第4話

 それから平吾の感覚は曖昧だった。ひどい全身の虚脱と頭痛にさいなまれながら、重力と無重力を交互に感じていた。

 奥の間に寝かされていた。身体は動かなかった。時々女房がやってきて、枕元に水を置いていった。医者も来たようだったが、平吾の下まぶたを強引に押し広げ、胸の音を聞き、腹を触り、あまり目を合わせようとせず、障子戸を後ろ手に閉めて、去った。

 重みに任せてまぶたを重ねると、もやのかかった暗闇が視界に広がった。もやは炎のようにも、ざわめく木々のようにも見える。ただひたすらに暑く、熱く、胸の鼓動の揺らぎに身を任せていた。

 平吾は、生まれて初めて身も心も休めているという心持ちに酔った。熱く、苦しく、何も見えず、血潮の巡る音だけが業火のように低く響いている。

 代々、奥田を耕している理由は知っていた。女房が自分に寄ってきた訳も、子がいない理由も、全部分かっている。

 長く頭の片隅に押さえつけていた考えが、地獄の火炎に滅された後に残ったのは、男の姿だった。男は全身を刃に貫かれていた。何度抜いても、まるで男の体から生えてくるように、刃は減らなかった。ただ抜いてくれと懇願するのだった。

 平吾は帰ってきて三晩目の宵に息絶えた。

 形式の葬儀を粛々と終え、いよいよ埋めようかとなった段、女房がどうしても平吾の言葉が気がかりだと言う。平吾は息を引き取る前までずっとうわごとを繰り返していた。痛い、熱い、刺さる、誰が抜く、地獄に落ちた、落ちる、落とした、落とせ、落とせ、落とせ。

 村の者の間では、平吾は日射に当てられたとみていた。衣服を染めた血は、極度の喉の渇きに、もうろうと死骸でもあさっていたのだと見当を付けていた。それで気に留める必要はないとなだめてはみたものの、あまりに女房が気味悪がってかんしゃくを起こし始めたので、やむなく村の若衆が四、五人、奥田まで山道の様子を見に行く運びとなった。

 ざくざくと踏み分け道を進む足音と、梟の低い胃の底に響くような声だけが山中に響いた。次第に嫌なにおいが漂ってきて、一行の歩みは鈍くなった。それは今朝から散々嗅いだ臭いに酷似していた。

 一行の足が固まった。道の脇に土まんじゅうがあった。いや、土ではなく盛り上がった無数の刃だった。梟がうなる。薄暗いやぶの奥に点々と乾いた黒い血の痕が続いていた。皆言葉を発することなく、額に脂汗を浮かべて、団子になって進んだ。

 井戸があった。

 のぞくと、底に粘ついた塊があった。皮をむいたように赤く熟れた影が、横たわったまま低く梟の声を発していた。

 飛ぶように山を下りた若衆を震源に、小さな村は山崩れのようにどよめいた。村長が決めたのか、どこぞの年寄りが言ったのかは誰にも分からない。平吾の遺体は簀巻きにされて山へ持っていかれた。草の上に積まれた無数の刃が、次々と井戸に投げ入れられた。

 一つ残らず入れ終わると、平吾の体が井戸へ投げ入れられた。水っぽい衝撃音が底に響いた。五人ほどがわっと草むらに顔を伏して、吐いた。

 誰が持ってきたか、赤さびた古い風呂釜を逆さにして井戸にかぶせ、十人がかりで持ち上げた岩でふたをし、これまた誰かが持ってきた縄で、井戸と風呂釜と岩とを不格好ながら何重にもぐるぐる巻きに封じた。

 以来、奥田に行く者は絶え、山道を通る者も消え、道は荒れるに任されている。村はたったひと夏の凶作で、薄ぼこりを吹いたようにあっけなく離散した。ただ油蝉の群唱だけが再び山麓に戻り、夏の間、絶え間なく響いている。

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地獄に落ちた男 小山雪哉 @yuki02

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