地獄に落ちた男

小山雪哉

第1話

 あれだけ切迫に群唱していた油蝉が鳴きやんだ。

 平吾へいごは思わず、手にぶら下げていた草刈り鎌を胸の前に構えた。

 人ひとり分の幅の踏み分け道である。すねまで雑草が茂り、左右には濃いやぶが迫って薄暗い。晩夏の午後の熱気が、はうように吹き迷っていた。

 ぴく、と平吾のこめかみが引きつった。左手のやぶの奥。そこここに何者かが潜んでこちらをうかがっているような葉の擦れる乾いた音に、妙な音が混じっていた。小銭を幾らかつかみ、じゃらりと離す。またつかんで、離す。そんな金属音の反復だった。

 平吾は腰をかがめ、斥候のように張り詰めて、木々の隙間をうかがった。夕暮れには早い。しかし、うっそうと手付かずのやぶは、もやのかかったように薄暗く、音の主は見えそうになかった。

 金属音は動いていた。遠からず、近からず、「おおい」と声を放てば返事をしそうな距離感で、左手のやぶの奥を動いている。この山道で人とすれ違うことは極めて珍しかった。猿や猪が茂みを揺らすことはままあるが、このような金属音を理由付けるには心もとない。真っ青な空に盛り上がった巨大な入道雲に似た不安が、平吾の足も思考も、その場に立ち止まらせた。やがて自らに襲いかかってくる脅威か、それともどこか遠くの景色か判別が付かなかった。

 平吾はそっと足を動かした。

 そして、道なりに村への帰路をそっと歩み始めた。

 音は左手に聞こえ続けていた。

 進んでも、立ち止まっても、やぶの向こうに音は鳴り続けた。音が平吾に付いてきていたのか、平吾が音に付いていっていたのか、それともどちらともなく並び歩いていたのかは、分からない。とにかく彼らはやぶの暗がりを挟んで同じ方向へ――村へと歩んでいた。

 平吾は特段正義感の強い男でも、命知らずな冒険者でもない。12の年から、ただ日々野良仕事に打ち込んできた、地蔵のような朴念仁である。何かを問われた時、押し黙ったまま言葉の海を探して、しかしあまりに澄み切った脳内では滝のような音がするだけで、額から大汗が吹き出して石のように固まってしまう、そういう男である。

 これは危ない。村へたどり着いたとして、これが村まで付いてきたとして、危ない、逃げろと触れ回れるか。助けてくれと伝えられるだろうか。怖かったと漏らして腰を下ろせる場所があるだろうか。平吾にとってそれはあまりに重大なことだった。

 下草を踏みしめながら、鎌は胸の前に構えていた。体はどうも情けない中腰の姿勢を望んでいるらしい。平吾が意図せずとも自動的に何かに備え、体の芯は響くように震えていた。

 木々の間から差し込む弱い西日が、時折平吾の体をまだら模様になでた。よく研がれた鎌の刃が、時折鋭くちらついた。熱湯の中を歩むようで息が詰まった。洗いざらした紺木綿の短着の内側が、焼け蒸した肌に張り付いた。

 平吾は鎌を構えた腕を肩のほうへなぞるように見た。枯れ枝に似た二の腕には角張った石のような筋肉が張り付いている。鋭いイネ科の葉で切り、虫に食われ、炎天下で焦げた肌には年相応の張りはない。

 気付くと、足が止まっていた。

 左手の音は、葉音に紛れていつの間にか途切れていた。

 にわかに膝から力が抜けて、平吾はすぐそばの灌木の根元に、そこが安住の地であるようにどっと座り込んだ。

 腰に下げていたアルミの水筒を逆さにして、どうにか一口水を含んだ。朝から動かし続けた肉体は疲れを通り過ぎて、他人の体のようだった。にぎり飯は、昼前に食べきった。

 村から田んぼまで片道1時間、日がな一日の草刈りは、話題にもならない日常である。刈らなければ米の育ちが悪い。育たなければ、なけなしの収入に小作料が重い。残る金が少なければ女房と自分が腹を空かせることになる。平吾の生まれ育ってきた村は、近隣のどこもそうであるように貧しかったから、皆が皆そういうものだった。ただ、牛も入れぬ山奥に、代々先祖が耕してきた土地があったというだけのことだ。

 平吾はぎゅうとまぶたを閉じた。思い切り目を開けると、熱気が目に染みて、眼球がうっすら潤った。ボンボンと手のひらで耳をたたいて、せき払いをしながら立ち上がった。

 じゃらり。

 乾いた金属音が耳に触れた。平吾は獣の鋭い爪音を察知した草食獣の速度で振り返った。

 やぶをかき分けている! 音は明らかに近づいていた。金属が触れ合うような鈍く乾いた音を立てながら、何者かが草を踏み分けている。何者か、者……人。心の内であえて発さずにきた言葉を自覚して、呼吸が浅く小刻みに震え出した。中腰になって鎌の柄を握り直した。

 小枝が折れて、はじける。枯れ葉がひしゃげて、つる草が切れる。

 唐突に射抜かれたような痛みが走った。ガラスをまいたような閃光が視界を刹那、つぶしたのである。そのまま腰が砕けて尻から倒れ込んだ。

 それは金属音を立てながら歩み寄ってきた。――確かに歩み寄ってきたのである。

 人の目というのは不思議なもので、木目が顔に見えて戦慄するように、同族を見つけることに必要以上にたけている。例に漏れず、平吾も目前に現れた何かを人だと直感した。視界に捉えた姿も、確かに人の形をしていた。それなのに同時に激しいめまいを覚えたのは、己の脳が直感も実感も、のみ込ませてくれなかったからだ。

 理解する間はなかった。

 次の瞬間に、それは乾いた金属音をじゃらじゃらと立てながら、切り倒された樹木がまるで命を持って苦しみにあえぐように、ふらふらと回転しながら目前に倒れた。

 四つんばいになりながらのぞき込もうとして、平吾は思わずのけぞった。むせかえるような血の臭いがした。人からこんな臭いがするものか。何者か、人のような背丈の何者かが鋭い毛を全身に逆立てている。そして、血だまりがじわじわと今も染み広がっている。

 戦慄と困惑と高揚が蝉の群唱のように頭の中に混ざり響いた。平吾は自らの手に鎌が握りしめられていることを見やると、もう一度四つんばいになり、腕を目いっぱい伸ばした。

 じゃらり。どうにか届いた鎌の先で触れたそれは、鎌の刃と当たって、鈍く乾いた金属音を立てた。先刻聞こえていた音に違いなかった。それは毛ではなかった。紛れもなく金属であった。笹の葉に似た鋭い銀色の刃が、無数に突き刺さっているのだった。

「ダれかぁ」

 平吾は跳ねるように上半身を引く。

「イタいぃ、抜いてクれ」

 刃まみれの塊から、奇妙な抑揚で、途切れ途切れの声が発せられる。その出どころを平吾は見つけてしまった。もごもごと声の出るたびにうごめいているその部分には、全身で唯一楕円状にぽっかり刃がなかった。イタい、イタいと発する文節ごとに血が吹き垂れた。口だった。だらりと赤く垂れているのは舌で、すぐ下に突き出ているのは喉仏で、それならこれは人で、男で、仰向けに倒れているのだと、平吾は了解するしかなかった。

「ダレか、触っタ。待っテ、聞いテ――助けてクレ」

 誰が応えることもなく、また返事を待つこともなく、無数の刃にまみれた男はとつとつと話し始めた。

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