竜が浮く月夜

尾八原ジュージ

竜が浮く月夜

 小さい竜をつかまえてから、うちの生活はずいぶん楽になった。


 父さんが死んだ。母さんはもっと早くに死んでいた。おれは学校を辞めて、両親と暮らした家を売った。そして代わりに、山奥にある大きな小屋だか小さな家だかわからないような、古い一軒家を買った。家の中に入ると、おれの古い革靴の下で、汚れた床板がみしみしと鳴った。

 真っ黒な松の林が、家の周りを取り囲んでいた。夜は川の流れる音が聞こえて、月がよく見える。そういう場所なら、妹と静かに、なるべく長く生きていけるだろうと思った。

 けれど、引っ越して何日か経ったころ、街に買い出しに出かけたおれは、近くの監獄から逃げ出した囚人が山に逃げ込んだという知らせを見かけてしまった。ものすごくいやな予感がした。

 竜が空から落ちてきたのは、そんな折のことだった。


 それはおれたちにとってものすごく幸運な、そしてものすごく小さな確率で起きた事故だった。空の高い高いところをふらふら飛んでいた竜に隕石が当たって、そいつは地上に――それもたまたまおれたちの家の庭に落ちてきた。地上の熱で焼け死にそうになってた竜を回収したのは、庭で洗濯物を干していた妹だった。

 小さな竜は白い蛇に似ていたが、角が生えていたし、人の言葉を話した。

 おれたちは屋根裏部屋に水槽を置き、竜を飼うことにした。そこには大きな丸窓があって、月の光がよく差し込んだ。竜は月夜の晩に月光を吸収し、体内で凝縮させたそれを新月の晩に吐き出す。月光は蜂蜜みたいな黄金のシロップになり、一か月でティースプーン二杯分ほど溜まった。

 そんなちょっぴりの量でも月光は高く売れた。月光を買ってくれる商人によれば、それは化粧品とか酒とか煙草とか画材とかに加工されるらしい。何にせよそれらはおれも妹も見たことのないような高級品だろうから、関心の持ちようがなかった。

 とにかく定期的な収入はありがたかった。おかげで必要なものを買うのに不足がなく、おれは「おれたちもなかなかまともな人間らしいや」と思いかけたりもした。でも、やっぱりそれはとんだ勘違いなのだった。


 ある日家に帰ると、玄関ポーチに血だまりができていた。

 ドアを開けると赤い帯みたいな血の痕がずるずると続いている。おれがいない間に、妹が見知らぬ男を文字通り引っ張り込んでいたのだ。妹は銀色の髪を振り乱し、牙をむきだして瀕死の男の腹に噛みついていたが、おれと目が合うと申し訳なさそうな顔をした。

「松林にいたの。我慢できなくてごめんね」

 おれは「しかたないよ」とこたえた。

 おれが竜の水槽の掃除をしている間に、妹はずいぶん落ち着いたみたいだった。次に顔を合わせたときには、妹はちゃんと手を洗って、血塗れになった服も着替えていた。

「兄さん、逃げなよ」

 伏し目がちにそう言った妹は悲しそうで、山百合みたいに綺麗だった。

「逃げないよ」

 そう言い返して手を握ると、妹はしくしく泣いた。

 男の死体を埋める場所には困らなかった。おれが山の中に穴を掘っている間に、妹は何日か前におれが街で買ってきた新聞を引っ張り出し、印刷の粗い写真を指して「このひとだった」と教えてくれた。逃亡中の囚人だった。

 写真の中の男は、あんまりいい人相じゃなかった。たぶん悪いやつだったのだろう。できればものすごく悪いやつであってほしいと思った。


 おれは毎日屋根裏部屋に入った。竜のために水槽の水を替え、水温をなるべく冷たく保った。

「おまえ、おれたちに感謝しろよ」

 そう言うと竜は尖った口をくねらせ、黄色い猫みたいな瞳でおれを見て、「まぁな」と言った。竜は尻尾が焼けてしまったので、もう自分では飛ぶことができないという。だからこの水槽を出たら、地上の熱に触れて死んでしまうのだ。

 もっとも「感謝しろ」はおれじゃなくて、竜の台詞かもしれなかった。そいつの稼いだ金で、おれは必要なものを買うばかりじゃなく、一度は辞めた学校にもう一度通い始めた。学校を出ておけば、いつか竜が死んだり逃げたりして月光を集められなくなっても、いい仕事に就いて妹を食わせてやることができるかもしれない。実際、妹を食わせていくのはけっこう骨だった。竜を拾う前は、いやなことを色々しなくちゃならなかった。

 妹は人間と獣の境目をうろうろしながら、おれが買い与えた豚の喉を食いちぎったりして、なんとかかんとか人間よりの生活をしていた。おれの顔を見るたびに、妹は「兄さん、逃げなよ」と蚊の鳴くような声で言った。

「大丈夫、逃げないよ」

 おれは決まってそう返した。本当にそうでなきゃならなかった。おれが面倒をみてやらなかったら、妹はそのうちこの家を出て行って、まず麓の街をめちゃくちゃにするだろう。ふつうの銃や刃物じゃ、妹を殺すにはとても足りない。

 ともかく今は竜だった。月光のおかげでおれは妹のために豚やら山羊やらをまるごと買ってやれるようになったし、学校に通えるようにもなった。こういう暮らしをずっとやっていけたらいいのにと祈っていたが、それは虚しい祈りだとまもなく知った。


 最初は日焼けかと思った。日中外に出ていると、皮膚が赤くなってひりひりと痛む。そのうち日焼けというより火傷のようになってきて、何かと思えばおれに竜の体質がうつったらしかった。

「そういう事例がいくつもあるんだよ。だから竜は危険だって、よく言うでしょうが」

 駆け込んだ病院で、医者にそう言われた。「あんた、そのうち夜になると、月に引っ張られるようになるよ」

 治療法はないらしかった。

 おれは滅多に家から出られなくなった。昼間は皮膚が焼けるし、夜になると体がふわふわ浮いて空に吸い込まれそうになる。これが月に引っ張られるってことらしい。外出できるのは分厚い雲で月が見えない雨の夜と、それから新月の夜だけだ。月光を売るためにおれは夜間のうちに商人を訪ねなければならず、当然深夜に押しかけられた商人はいい顔をしない。

「じゃあ、都合のいいときにうちまで来てくれ」

 そう言った翌月、商人は本当にうちまで――ただしおれに前もって断るのを忘れた上でやってきた。男の悲鳴を聞いて部屋から出ると、妹が商人の喉笛を噛みちぎったところだった。

「兄さん、逃げなよ」

 絶望でいっぱいになった瞳で、妹は言った。

 商人が来なくなって、どこに月光を売ったらいいのかわからなくなった。外に出てそういう相手を探すための時間は少ない。なにしろ、おれが外で過ごせる時間は少ないのだから。かと言って、妹を人間がたくさんいるところにやるわけにはいかない。まともに買い物もできなくなったおれたちは、あっという間に暮らしに困り始めた。

 妹は近くの川で魚を捕ったり、きのこや木の実を拾ってきたりしてくれた。けれど、まともな暮らしをしているとは言い難くなってきた。

「兄さん、逃げなよ。次は兄さんかもよ」

 ある日、妹がそう言った。おれがやっとの思いで探し出してきた新しい商人が、血塗れになって床に転がっていた。

 この世界におれたちふたりが生きていける場所なんてないのかもしれないって、このとき本当にそう思った。


 月光は無駄に溜まった。金色のシロップを小さじ一杯口に含んでみたら、とんでもなく甘くて眩暈がした。目を閉じると、瞼の裏が金色になって頭の奥がちかちか光った。

「一度にそんなに飲むと、死ぬぞ」

 ふらふらしながら屋根裏に行くと、竜はおれをじろりと睨んでそう言った。正直、これで死ぬならそれでもいいと思った。酩酊して、月の光の幻を見ながら死ぬのなら。

 このときそれでもいいやと思って、でも実行しなかったことがおれの駄目なところだった。

 翌朝起きてみると、妹が死んでいた。傍らに匙が落ちていて、金色のシロップが唇の端からこぼれていた。

 妹は昨日、おれと竜の話を聞いていたに違いなかった。銃でも刃物でも死ねない妹にとって、月光で死ねるという報せはきっと僥倖だったことだろう。それでもおれは一緒に生きていてほしかった。

 おれは三日三晩泣き暮らした。妹はたったひとりの肉親だったし、おれたちは今までずっと仲良くやっていた。三日間考えて、妹が死んだのは、「兄さん、逃げなよ」を打ち消し続けたせいだという考えに至った。「兄さん、逃げなよ」を素直に聞き入れていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。おれが妹を殺したのだ。

 三日後、竜の水槽の水を替えていないことにようやく気づいた。屋根裏に行くと、竜は「お前、もう寿命がないな」とまっすぐに言った。

「でも、死ぬ前におれを重力の外側に連れてってくれよ。一度そこまで行ってしまえば、おれはもう大丈夫、尻尾がなくても空を泳げるから」

 竜はそう言った。おれは相当ぼんやりして、足元なんかふらふらしていたけれど、竜が望んでいることはちゃんとわかった。

「そういえば今日は満月だな」

 おれが言うと、竜は大きくうなずいた。


 音もなく夜がやってきた。よく晴れて、明るい満月がぽっかりと空に浮かんでいた。

 おれは水槽から竜を取り出してしっかりと抱き、それから丸窓の前に立った。それだけで体が引っ張られる感じがして、おれの両足が床を離れた。

 おれは丸窓を開け、竜を体に巻きつけたまま、屋根裏の窓からふわふわと外に漂い出た。あっという間に松の林を越え、家はもう見えない。急に不安になったが、胸の中に竜がいると思うと安らかな気持ちに変わった。

「だんだん涼しくなってきた」

 気持ちよさそうに目を細めながら、竜が言った。

 遠くに見えていた山が見えなくなった。代わりに、星がおれたちの周りを囲んで光っていた。頬を撫でる風が氷のように冷たい。それでも竜の体質がうつったおれには、その温度がけっして苦痛ではなかった。大きくて優しい手に包まれて、空の高いところへ連れていかれるような気分だった。

 どんどん寒く、だんだん眠くなってきた。

 竜はおれの胸から首にしっかりと巻きついたまま、おれの横顔をじっと見ていた。

「凍りかけているな。頬に霜がくっついてる」

 そう呟くと竜はおれの耳元に口を寄せた。

「お前、もうおやすみ」

 囁かれた途端、不思議と何もかもが許されたような気がした。

「じゃあ、おやすみ」

 おれは目を閉じた。

 月光を飲んだわけでもないのに、瞼の裏が一面金色になって、頭の中がぴかぴか光った。それから昔、まだ生きていたころの母さんが子供部屋の灯りを消しに来たときみたいに、ふっとすべての光がなくなって、辺りは永遠に真っ暗になった。

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