かしそうな目で見つめる紙は、残念ながら風雅にとってはあまり馴染みのないものだった。


風雅は、政広のその様子から普通は子どもの頃にこのように紙を折って遊ぶのだと理解できたので知っているふりでもして乗り切ろうと思ったが、目ざとい政広により知ったかぶりをして恥をかくのを免れた。


「何だ君これ知らないのか?」


「あぁ。初めて見た。これが紙でできているっていうことは分かるけど」


「君のお坊ちゃまっぷりは幾度となく目にしてきたが、折り紙でこれを感じるとは思わなかったな」


「悪かったな。お坊ちゃまで。大体これは何なんだ?」


「これは紙を折って作る紙飛行機さ」


「これが飛行機?」


まじまじと見るが、風雅はただの細かく折られた細長い紙にしか見えなかった。


確かに言われてみれば翼がある部分から、飛行機に見えなくもないか、と思う。


「ここ、翼があるだろう? だから飛ばしてみれば。ほら」


政広が、紙飛行機を前に向かって飛ばすと、それは美しい直線を描き戸に当たって下にぽとりと落ちた。


「へぇ、すごいな。ただの紙がこんなに飛ぶとは」


「だろ? これは色々な折り方があるんだけど、こいつは比較的初歩的な折り方だな。もっと工夫すれば飛行距離も違ってくる」


政広は紙を広げた。


風雅も政広の教えてくれる、これよりも更にすごい折り方に知らない内に夢中になっていたが、開かれたその中に書かれた文字に気が付いた。


「おい、何か書いてあるぞ」


風雅の声に手を止めた政広も、紙を広げてまじまじと字を読んだ。




―政広 椿君―


あなた達さすがに声が響き過ぎよ


今すぐ布団に入って寝ることね




「一体どこからこんなのが飛んできたんだ。まさか隣の棟からじゃあないよな」


風雅は、自分と政広の呼び名から一人思い当たる人物がいたが、信じたくなかった。


なぜなら、もしそれが合っていたとすれば二人がいる男子棟の隣にある女子棟から、この手紙が飛んできたことになるからだ。


一体どんな手腕の持ち主か。


「いや、きっとこんなのを寄こすのはきっと一人しかいない。十中八九百乃だ。彼女ってば度胸があるからな。なぁ君もそう思うだろ? 椿君」


政広は風雅のことをわざとらしく”椿君”と呼んだ。


思わず顔を歪める風雅に、政広は笑った。


桜百乃。彼女は風雅政広の二人と同じクラスの眠与者の生徒だった。


人一倍正義感が強く、クラスでもめ事が起こった時には真っ先に割って入った。


彼女は、誰に対しても平等に誠実な態度を示していたため、クラス全員の信頼を勝ち取り、学級委員として働いていた。


しかし、そんな誰からも好かれる百乃だったが唯一彼女に対して苦手意識を持つ者がいた。


それが、風雅だった。


二人は知り合って四年の時を経ても互いに苗字で呼び合う仲だったが、決していがみ合っているという訳ではなかった。


しかし、二人が話すときには、間には確実によそよそしい空気が流れていたし、それを周囲も徐々に察するようになった。


「君たちの間の空気って何であんなに面白いんだろう。僕なんて君の苗字が椿ってことをたまに忘れそうになるっていうのに彼女ってば一貫して椿君って呼ぶんだからな。もしかしてだけど、わざとそう呼ばせているのか?」


風雅は、自分の苗字に対してこれほど嫌悪感を覚えるのか、というほどに毛嫌いしていた。


「そんなはずないだろう。君が一番よく分かっているくせに」


風雅が恨めしい目線を送ると、政広はそれをものともせず言った。


「だよね。じゃあ何でいつまでたっても出会ったばかりの距離のままなんだ?」


「最初よりはマシになったさ。少なくとも俺はそう思っているし……多分彼女もそう思っている」


最後声を小さくした風雅に、そこは自信持てよと政広は更に笑った。


「にしても四年も前の頃なんて覚えてないな。今よりもっとひどかったっけ?」


「さっきと言い今と言い、君はもっと思慮を身に着けるべきだ。大体、これは俺だけで解決する問題じゃない。あっちの問題と言ってもいい」


「百乃の? へぇそりゃ初めて聞いた。彼女が君に何を?」


風雅は言っても笑われるだけだと分かっていたため、心の中のもやを誰にも話せなかったのだが、この時ばかりは政広の好奇心に押され、つい口走ってしまった。


「……桜はよく、俺に話しかけようとしてくる。しかしそれは絶対に俺への好意からなんかじゃない。そうすることが正しいのだと自分に言い聞かせるみたいに俺に向かってくる。戦地に向かう騎士のように」


「騎士? まぁ確かに百乃は決めたら一直線だけれど。しかし、それの何が気に食わないのか僕にはさっぱり分からない」


「あの目を見たことないからそんなことが言えるんだ。こちらに向かってくる桜を想像してみろ。その目は覚悟が決まった目だ。俺はそれに気圧されて、気づいたころにはとっくにあいつに利用されている」


風雅はいつかの百乃を思い出して苦い顔をしてみせた。


「利用って……同い年でしかもずっと同じ教室で過ごしてきた人間にそんな複雑な思惑があるのか疑問に思えるけれど」


(政広の桜のイメージは皆が思う、親切で誠実な桜だ。いくら俺が言ったって分かりはしないのか)


政広が自分の百乃に対しての違和感を理解することはないと分かると、風雅はもう何も言わないと心に決めた。


「とにかく、ずっとそんなんじゃ僕たちだって決まずい。僕が間に入ってやってもいいからさっさと君から歩み寄るんだ」


無言を貫く風雅にため息をつくと、政広は風雅を置いて先に布団にもぐりこんだ。


「百乃も早く寝ろと言ってる。君もそこに突っ立っているのはやめて、寝た方が良い」


それだけ言うと、政広はおやすみを告げ風雅に背を向けて完全に寝る体制に入った。


それを見届けた風雅は、内心まだ思うところがあったものの、政広には逆らうことはなく自らも布団をかぶって目をつぶった。

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眠操者 @kudo_yusa

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