食卓の風景

香久山 ゆみ

食卓の風景

 我が家の夕餉には儀式がある。

 四角いダイニングテーブルの片側に私と姉が座り、対面に母。父はお誕生日席。うちは四人家族だ。なのに、母の隣、本来空席になるはずのそこにも皆と同じ食事が用意される。

 必ず家族四人で食卓を囲むのが我が家のルール。このルールのせいで私は帰宅が遅くなる運動部に入れなかった。

 食事をする前には皆で声を揃えて挨拶する。「いただきます」ではない。

「それでは本日の報告をさせていただきます」

 皆で宣言したあと、父から順に一人ずつその日の出来事を報告する。誰に? 分からない。報告の間はみんな目を瞑っている。けれど、何となく。昔から何となく、空席に向かって語る。全員が話し終えると、父が言う。

「以上で報告を終わります。それでは食事に預からせていただきます」

 それを合図に食べ始める。黙々と。

 この儀式が何なのかは分からない。幼少時から当たり前にあったから。長じて疑問を感じるようになったが、なんとなく話題にできないでいる。

 宗教ではない。と思う。夕餉の儀式以外にはとくべつなことは何もしない。

 父母のいずれかの実家の習わしかとも思うが、それも分からない。夕食の時間には何があっても必ずうちに帰ってくるから。法事であろうが結婚式であろうが必ず夕食の時間までには自宅に帰る。よそへ泊まるなどもってのほかだ。だから、祖父母の家がどのような夕餉の時間を過ごしているのか、私には知る由もない。

「陰膳」という風習もあるらしい。遠方へ旅立った家族のために、留守中の安全を祈ってその人の食事を用意するらしい。食卓の見た目はまさに同様だけど、うちには不在者はいない。はずだ。

 誕生日は特別な日だ。

 その日は食事が出ない。母の隣の空席以外には。

 私は主役にも関わらず、テーブルの真ん中に置かれたケーキと空席に置かれた減りもしない豪華な食事を、丸一時間じっと眺めるほかない。

 小学生の時に何の気なしにその話をしたところ、同級生に不気味がられた。「なあんちゃって」と付け足すことで事なきを得たけれど。中学に上がってからは、学校帰りに友人とケーキ屋へ寄ってから帰宅するようになったお陰で、気にすることもなくなった。それでも夕餉の時間には必ず戻るのだけれど。

 私が十六の誕生日を迎えた日、誰に食べられることもなかったケーキとごちそうが片付けられた後、父が改まった様子で私に声を掛けた。

「お前も十六だ。これからは――」

「やめて!」

 父が何も言わぬうちに、姉が大声で制止した。

「あのことは、私がちゃんとやるから。だから妹を巻き込まないで!」

 もともと静かな食卓が、いっそうしんと静まり返る。姉は鋭い眼光を父に向け、父はしばらくその視線を受けてから黙って自室へ上がっていった。

 その後も何度か同じようなことがあったが、父が何か言おうとする度に、何度でも姉が跳ね除けた。

 恐らくそれは我が家の食卓の秘密に関する話だと思うのだけれど、毎度姉が話を遮るので、私は結局何も分からないままだ。

 よく分からないけれど、姉は何事かから妹である私を守ってくれているらしい。

 けれど、肝心の妹は何のことだかまるで分かっていないから、ただ姉が悲劇のヒロインの役割を独り占めして、自分に酔っているだけではないかなどと穿った見方をしている。秘密を知る権利を妨害されていることに不満を持ってさえいる。まったく報われない身代わりである。

「それでは報告させていただきます」

 数年後、夕食前の報告会で姉が重大な報告をした。

「私から報告いたします。子どもを、身籠りました」

 静かに、けれど一語一語はっきりと言い切った。

 目を瞑って下を向いていた私は、思わず顔を上げた。父も母も同様に姉を見つめていた。姉だけは大きな瞳でじっと母の隣の空席を睨みつけるように見ていた。

「お姉ちゃん、結婚するの? 相手は誰?」

 私は興奮して尋ねた。

「結婚はしない。相手も分からない」

 姉は私の方を見もせず答える。

「えっ……?」

 戸惑いから二の句が継げない私に代わって、父と母が姉に言葉を投げた。

「おめでとう。よくやった」

「ありがとうね」

 え? 思いがけない反応に振り返ると、二人とも目を赤くして心から喜んでいる。

 ああ、これが「あのこと」なのか。

 そう思ったものの、相変わらず私には何のことだかさっぱり分からないままだ。

 数ヵ月後、赤ん坊が生まれると、我が家の食卓に空席はなくなった。

 四角いダイニングテーブルのお誕生日席に父が座り、片側に私と姉、対面には母。母の隣にはベビーチェアに座る赤ん坊。四人分の大人の食事と、一人分の赤ちゃん用メニュー。余分なものなどない。

 赤ん坊はまるで自分が誰よりもいちばん長くそこに座っているのだといわんばかりに、ガッチャンガッチャンとテーブルの上を派手に使っている。

 もはや静かな食卓の風景など思い出せないくらいだし、いつの間にか、報告会などの儀式もなくなっていた。全員で夕餉を囲む必要がなくなったにも関わらず、相変わらず皆いそいそと時間までに帰ってくるのは、愛らしい赤ん坊のお陰だ。父も母も目尻が下がりっぱなしだ。

「あとは、おれもなるべく長生きしなきゃなあ」

 父がぽつりと呟く。

 顔を上げると、でれでれと赤ん坊と遊んでいる。この子の成長を見届けるために長生きしたいということだろう。そうに違いない。……いつか食卓に空席ができた時に、またあの儀式が始まるなんて、そんなこと。あるはず、ない。

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