第3話

 助けてくれえ、と力なく言って、男は沈黙を投げ掛ける。

 平吾の耳に、深い耳鳴りが膨らんでいた。それは蝉の声にも、地獄の業火にも聞こえた。なるほど、男の言葉が切れ切れで、抑揚も確かでなかったのは、耳が貫かれているからだろう。地獄で責め苦に遭ったという尋常でない話も、これだけ全身を引き裂かれ、刺し貫かれ、血を垂れ流してなお言葉を発している光景が、疑いを抱かせる隙を与えてなかった。

 平吾は鎌を置いて男のそばに膝立ちになると、おずおずと男の右ももを貫通している刃を一つつまんだ。真っすぐ引くと、ざらついた感触とともに刃が抜けていく。徐々に先細った刃が抜けきる瞬間、きん、と男の脚が張った。傷穴から血が少し噴いて、それから静かに肌の上の無数の刃の間を、つう、と滴っていった。男はくぐもったうめきを漏らす。平吾は二本目の刃に手を掛けた。

 男のうめきが強く、息遣いが荒くなるにつれ、平吾の眉間は険しく、手さばきは加速していった。十本抜き、二十本抜き、見る間に男の真っ赤にぬれた肌があらわになっていった。抜くたびに男の体がこわばった。どうか今だけ、今に抜いてやるからと、歯を食いしばって一心不乱に抜き続けた。

 垢と泥と血で粘ついた汗が、平吾の全身から止めどなく吹き出した。塩気が染みてはいけないと、汚れた袖で必死に拭き取った。

 右ももから始めた仕事は、気がつけば脚と腕と胴体を大方抜き終え、顔に及ぼうとしていた。立ちくらみが幾たびも平吾の体勢を崩した。よろけたまま尻もちをつく格好になりかけても、何とか手を後ろについて踏ん張った。

 日はいつしか沈もうとしている。

 平吾は男の体をぼうと見やった。空が急速に暗くなるのに呼応して、平吾の体から血の気が引いて、細かく震え始めた。

 男の体は穴だらけである。ほかならぬ平吾自身が抜いたのだから当然だ。

 しかし、ふさがっていない。血がとろとろ漏れ続けている。鮮血に浸った、生けるしかばねである。

 平吾は泳ぐように手で空をかき分け、四つんばいになって、男の頭部へはいよった。

「……何で治らんのじゃあ」

 両の眼球を貫いた刃をつまむ。歯が割れるほどかみしめながら、一気に抜く。男は踏まれた蝉のような短い絶叫を漏らした。鼓膜を突き抜け、脳みそを串刺した刃を抜く。叫びとともに耳の穴から血が噴き出した。鼻の穴から脳天に刺さった長い刃を抜き、頬に無数に刺さった針のような刃を抜き、頭蓋骨に刺さった刃を抜いて、男の刃はとうとう一本残らず抜けた。

 なぜ治らないのかと、同じ言葉を繰り返す気力は、もう残っていなかった。

「助けてくれえ」

 男はぽかんと開いた口で繰り返す。赤魚のように全身深紅に染まった体が、夕闇に小火ぼやのように浮いていた。

 平吾は山のように積み上がった刃と、男の体を見比べる。抜いた針山の大きさは、そのまま男の罪の大きさだった。男がどれほどの罪を犯したのか、平吾が目いっぱい想像しても足りそうになかった。

 傷穴に袖を押し当てても、きつく縛っても、男の血は止まらなかった。泣き始めた子の涙のように、止めどなく真新しい滴がこぼれてきた。

 どんなにか痛かろう、どんなにか苦しかろう。刃を抜くことで男が助かると思っていた自分を悔やんだ。仏様の威光によって男が助かると疑わなかったことが情けなかった。日が沈んで濃い紅に燃え尽きた夕空に、ようやく平吾は目を覚ました。

 額から出ていた汗はいつの間にか止まり、代わりに平吾の身体は小刻みに震えていた。地べたに座り込んでいるのに立ちくらみが襲う。視界が穴からのぞいているように暗く狭まっている。男は全身を刃に貫かれて、助けてくれと言った。だから、平吾は刃を抜いた。しかし、全て抜いても、男は苦しそうに助けを呼び続けてやまない。

 少しだけ、男の声が途切れた。

 沈黙が平吾の回答を待っていた。

 平吾は、はいずって男に寄り、脇の下に腕を滑り込ませた。半身を起こし、男の片腕を自分の首に回すと、腹に息を送り込み、踏ん張って立ち上がった。肩を支え、男が出て来たやぶのほうへ歩き出した。

 男が通ってきた草むらは、そこかしこの枝葉に血が飛び染みて斑点を描いていて、一目で分かった。男は自分が立たされ、歩いていることに気付き、「すんません、すんません」と申し訳なさそうに繰り返した。体重のほとんどは平吾が支えていたが、男は懸命に足を交互に出していた。

 平吾の肩にだらりと頭を乗せた男は血の涙を流している。

「ありがとう、ございます。ありがとう」

 真実の言葉であることは、男の喉に一本の針も刺さっていないことが証明している。男はうそを言わないのだ。うそをつけない性分なのだ。

 どれくらい歩いたか、ぽかん、と目の前に拓けた空間が現れた。

 荒れた草地の真ん中に、ぽつねんと石組みの井戸がある。野ざらしのこけむした井戸の縁には、べったりと血の跡がこびりついていた。

 平吾は男を井戸の縁に下ろした。されるがまま縁に腰掛けた男は、血まみれの顔に微笑を浮かべ、ぽっかり開いた口から息を吐いた。千年ぶりに露天湯に漬かったような細く長い息だった。思わず平吾は視線をそらした。

 この体じゃあ、村に連れ帰っても生き地獄じゃ。仏様、閻魔様が許してくれんのじゃ。

「すまん、すまん」平吾は男の肩をたたく。

「ありがとう、ありがとう」男は血の涙を流して頭を下げる。

 男の骨張った胸を押した感触も、指先に伝わった鼓動も、井戸の底へと遠ざかっていく断末魔も、遠い夢の物語でいい。鎌だけを手に、平吾は夢中で山道を村へと疾駆した。

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