第2話

 男の口から血のりとともにこぼれ聞こえた内容は、おおむね次のとおりである。

 男はなにがしかの理由で地獄に落ちた。いつ、どうやって、なぜ落ちたのかは判然としない。夢のように唐突に、ただ地獄に落ちたことだけを認めていた。

 地獄は、生前、村で説教を垂れた絵解き法師の解いた地獄絵が子どもだましであったと感ずるほど、猛火熾然、極悪獄鬼のはびこる悪処であった。鬼どもに追い立て駆られ、巨山に身体を挟み砕かれ、鉄臼、鉄釜、鉄鍋、鉄串、痛い、熱い、苦しい、痛い。精神はどこまでも鮮明で、ぼんやりうつろになっている暇は一呼吸すらない。

 肉体が耐えられなくなると、ふうっとどこからか風が吹いた。端切れを不器用につなぎ合わせたように体が人の体を成すと、再び鬼に駆られ、痛くて、熱くて、苦しくて、そうしてただ断末魔を発するだけの存在になって――男は知った女の声を聞いた。

 とっさに呼ぼうとして、女の名を覚えていないことに気付いた。よくよく考えると自分の名も分からなかった。耳を澄ますと、最初の女房の声にそっくりな、しかしどこかなまめかしい声音が聞こえた。そういえば女房がいたのだ、と気付いた。

 灼熱の林を彷徨すると、木の上に女が座っていた。女は歌うように男を呼んだ。男は誘われるまま、幹にすがりつくように登った。

 針のように鋭い鉄の葉が、筋肉にぬっとめり込んだ。ありとあらゆる膚に突き刺さり、血だるま針だるまになってようようたどり着くと、女は下にいて、なぜ来てくれないのかと悲嘆の表情に曇る。そうしてまた口角を上げ、目尻を下げて男を待つ。針葉はいつの間にか天を突くごとく逆立っていた。男は身も心も引き裂かれながら女の待つ根元へと下りていく。

 幾回、幾日、幾年繰り返したか、男はおろか鬼卒も閻魔大王も分かるまい。日も昇らぬ地獄、さえざえと豪炎がうなる中、男はもうろうと痛みにあえぐ自分の声を聞いていた。どうしても女に向かって手が伸びる。鋭い葉の痛みにあえいで、うめいて、叫んで――そして、ふと喉に一本も葉が刺さっていないことに思い至った。

 どうしてこれに今まで気付かなかったか。気付いた時、男は口と喉以外は全身針葉の刃に貫かれていた。眼球も鼓膜もつぶれ、脳天に自らの叫びが響いているだけだった。体が動かなくなると、刃はおのずと取れ、傷もふさがる。しかし次の瞬間には足が動いて木を登るから、まともに思考する時間がなかったのかもしれない。あるいは痛みに叫ぶのは当然のことと思っていたからかも。

 男は一心に念仏を唱え始めた。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……。

 目裏で、祖母が小さい背を丸めて手を合わせていた。顔は墨をかぶったように黒い。居眠りをするように、こっくりこっくり仏壇に向かっている。男は――少年は背後から駆け寄って隣にちんと座り、祖母の腕にほんの少し触れるくらいに肩を寄せる。仏壇には菓子袋が供えてあった。遠くで子どもらの甲高い叫びが聞こえる。すると今日は地蔵盆だったのだ、と思った。今年も行かなかったなと目を伏せる。なんまんだぶ、なんまんだぶ。祖母は怒っていないだろう。哀しい顔をしているに違いない。触れた肩に重みが増す。なんまんだぶ。ぞり、と針金のような白髪が首筋に寄りかかって触れる。強く肩を押し返しても、すぐに倒れてくる。祖母は亡くなっていた。地蔵のぐるりに設けた席で下卑た笑いを交わしていた村の大人たちは酒臭かった。会ったことのない大叔母の家では毎晩誰かにぶたれた。少年――男は独りだった。

 百万遍でも、千万遍でも、気の遠くなるほど唱えては祖母を想い、唱えては仏様を想い、唱えてはただ独り唱える自分の声を聞き――ふと男はつぶれた真っ暗な視界に、光がちらついたのを見た。

 夢中で光のほうへもがいた。恐ろしい数の針葉の刃が、一挙一動のたびに全身に刺さった。光は小さく、いつ消えてもおかしくない間隔で明滅する。それでも光のほうへ、光のほうへと泳いで、ついに男の手は固く冷たい縁に触れた。力の限りつかんで、はいずり出る。身体が石のように重く固まっていた。小さくても光は消えていない。ここで止まってなるものかとひたすら身をよじり歩み、そして力尽きた。

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