可能性の道標、それは繋がっていく物語

ディアナ

可能性の道標、それは繋がっていく物語

 満天の星が、夜空を覆う。月のない夜は星がよく見える、と夜空を見上げるその人は思っていた。荒野を流離うその人は傍らに小さな影を従えていた。いや、従えるという言葉は正しくない。その人は小さな影を支え、吸い込まれそうな星空の下迷わぬように手を引いている。

「今日はここで休もうか」

「はい、お師様!」

 異国の雰囲気を纏うコートを翻し、わずかな荷物を大岩の傍らに置く。そして男とも女とも取れる声で、旅人は疲れを見せ始めた子に声を掛けた。弾む声で頷いた子も旅人に倣い、大岩の影に荷物を置く。野営の準備は滞りなく終わる頃には空には厚く雲が掛かり、美しい満天の星々を隠していた。旅人はフードを下ろすことなく空を見上げて、残念そうに息を吐いた。それを見ていた子は、旅人が何故残念そうにしているのか気になったようだ。ローブの端を遠慮がちに引いて、旅人の顔を下から見上げた。

「お師様? お師様はどうして、こんな旅をしているのですか? どうして、僕を助けたのですか? 悲しそうな顔をしているのは……その……」

「あぁ、勘違いしないで聡い子よ。……私が旅をしているのは、ある約束のようなものなんだ」

 不安そうに見上げる子のフードを落として、流れ落ちる灰の髪を撫でる旅人。一房編まれた三つ編みが解け掛けているのを確認すると、結び目を解いて手櫛で整え始めた。その優しい手付きに、子は己の感じていた不安は杞憂であった、と大きな掌に頭を押し当てて甘える。大岩の影に座る二人を照らすのは野営用に設えた小さな焚き火のみで、寄り添う二人の影は危険な動物にも気づかれていない。

「そうだな、良い機会だから語ろうか。何故私が旅をするのか。何故君を助けたのか。……あぁ、今宵空が晴れるなら、あの日と同じしるべで照らしてくれないだろうか? 私が、私の標を語れるように」

 子の髪の一房を編み上げて結い、旅人は仄かな笑みを唇に浮かべて空を仰ぎ見た。祈るような静かな声に呼応して、旅人の遥か頭上を強い風が吹き抜ける。風の強さに驚いた子が、一瞬目を閉じて風を砂塵をやり過ごす。そして恐る恐る開いた目には、零れんばかりの満天の星空が映った。子の口から感嘆の声が漏れるのを聞いていた旅人は、おもむろに口を開いた。


 ——それは、子の寝物語に語られる詩ではない。ただ独りの人間が、たった一つのかけがえのないモノを得て、失って、取り戻した詩。心躍る英雄の話でも、涙が零れて止まない悲劇の詩でもない。ただ独り生きた、寄り添って生きた、誰でもない誰かの詩だった——。


 かつて私には、一人の師が居た。彼の名を、私は終ぞ知ることはなかったけど、私にとって、彼は師だった。名前を知らないから、私は彼の事を賢者と呼んでいた。とはいえ、彼と私の出会いは決して良いモノではなかった。私は、いわばスラムのような場所にいて、大変貧しく今日の食事にも困る始末だった。そしてそこに、彼は現れた。そして、私を見てこう言った。

「君は、とても良い目をしている」

 やせ細り、だが今を生きて明日につなげる為に襲い掛かろうとした私を見て、彼は確かにそう言った。私は我が耳を疑って、次いで駈け出そうとした足を縺れされて、盛大に彼の前に転んだ。彼は転んだ私を優しく抱き起して、深く不思議な瞬きを宿す藍の瞳で私の目を覗き込んで、柔らかく微笑んだ。

「やはり君は、とても良い目をしている」

「……え?」

「真っすぐで、何も諦めていない目をしている」

 そんなことを言われても、最初は意味が分からなかった。鏡なんて見たこともないし、なにより考える頭なんてものもなかった。良い目をしているとか、真っすぐで何も諦めてないとか、言われても分からない。分かるのは、今繋げられなければ、明日には止まるであろう胸の音だけだ。異国の雰囲気を纏った男も、すぐそれに気付いた様子で、枯れ枝のような手足しか持たない私を抱え直し、スラムの外へと連れ出した。そのままその男と共に医者に掛かり、懸命な治療の結果、私の命は明日を繋いだ。

「あの、あのさ……」

「どうしたのかね?」

「なんで、その……」

「助けたのか、と聞きたいのかね?」

 男に言われて、助ける、の意味を知った。そんなこと、スラムではありえないことだったから。男は顎髭を撫でてしばし考える仕草を見せて、小さな私の頭を撫でてこう言った。

「君の目が、あまりにも多くの可能性を孕んでいたからだろうな」

 意味は分からなかったけど、彼は何よりも大切なことを私に言ったことだけは分かった。帰る場所も居る場所もない私に、無言で手を差し出してくれた。差し出された大きな手は選ぶ自由を、私に教えてくれた。手を取らずに鼓動を止めるのも、手を取って世界を見るのも自由だ、と。だがそれは、私にとっては無意味は二者択一だ。だって、彼についていけば私は生きていけると、知らずに知っていたのだから。だから迷わず手を取って、彼と共に旅に出た。


「お師様は、そのことを後悔したことはあるんですか?」

「無くはない。彼には、私の賢者様には申し訳ないけど、行くあてのない旅は辛かった。だけど、それ以上に世界を知ることが楽しかった」

 己を語る旅人の語り口に、子が口を挟む。眠そうに目をこする子の、ややこけた頬を旅人のカサついた指先がそっとくすぐる。眠いなら寝なさい、と言外に告げるも、子は大きく首を振って拒絶の意を占めす。もっと話を聞きたいとねだる子に、顔を見せぬまま微笑んで続きを謡い始めた。


 彼は名前を教えてはくれなかった。もしかしたら、彼には私同様、名という物がなかったのかもしれない。そんな彼と共に歩む旅の先々で、私は多くの知識を得た。人、村、町、都市、自然、政治、世界のありとあらゆる顔を見た。争い、諍い、暴力、疫病、差別。ありとあらゆる人々の営みを知った。そして私は、それらの意味を教えてくれた彼を、捨てられた本に書かれていた、賢者、という呼び名で呼ぶようになった。彼は私が賢者、と言う度に目を細めて違う、と言った。

「私は賢者足りうる器ではないよ」

「でも、貴方は私に、知らない世界を教えてくれた。貴方自身が否定しようとも、貴方は私にとって賢者様なのです」

 きっぱりと言い切れば、少し照れた顔をして首を振った。だがその日以降、彼は私が賢者、と呼ぶのを否定しなくなった。そうして根無しの草のように、行く当てのない旅をつづけた。いつしか私は賢者の背丈を越していて、賢者は以前の私よりも細く、小さくなっていた。

「やはり……、君は良い目をしている……」

「賢者様?」

 その頃には賢者の足取りは重くなり、野営を営むのも難しそうな有様だった。だというのに、皺の寄った顔には初めて逢った日よりも深い知識が宿っていて、藍の瞳の煌めきは増しに増しているのだ。彼は、この旅こそが、この歩みこそが原点であり至上の命題なのだとわかっているようだった。だから最期の最後まで、どこかに根を下ろすことを嫌ったのかもしれない。日にどの程度も進めなくても、賢者は歩みを止めなかった。

「まるで昨日の事のようだ。君が、夜闇を嫌って泣きついてきたことが」

「あの頃は……、目を閉じれば開く事が出来ないと思っていました。夜は何も見えなくて、恐ろしいモノしか居ないと思っていましたから」

「そう言って私にしがみついて……。あぁ、今では君のその髪を撫でてやることも叶わない……」

「そうですね……。あぁ、賢者様が夜空には星が満ちていることを教えてくれたのですよ。そして、星がない日は月が道標になることを」

 吐息のような賢者の声を否定したくて、私は殊更明るい声を出して賢者に話しかける。賢者は吐息のような声で笑って、皺くちゃの手でローブの中を探った。彼のローブは長い年月を経ても変わらずに、彼の身体を風雨や灼熱、極寒から守り続けた。そのローブの役目も、もう終わるのかもしれない。

「……持っていきなさい。この先も、君の可能性に道が繋がっていることを……」

 枯れ枝のような手が、私の掌に小さな何かを託して落ちた。それは鎖につながれていて、その先には針のない時計のような、羅針盤のような何かがぶら下がっていた。急に渡されたそれの使い道なんてわかるはずがない。今にも吸い込まれそうな星空の下で、私はそれを空に翳して首を傾げた。そして使い道を教えてもらおうと、急に重くなった賢者に問いかけた。だが、返事は返ってこなかった。仄かな笑みを湛えた唇は色を失い、閉ざされた瞼は二度と開かず、あの深い藍の瞳は終ぞ光を灯さなかった。

「……あぁ、賢者様……。お疲れだったのですね……。おやすみなさい、賢者様。どうか……良い夢を……」

 涙の代わりに、星が零れた。幾筋も光の尾を引いて、星が降ってくる。ソレはまるで、賢者の死を悼むように流れ続けた。


「だから私は、旅をしている。あの日賢者様が託してくれた可能性の道を探すために、ね」

 静かに付け加えた言葉は、眠る子の耳には届かなかった。可愛らしい寝息を零す子に、己の話は長すぎたらしい。それでいい、と旅人は笑う。旅人にとって、傍らの子は可能性の光そのものなのだ。

「今ならわかるよ、賢者様。貴方が私を助けてくれた意味」

 ——貴方は己の生きた意味を、私に見たのですね。そして私に道標をくれたのですね。

 そして同じように、旅人もまた己が手を差し伸べた子に、子の未来に光り続ける可能性の道を見ていた。

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