第2話第二章 冬至の予兆

 季節はやがて冬へと移り変わり、冷え冷えとした色を深めていく。

 蒸気機関車が校庭に座して二月が過ぎた。雪で塗装された校庭の中には今日も彼女が佇む。

 冬至を迎えんとする日の朝、まだ児童たちが校門をくぐる前の時間。撫子が蒸気機関車の前へと校門をくぐって現れた。

 この日の撫子の像は薄藤色を基調とした小紋に臙脂色の行燈袴を合わせた装いであり、黒髪は後ろで一本の三つ編みに纏められていた。

 平時、郷の総鎮守の眷属において身に着けるべき装束の定めはない。撫子も、貴路も、他の眷属も、その時々の気分次第で霊体の像を調整し過ごしている。

「おはようございます、伊緒いお

 撫子は目の前の蒸気機関車へと挨拶した。それに応えるように女の姿が現れる。黒い塗料を塗したような長髪に、車掌の制服を婦人服に変形させたかのような衣装。小学校に座す蒸気機関車の自我の投影であった。

 伊緒という名は蒸気機関車自らが提案した仮名である。

 彼女にとっての真の名は蒸気機関車としての型番名を置いて他にない。

 しかし、人間霊、あるいは有機生命に近い自我の在り方を持つ霊体と対話を重ねるにおいて、蒸気機関車は若干の引っ掛かりを覚えていった。

どうやら、彼らにとって彼女の真名は呼び名として捉えにくいようだと察せられたのだ。それはモノの名称であり、人格に紐づけられる名前ではない、と。

それは蒸気機関車にとって共感しがたい機微ではあったが、彼らの価値観に寄せた別名を増やすことは彼女にとって忌避感をそそるものではなかった。

そもそも広く親しまれた汽車に愛称がつくことは珍しくない。汽車にとっても、愛称とは有用性と親愛を認められた勲章とも解釈できるものである。

そう考え、あつらえた人間名風の『愛称』が伊緒であった。


「おはよう、撫子。朝の見回りかしら?」

 この小学校ならば瞬間転移により入り込むことも可能な撫子が、生者の如く徒歩によって校門をくぐった。伊緒、あるいはこの小学校にのみ用があっての外出ではなく、彼女自身が通ることに意味があると察せられた。

「そうですね。特に今日は冬至ですから、平時にはない何かしらのゆらぎが現れるかもしれません」

「あら、そういうものなの?」

 汽車である伊緒にとって人間社会の暦は重要だ。たとえば今、年末ならば、帰省などによる需要の増加により臨時増便がなされるように。

 だが『冬至』という、自然現象に基づく季節遷移の節目については意識することがなかった。特にそれが持つ霊的な意味となると全くもって守備範囲外の知識であった。これまで人間社会に溶け込み遣われ、自然界の法則やヒトならぬ住民に思いを馳せる必要すらなかった在り方をしていたのだから。

「はい。夜が最も長くなる冬至は陰の気が極まる日。陰そのものは現世の一要素としてなくてはならないものですが、均衡が陰に大きく傾くことで、日頃は平静を保っている地であっても陰気の影響を受ける場合があります。もちろん、何も起きないことが多いですが……均衡が崩れる前兆を認めたら、夜が来る前に対応しなければ」

「夜は陰の時間、だから?」

「そうなりますね」

「ふぅん、夜は夜だし、冬は冬としか思えないけれどね……わたくしからしたら、特に何か起きているようには思えませんわ」

「それは何よりです。ですが念のため校舎の中まで調査いたしますね」

「それがいいわ。わたくしは色々と解っていないでしょうしね」

 伊緒は笑みを浮かべつつ、穏やかに言葉を返した。蒸気機関車の中に形成された付喪神と神に仕える人間霊。無数の人間から醸成された念の結晶と、時を超えて生まれ直し死に直す天然の魂。性質の違いなのか練度の違いなのか、伊緒と撫子は相互の対話こそ可能だが、何かしら感覚器に例えられるものの違いがあるようであった。

「ありがとうございます。ところで、伊緒。学校はいかがですか?」

 撫子もまた柔らかに、そして労わるかのように尋ねた。

「とても居心地がいいわね」

 伊緒は目を細め、甘い響きの声音で返した。

「子供たちはわたくしに目を向けて、構って、愛してくれる。務める大人たちも、道行く人間たちもね。走らなくても、運ばなくても、ここに留まっているだけで価値を見出される。それが記念碑となることなのね」

 細く吐き出された声。そこに安息と感謝の念は確かに含まれていると感じられたが、同時に静かな寂しさを帯びていた。

「わたくしのこの人を模した意識の体、最初は本当の体の側から離れることができなかったの。でもこのところは学校の敷地内なら離れて行動できるようになってきたのよ。すぐそばを走っている線路には立ち入れないのにね。……この学校の一部になったのだと実感できたわ」

 目を閉じ、言葉を切る。数秒の沈黙の後、伊緒は微笑んだ。撫子は真摯な面立ちで伊緒を見据えている。

「湿っぽくなってしまったわね、ごめんあそばせ。ここに招かれたことをありがたく思っているのは本当なのよ。では撫子、気を付けてお勤めなさってね」

「はい。伊緒、お話をありがとうございました」

 そう温かく告げて丁寧に礼をし、校舎に向けて歩みを進める撫子を伊緒は見送った。

 どんなに愛を実感し、安息を覚えても。

 汽車の本能、汽車として造られた事実そのものにより指向された彼女たらしめる意識の核は、どうしても生来の役目に縛られてしまう。走ること。運ぶこと。それをもって人間社会を循環させること。それを為せていない現状の、座りの悪さ。

 時代の要請だと理解はしていても、かつての己を思い起こすたびに、内燃機関がうずきを上げるように錯覚するのだ。もはやそこに石炭が納まることも、機体が熱を帯びることもないのにも関わらず。

 伊緒はうずきを振り切り、眠りに就こうとするかのように意識体を本体に溶け込ませた。


 撫子は校庭を進み、校舎へと立ち入った。

 学校内に居住する、人間ならざる意識体は伊緒だけではない。

 座敷童ならぬ学校童。校庭の木立や岩陰に巣を定めている一般の霊獣や霊鳥、そして樹木そのもの。音楽を糧とする妖精、子供らが大地を蹴る振動を食む妖怪――その他様々な性質を持った、多数の共存可能な霊体たち。撫子が生者としてこの地で学んでいた頃から一貫して住み着いている霊体もいる。

 既に馴染みである彼らに挨拶をしつつ撫子は校内を進む。教師もまだ出勤していない、学び舎として目覚める前の校内はそれでも賑やかであった。

 この小学校は複数の棟が中庭を囲むように組み合わさって構成されている。

 撫子は最も新しい棟の一階から順に見回っていったが、その時から既にかすかな歪みの気配を感知していた。

 校内に棲む妖精・妖怪たちにも状況を聞き取りながら調査を進めていたが、彼らからは特に異変を訴える声は聞かれなかった。霊体にも影響を及ぼさない微小な歪みか、彼らが感知できる範囲外の歪みか。

 新校舎は屋上まで巡回しても特に異常は認められなかった。しかし、微妙な歪みの気配はついて回る。

 撫子は一階に降り、気を引き締めつつ今度はもう一つの校舎――新校舎よりも数年早く完成し、まだ古びた様子がない――に向かう。

 その校舎の三階、突き当たりの壁に歪みの発生源を認めた。

 生者の五感では捉えられない、水面の波紋のような小さな歪み。その中央から微小な瘴気が噴き出ている。

 陰に寄った気が満ちる、生命の住まない小世界と偶発的に繋がり自然発生した歪みであるようであった。

 この規模なら撫子一人で即時対応可能だ。

 撫子は右手を胸の前に差し出すと、己の内側から神気を抽出する。撫子は人霊であるが、眷属として神と民、土地に奉仕することでわずかながら神気の素養を身に着けてきている。細やかな煌めきを発する淡い金色の気が撫子の輪郭に沿って湧き立ち、やがて右手に収束されていく。

 撫子は右手に集まった金色の気を歪みの波紋に当て、塗り込み伸ばすように手を動かした。

 壁に重なって浮かぶ波紋はやがて平坦になり、完全に姿を消した。後には金の光の塗料だけが残る。この光も時と共に霧散していくはずだ。

 学校内の歪みの兆しは消えた。

 次はすぐ近くの料亭に赴くか。そう判断し、下り階段に差し掛かった時。

 ずん、と不可視の衝撃が奔るのを認めた。

 撫子は衝撃の発生源を探る。

 至近距離――蒸気機関車の安置所からではないか。

 撫子は己の像を空間に溶かし、蒸気機関車、伊緒のところまで己を移動させた。


 伊緒は眠る。

 否、本当の意味の眠りではない。

 眠る真似だ。思考と情動をとろかせ休ませようという試みだ。

 他の誰も立ち入れない伊緒だけの精神領域に、彼女は全霊で引きこもる。

 ここには伊緒しかいない。全てが伊緒のもの。

 伊緒の精神の寝床は運転室を象っていた。

 像を結ばぬ伊緒の自我だけが仮想の運転室に満ちる。

 そのはずなのに。

 知らない誰かの声が聞こえた。思考が割り込んできた。


――もう一度――

――もう一度走れるならば、キミは――

――その世界を、選べるとするなら――


「……伊緒っ!」

 その声をかき消したのは撫子の鋭く粗ぶった呼び声であった。

「……撫子? 貴女、そんな大声出せたのね」

 伊緒は意識を外界へと向け、人型の像を結ぶ。顕現するや否や撫子は強く伊緒の両肩を掴んだ。

「伊緒、何か襲われたり、そうでなくても異様なモノが出てきたとか……何かありませんでしたか⁉」

「襲われてはなくてよ、この通りさっきと同じ調子でしょ? あ、でも……」

「でも⁉」

「何者かに声を掛けられた気はしたわね。もう一度走れるなら、とか……」

「他には?」

「わたくしが認識している限りでは、特に何も」

 そう答えると撫子は厳しい顔で考え込む様子を見せた。伊緒の肩から手を放し腕を組む。

「歪みの気配はもうない。一瞬だけ異界と繋がった? 上の歪みのような不毛の世界ではなく、敵性の魔が住む世界かしら……そこの魔に接触を図られた?」

 ぶつぶつと声に出してはいるが、伊緒へと向けた解説ではなく、彼女自身が思考を整理するための言語化であるようであった。

 思案する撫子と状況を飲み込めない伊緒のもとに、人型の小さな霊体が近寄ってきた。

「松坂のお嬢、汽車の姐さん!」

 少年の、かすれ気味だが愛嬌のある声音。丈の短い簡素な縹色の着物。小学校中学年といった年頃の顔立ちと体つきをしているものの身長は明らかに小さく、六十から七十センチ程度しかない。

 彼こそ、座敷童の種に属しながら学校に住み着く『学校童』喜助きすけであった。撫子がこの学校に通っていた頃には既に住み着いていた古株である。

「おいら、見ましたぜ……汽車の姐さんの側に変なのが出てきたの」

 焦りと困惑を宿した表情、僅かに震えた声で喜助は語った。

「喜助、教えてくださりありがとうございます。どのような者でしたか?」

 撫子は動揺を極力抑えようと試みつつ報告を促す。喜助は言葉選びに迷ったのか、途切れ途切れになりながらも語った。

「まずは姐さんの真横に大穴が空いて……そこからすぐ、何だろうな……姐さんの汽車の体ほどの高さの……真っ黒い、砂山? みたいなのが出てきて……すぐに穴に戻る感じで消えました。姐さんに触ったりはせず、ぬうっと出てきてすぐ引っ込んでました」

「詳しいお話をありがとうございます。とても助かりました。……理が大きく異なる遠めの世界かしら……」

 撫子は言葉を区切った後、顔を上げて伊緒に向き合った。

「伊緒、今から一緒に総鎮守まで来てください」

 撫子は重く芯の入った声音でそう言い切った。伊緒は虚を突かれたような心地で目を見開いた。

「わたくしに何が起きたのかを神が直々に検分なさるということかしら。意義は解るけれど……そもそもわたくし、この学校から出られないのだけれど?」

「そこは問題ありません。私と繋がりを保っていれば共に移動することができます」

「あら、そういうものなの?」

「はい。どう説明すれば良いものか悩ましいですが……あなた自身の活動のための力に関わらず、私が牽引していける、とでも例えられるかもしれません」

「わたくしが牽引される側なの? それは妙な気分ね。……撫子、それならばいっそ歩いていきましょう」

「……歩いて?」

「ええ、歩いて。せっかく人間に牽引されるのならば、人間の速度で、線路の通らない街中を歩いていきたいわ。謎の影とやらはもういないし、そんなに焦る道行きでもないのではなくて? 人間の速度で進んでも数分でしょう」

 伊緒を伴っての瞬間移動を想定していたのか、撫子はあっけにとられたように伊緒を見つめ直す。伊緒はどこかいたずらっぽく、照れるように笑んだ。

「あー、合点がいった。汽車は線路の通っていない場所には立ち入れない。だから姐さんは人間の街を中から見たことがないんすね」

 喜助がぽん、と手を叩いて晴れ晴れとした様子で感想を語る。撫子は表情を緩め、いくらか気配を和らげた。

「問題ないでしょう。では」

 そう声を掛けると撫子は右手を差し出した。伊緒は僅かに思考を走らせ、己の像の右手を撫子の右手に重ね、握った。

「人間はこうするのよね? 駅でこう、手を結びあって別れや歓迎の挨拶をする人間たちを見てきたわ」

「その通りですよ、伊緒。それでは参りましょうか」

 女の姿をした一人と一両は手を握り合ったまま校門を出る。喜助はその後ろ姿を楽しげに見送った。

 夜間に降っていた雪はとうに止み、冬の朝陽は一面の薄雲に遮られつつも確かに白い平原を照らす。そこに足跡を残すものはまだ居ない、そんな時間であった。


 撫子と伊緒は連れ立って総鎮守の鳥居を目指して商店街を歩く。共に行動する、接続し合うという意識さえあれば、手を繋ぐ――霊体を触れ合わせることなしに撫子の『牽引』を受けられるようであった。

「この時間ですとまだ商店は開かないですし、人通りもほとんどありませんね」

「確かにね。でも建物の奥で人間が活動を始めているのは伝わってくるわ。車窓の更に向こう側はこうなっていたのね……」

 伊緒がそう呟いた側から、彼女らの斜め前方に位置する商店の引き戸が開き、気力みなぎる様子の中年の女性が満タンのゴミ袋を抱えて新雪にブーツの跡を刻む。その様を見た撫子は眩しそうに、満足そうに目を細め、微笑んだ。

 現役の汽車であった頃、一秒未満で走り去っていた風景の奥を、人間の速度で進んでゆく。霊体である彼女らの知覚は、壁やシャッターの向こうで脈動する生者の生命そのものを感じ取っていた。生活を刻む速度で届く、冬の冷気に乗ってもなお温もりを放つ気配。伊緒にとっては不思議な密度を感じる時間であった。

 十分にも満たない移動時間を経て、二人は総鎮守の鳥居へと辿り着いた。

「そういえば、気になったことがあるのだけれど」

 鳥居の前で立ち止まった直後、伊緒が鳥居の横の看板に目を向けつつ、ぽつりと口にした。看板に記されているのは総鎮守の由緒について。

「どうしましたか?」

「このお社には『国生みの夫婦神』が祀られている、とされているわね」

「はい」

「この先に……本当にその、夫婦神がいらっしゃるの? 創世神話の存在が……この郷に? わたくしがお会いしたことがないのはともかくとして……学校の民からも、ここに夫婦神がおられるなどとは一度も聞いたことがないわ」

 伊緒が纏う感情は畏れではなく、困惑と疑いの色に近かった。

 撫子は思案を巡らせ、言葉を探る様子を見せた後で口を開いた。

「仰る通り、こちらに国生みの神は居られません」

 伊緒は納得感を溢れさせつつ頷いた。

「そうよね。やはり人間が勝手にそう思い込んでいるだけということなのかしら?」

「思い込んでいるだけ、とは言えませんね。国生みの神がここに居られると信仰すること自体が夫婦神との繋がりを創り、祈りと加護を循環させる回路となっているのです。なので、夫婦神との繋がり自体は確かにあります。夫婦神がこちらに留まり統べておられる訳ではない、ということです。実際にこちらに居られるのは……」

 つるつると語りを続けていた撫子であるが、不意に口を閉ざし、目を見開いて鳥居の向こうを見やった。信仰についての講義の飲み込み方が分からずにいた伊緒であったが、撫子が口を閉ざした理由は瞬時に理解できた。

 鳥居に一歩踏み入る程度の位置、参道の中央に、一つの……否、一柱の霊体が佇んでいた。

 青年とも、淑女とも解釈できそうな、端正な若い顔立ち。背中まで伸びた梔子色の長い髪を背中に流している。純白の生地に銀糸の刺繡が施された狩衣を纏い、赤瑪瑙のような宝玉があしらわれた頸飾を身に着けている。すらりとした立ち姿の輪郭は燐光を帯び、周囲の光景から浮き上がっているように思わせられる。

 人の信仰を解さない伊緒ですら、説明を要さずとも飲み込めた。

 これが神なのだと。

 霊体が、自我が、当然の如くそうだと理解した。

 撫子は眼前の神、総鎮守の主に向けて深々と頭を下げる。伊緒は動かなかった。思考ごと射竦められ、動くこと――反応を現出させることができなかった。

名残なごりの門が開いた」

 神は淡々と彼女らに思考を送った。人の声に喩えるならば、高音の男声のような、低音の女声のような、玄妙な響き。

「既に門は去ったが処置はしておく。此度の冬至においてはもはや繋がらぬが、春分に備えよ。断ち切るべきも彼の時。撫子は哨戒を続けよ」

 神はそう告げると、相変わらず動けずにいた伊緒に近付きその額に触れた。刹那、何かが弾かれたような衝撃を認め『目が醒めた』心地を覚えた。

 束縛から放たれた伊緒は反射的に左右を見渡すが、既に神の意識体は掻き消えていた。


「今のは……?」

「例の魔物がまた干渉してこないように魔除けの加護を授けてくださったのですよ」

 撫子は安堵した様子で答えた。

「土地神様があのように仰った以上、今日はもうあの魔物の再来はないでしょう。仮にあったとしても土地神様が直々にお力添えくださいます」

「そう……なのね。言われてみれば、何か一枚、温かいものがかぶせられているような心地がするわ」

 伊緒は己の意識体をじっと検分しつつ言葉を続けた。

「何故神は眷属を遣わすのか、何となく解った気がするわ。あのような力の塊が、わたくしのもとに気軽に日々の挨拶に来ていたとしたら……わたくしの自我は崩れてしまっていたかもしれないわね。神の下に勤めている人間は平然としているというのに」

「生きた人間は肉体が防壁として働きますし、強力な神気であってもただ浴びるだけなら魂に危害は及びません。むしろ浄化や活力の充填といった良い影響に預かれるでしょう」

ですが、と続ける撫子の表情が僅かに陰った。

「付喪神の魂の在り方や結びつきは生物の魂とは異なります。発展途上の魂が強力な神気を浴び続ければ、場合によっては解(ほど)けてしまいかねません」

 撫子が語り終えると、それを受けて伊緒はやや意地悪気な笑顔を浮かべた。

「なるほど、それで人形供養が成り立つのね。そしてわたくしも、害になる素振りを見せたらいつでも『供養』して、空っぽの蒸気機関車に戻せるということね」

 おどけた調子で、笑いを含ませながら語る伊緒に向かい、撫子は焦ったような声を上げる。

「伊緒、土地神様はあなたとの共存を望んでおられます」

「そう思ってくださっているから魔除けの加護もいただけたのでしょうね。でも当初は供養も選択肢にあったのでしょう? それで貴女を遣わせたのよね」

「それは……」

 撫子は口ごもり、俯く。そして後ろめたさを振り切るかのように、意を決した様子の強い瞳で伊緒を見つめた。

「はい。その通りです」

 それを受けて伊緒は満足げに頷いた。

「誠実に答えてくれて嬉しいわ。責めるつもりは全くなくてよ。総鎮守には土地と人間の生きる世界を守るという役目があるのだものね。異例の新参者を警戒するのは当然の姿勢だわ」

 伊緒からは怒りも悲しみも失望も伺えない。ただ、何かに期待するように、煽るように撫子に視線を送った。

 撫子は息を大きく深呼吸して――呼吸しない霊体の身であるが、そういった身振りを見せて――更に答えた。

「正直に言います。私があなたに接触したのは、あなたに小学校の守護者となっていただきたいという総鎮守の意向があってのことです」

「あらまあ。そこまでわたくしを買ってくれていたの?」

 伊緒は心底意外そうに呟いた。

「はい。多くの念が降り積もって形成された付喪神はそれだけで強力な存在です。土地神様はその力を、この地の守護に活かしていただきたいとお考えです」

 そして、と前置きし、撫子は垂れた右腕に力を込めて握りしめ、伊緒を見つめた。

「私はあなたが守護者となるよう誘導する命を受けています」

 怯えを奥に秘め、それでいて決然とあろうとする撫子の表情と声。伊緒はそれを受けて自然な笑みを見せた。

「ありがとう」

「……え?」

 撫子は目を丸くしてそう漏らした。覚悟していた答えと随分と違う色の反応が返ってきたのだろう、と思わせるような態度であった。

「貴女の本当のことが知りたかったの。貴女はとても良くしてくれたけれど、何か隠し事をしているように見えたのよ。だからそれを覗きたくて、困らせるようなことを言ってしまったわ。だから……ありがとう。本当のことを教えてくれて」

 晴れ晴れとして語る伊緒を前に、撫子の頬が赤みを帯びていき、双眸が潤んでいく。撫子はやや震えた、しかしそれを律するべく務める調子で、ぽつぽつと語り出した。

「私、汽車と友達になれたら素敵だなと思っていたの。それで、汽車にしか見えない世界を教えてもらえたら楽しそうだなって……そして、お話しているうちに、汽車じゃなくて伊緒ときちんと友達になりたいって思うようになって。でも私はあなたを利用しているのだから、そんな資格はないとも言い聞かせていて。そのくせに、立場に徹しきれず、今こうしてバラしてしまって……」

 心の欠片を拾い集め、言葉に変換しては吐き出していくといった様子の伊緒。瞳の潤みは更に増していく。

「撫子が間違えたとするなら、それはたった一つじゃないかしら」

「一つ……?」

 明るく割って入った伊緒に対し、撫子は飲み込み切れないような問いを返す。

「早いうちにわたくしに『守護者になってくれ』って頼まなかったことよ。初対面の挨拶と同時に……というのは流石に拙速だとは思うけれど。貴女、わたくしが小学校のために働くことを惜しむ輩だと評価していたのかしら?」

「そういう訳では……」

「そう見込んだのならさっさと言ってしまえばよかったの。まぁ、総鎮守に隷属しろ……という意味合いだったら、それは簡単に頷けないけれどね。でも小学校のために働くのに異論はないわ。わたくしを愛し、迎え入れたくれた人々だもの。汽車としての本来の働きではなくても、役に立てることがあるなら光栄よ」

呆然とした様子で聞いていた撫子の右手を伊緒の両手がそっと包み込む。

「伊緒……ありがとう、ございます」

 撫子の目の潤みは喜びと安堵の色を帯び、静かにひとしずく流れた。撫子は思いを掬い撮るかのように左手で伊緒の手に触れた。

「とはいえ、具体的に何ができるかといえば……悪しき霊体が入り込んでいないかの見回りくらいかしらね。人間に声は届かないし、魔法じみた力も持っていないし」

「十分です。その気持ち自体がきっと力となります」

「ありがとう。じゃあ、これで貴女としても気兼ねなく友達をやっていけるわね?」

「……はい!」

 二人は零れるような笑みを交わし合った。冬の太陽は雲の天幕の奥で高度を増していくが、まだ登校中の子供たちが総鎮守の前に差し掛かる時間には早い。

「ねぇ、ついでに牽引していってほしい所があるのだけど、よろしい? もちろん仕事の邪魔はしないわ。連れて行ってくれるだけでいいの」

「私が行ける場所なら送りますよ。帰りたくなったら、念じるだけで汽車の体のところに戻れるはずです」

「ありがとう。わたくし、駅の内側が見たいわ。汽車が入れない、人間たちが行き交う部分をね」

 撫子は深く納得したように頷いた。

「確かに、あなたにとっては一番気になるところでしょうね」

「汽車の工場とかも見て回りたいけど……それはこれから、いつでも機会があるだろうし。今日は駅の中に入りたいわ」

 撫子は屈託のない笑みを見せた。

「駅は見回るよう任じられていた範囲のうちです。先に学校近くの料亭を調べてから、とも思っていましたが……まずは駅からにしましょうか」

「ええ、歩いてね」

「はい!」


 そうして駅の方角に歩を向けた二人の前に、いくばくかの神気を帯びた、しかし人間であると解る霊体がふっと現れた。

「やあ、撫子。順調ではないか」

「おじいさま!」

「……おじいさま?」

 現れたのは髷を結った和装の老人、松坂貴路であった。貴路はにこやかに伊緒に向かい合う。

「貴女は汽車の付喪神だね? 伊緒、と名乗っているんだったか。お初にお目にかかる。私は総鎮守の眷属、松坂貴路と申す。撫子の先祖でもあるね」

「先祖……ああ、それで」

 伊緒の視線は主に貴路の髷へと向けられていた。

「今更散切り頭にする気も起きなくてね。まぁ、古い人間だということは解ってもらいやすいだろう?」

 貴路は朗らかに笑いながら返した。

「おじいさま、申し訳ありません、私……」

 撫子が決意を固めて言葉を綴ろうとしていたところを、からりと貴路が遮る。

「何を謝る必要がある? お前は任を善き形で果たしたではないか。伊緒の協力を取り付け、更に絆も深まった様子」

「何故それを……あ、」

 撫子は我に返ったように鳥居に目をやった。

「まさか気にしていなかったのか? 神域の外側とはいえ、鳥居の前で熱く語らっていたら捕捉するのは容易だろう」

「申し訳ありません、お見苦しい様を……」

「いやいや、見苦しくなどない。正直さは神の心に適うものよ。他者の心を動かすものとは結局真心なのだ。お前はそれができる眷属であると我らが神も見込んでおられるよ」

 にこやかに告げる貴路を前に、撫子は顔を赤らめて黙り込んだ。

「では、私はこれで。病院の哨戒に向かう。場所が場所であるし、古寺の眷属の協力を取り付けた。これから落ち合うよ。それではな」

 貴路は現れた時と同じように、ふっとその場から消え去った。

「……神の力に近いものは感じるけど、やはり根が人間であるだけでも全然違うわね。人間の感覚で例えるなら、息のしやすさが違う……とでも言えるかしら」

 伊緒は空を見上げてぽつりと漏らした。


 伊緒の望み通り、二人は街の中心駅に向けて歩みを進める。人通りは更に増し、街の活動の始まりを力強く伝えてくる。

「ところで、何故春分に気を付けなければならないの? 夜が陰ならば、むしろ春分ならば半々で調和が取れそうなのに」

「だからこそ、ですよ。陰陽が等しくなれば境界が混ざり合い薄くなる。冬至は陰に満ちた世界との境界が近くなりますが、春分も秋分も、彼岸は全ての世界、特に冥界との境が薄まるのです」

「まあ! そんな相反し合うような理屈がどちらも通るなら、この世に平穏な時なんてないのではなくて?」

「……そうとも言えるかもしれませんね。理は重層的なもので、現世は動き波打つからこそ生きた世界と言えるのですから」

「……貴女たちが常に忙しい、ということだけは分かったわ。ついでに、あの土地神は何者なの? 夫婦神とは関係が?」

「この土地の生気の根源に繋がるもの、ですかね。その中でも、人間が形作る想念に寄り添う存在です。だからこそ総鎮守は人間が形成してきた『郷』の守り手なのです。私たちのような人霊ではありませんが、その欠片がかつて人として生きたことがあると聞いています。夫婦神とは……人間の信仰がもたらす循環の中継点として関わっていますね」

「ありがとう。訊いておいてなんだけど、よく理解しきれないわ……わたくしの基礎知識が足りていないのね」

 そのように語らいつつ歩いていると、十分と満たぬうちに駅に辿り着いた。通勤、通学の乗客が駅舎に吸い込まれ、吐き出されていく。ここに駅の呼吸があった。

「撫子はここで仕事をするのよね。わたくしは駅を眺めて回るわ」


 伊緒は思うがままに駅を味わった。待合室の掲示を眺める。椅子に座る。窓口の内側、駅員の詰所にも入り込み、汽車の体を以てしては決して覗くことができない部類の仕事を観察する。改札をくぐる。ホームに立つ。利用者の会話や交わす感情に精神を沿わせ、ひとつひとつの心と人生を実感する。

伊緒はひとしきり人間の活動を堪能すると、次は通勤通学需要に応えるべく往来する弟妹の働きを眺め始めた。幼き気動車たち。声を掛け、彼らの自我と接続する。伊緒に比べると彼らの自我はまだまだ薄いが、誇りと喜びの色を示す感情が流れ込んできた。それは伊緒も抱いていた感情であった。


「まだここに居たのですね」

 検分を終えたらしい撫子が、ホームの椅子に腰かけて人と列車を眺めていた伊緒に声を掛けてきた。

「ええ、いくら居ても居足りないわ。でもそろそろ頃合いね。とっくに学校に子供たちが集ってくる時間だものね。そちらも見ていて心地良いものよ。そちらのお仕事はどうだったの?」

「いくつか小規模な歪みは見つかりましたが、駅は毎回こんなものです。多くの念と命が行き交うので、異界を呼びやすい環境となっているのですよ。ですが大事に至る兆しは認められませんでした。小さな歪みも補修済みです。私は次の要所へ移動しようと思います」

 そう語る撫子の表情には余裕と平静さが見受けられた。消耗してはいないようであった。

「そうなのね。お疲れ様。……ねぇ、撫子。お別れの前に、もう一つ訊いておきたいの」

「何でしょうか?」

「撫子は何故眷属をやっているの? 神のご指名があったにしても……貴女の仕事を支えている感情は何?」

 撫子は意外そうに伊緒を見つめたが、すぐに頷くと、遠くを見つめて口を開いた。

「たった今、改札に立ち切符を改めている男性。彼は熊倉良太さんと言います。彼の父親は熊倉隆太郎くん……私の尋常小学校での同級生です。あまり接点はありませんでしたが、力強い男の子でした」

 伊緒は真摯に撫子の横顔を見つめる。撫子の目線は遥か過去を見つめているようであった。

「神社に向かう道で見かけたゴミ捨て中の女性は長谷川裕子さん。彼女の叔母、穂刈道子ちゃんは近所に住んでいた一つ下の子でした。あやとりも折り紙も上手だった」

 その瞳に籠るのは旧懐と、憧憬と、哀切であり、その土台には慈愛があった。

 撫子は伊緒に向き直ると、きっぱりと言い切った。

「これが理由です。私と縁があった人、同じ土地、同じ時代に生きた人たちと、その後に連なる人たちの支えになること。それが今の私の誇りです」

 言い切った後、僅かに間を置き、微かに頬を赤らめながら続けた。

「……今はそう言い切れますが。最初の動機は……愛した人のためですね。生涯で最も強く惹かれ求めた……友人です」

 撫子の心情を聞き届けた伊緒は、大いに満足した様子の晴れやかな笑みで述べた。

「素直で非常によろしいわ。教えてくれてありがとうね。……貴女が愛した人、気になるけれど。今は訊かないでおくわ。乗り気になったら教えて頂戴」

「そうします。撫子もそのうち会えますよ。まだ、この地で生きている方ですから」

 撫子は四十数年前に、二十にも満たずに命を落とした。

 即ち、彼女と同じ時間を生きた人間のいくらかは、未だ人生の途上なのだ。

 生者としては閉ざされた時間の先を、死者として、眷属として伴走する。命はなくても、過去に留まらず、共に未来へと進めていける。

 それが今の撫子の喜びであり、誇りである。伊緒にもそう感じ取れた。


「ねぇ、撫子。この街を支える使命感は伝わったのだけれど……それはそれとして、旅行に行きたくはなくて?」

 伊緒は待合椅子から立ち上がり、ホームの際に寄ると空を仰ぎ見た。

「貴女は生きている間、この街からほとんど出なかった、鉄道を利用したのも港の街に出る時だけだった、というようなことを言っていたわね? そして見たところ、今もあらゆる場所に転移できる訳ではなさそうよね」

「そう、ですね。転移できるのはある程度、私自身の自我に強く刻まれた場所だけです。空間を歩くように動けばどこにでも行けますが、私もお役目があるので遠くにふらふら出歩くことはできません」

 若干の戸惑いを見せながら応答する撫子に対し、伊緒は包み込むように笑った。

「行けないとは分かっているわ。尋ねているのは行きたいのか、行きたくないのか、よ」

「それは……行きたい、です」

 撫子は控えめに、それでいてはっきりと望みを告げた。伊緒はこの日一番の眩しい笑顔を見せて、楽し気に伝える。

「では行きましょう。わたくしが乗せていくわ」

「伊緒、が……?」

 撫子は伊緒の提案を推し量ろうとしてか、じっと伊緒の黒炭色の瞳を見据えた。

「ええ、いずれわたくしがまた線路を走る時が来たら、その時に貴女を乗せるのよ」

 そう宣言すると撫子の表情がいくらか強張った。

「まさか伊緒、先程の魔の囁きの影響が残っているのでは……」

 硬い声で問い質す撫子の言葉を遮るように伊緒は大声で諭す。

「違うわ! あのような……といっても見ていないけれど、とにかく得体の知れない魔物の誘いなど願い下げよ。わたくしが期待しているのは未来よ」

「未来?」

「そう。わたくしは今、いつかの時代にとっての未来がやってきたことで鉄路から退場した。でももっと先、わたくしたち蒸気機関車が完全に歴史の中の住人になったとき……日常の足や貨物の要ではないとしても、祭屋台のようなものとしてたまに走らせてもいいかもしれない……と、そう思われる時が来るかもしれないわ。だから、その時に」

 撫子は伊緒の考えを受け止め、緊張を緩めた。視線を空に、伊緒が向いている方角に合わせる。

「言葉通り、人任せにはなるけれどね。でも、わたくしは人の手を介して走る汽車だから。魔物に摂理を歪められるのは御免だけれど、人がいつかそうしてわたくしを引っ張り出す未来は夢見ていたいのよ」

 しみじみとそう告げると、更にもう一段明るい調子で語った。

「勿論、わたくし自身も努力するわ。わたくしの体がもう二度と動くことがなくても……撫子が見せた瞬間移動、あれを体得すればいいのよね。思い入れがある場所に転移できるのならば、わたくしは、わたくしがこれまで訪れた全ての駅に跳ぶことができるわ。その時に貴女を乗せていくこともできるのでしょう? 貴女もやろうとしていたみたいだし」

「確かに、その手もありますね……」

 撫子の眼差しに期待の輝きが宿ってきた。伊緒はにこやかに応える。

「そうでしょう? 何処へ行きたいかしら。会津かしら。庄内から更に先の秋田までも案内できるわ。わたくしはまだ訪れたことはないけれど、新たな路線に導かれれば、親不知を超えて西国へ、三国峠を越えて関東まで連れて行けるかもしれないわね」

「迷いますね。だから……全部行きましょうか」

 撫子は戯れるように軽く微笑んだ。伊緒もそれに同調するように笑い声を上げた。


乙女たちの聴こえざる嬌声を覆い隠すように空気が揺れる。小気味良い振動音を上げて四両編成の気動車が彼女たちの立つホームに入線してきた。伊緒は気動車たちにねぎらいの声を掛けてから撫子に向き直った。

「今日はありがとう、撫子。まだ朝なのに、何だかとても濃厚な時間だったわ」

「私もです。伊緒と話ができて良かった」

「今日の任務が終わったら、学校にまた顔を出してもいいのよ」

「そうしましょうか」

 二人は和やかな微笑みを携え、ひとまずの別れの挨拶を交わした。

「じゃあ、後でね」

 そう告げると同時に列車の扉が開く。先を急ぎ飛び出してきた生者たちと入れ替わるように伊緒は駅から姿を消した。

 撫子は去っていく気動車を見送ると改めて空を見上げた。天球を覆う薄雲の一部が途切れ、柔らかな青空が覗いていた。

 鉄道の街の一日は、既に始まっている。

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黒煙のあだしよ あやや @ayaya1119

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