黒煙のあだしよ

あやや

1969年 秋・冬

第1話第一章 安息の学舎、憧憬の学舎

 汽笛が鳴る。

 僅か一月と少し前までは日々この小学校の校庭に響いていた音。蒸気機関車の吐息が秋晴れに映える紅葉を揺らす。

 今、漆黒の体に熱を漲らせた一体の蒸気機関車が黒煙を吐き出して線路を行く。

 しかしそれが辿る線路は、蒸気機関車が幾度となく巡った旅客線のものではない。

 本来あり得ざる鉄路が、線路沿いにある小学校の校庭に敷かれていた。

 蒸気機関車を終の寝床へと導くために。

 時代は進み、移り変わる。時の流れの示すままに役目を終えたこの蒸気機関車は、蒸気時代の証拠をその身を以て遺すため、今日からこの小学校の校庭に保存される。

 歓声を上げて迎える児童、そして地域住民。

 歓待の中記念式典は進み、蒸気機関車は最後に誇らしげに汽笛を鳴らし、沈黙した。

 昭和四十四年の秋。一体の蒸気機関車が生来の役目を終えた。


 その式典を静かに見守る女が居た。

 しかし、彼女の存在はこの場に集う群衆の誰にも認識され得ない。

 女は肉体を喪った者――生者ならざる者であったのだから。


 魂と、それが保持する自我のみで構成される今の彼女には『本来の姿』などない。

 しかしそれでも、彼女は自身が定義する己の姿――生前の姿を元にした像を結んでいた。

 彼女は物理現象としては存在せず、五感で捉えることも叶わない。しかし、霊的なものに感応する素養の持ち主であるならば、その知覚の中に彼女の姿を投影することができるであろう。

 背中まで伸びた黒々とした直髪は束髪崩しに近い形で纏められている。

 日焼けの兆しのない肌色、肉付きの少ない薄い体格、決して高くはない背丈。

 纏うのは黒い水兵服を思わせる女学校の制服。

 彼女がかつて通い、卒業を認められる前に世を去ることになった女学校。

 彼女の自我の名は松坂撫子まつざかなでしこ

 この土地で生まれ、生を謳歌しきる前に病にて命を散らした娘であった。


 喧騒が去った後、撫子は火が落とされた蒸気機関車にするりと近寄る。向き合うように立つと、不可視の繊手で未だ冷え切らない正面を撫で、慈しむような穏やかな声音で機関車の型番名を呼ぶ。

 撫子の声は空気を震わせることはないが、霊なるものであるならばその意図を受け取ることができる。

「長きに渡るお勤め、ご苦労様でした」

 そう述べると、霊体の手を鋼鉄の車体に重ねたまま続ける。

「私は松坂撫子と申します。この郷を鎮め守る神の遣いです」

 撫子は静かにそう名乗った。

 撫子は亡霊である。

 それと同時に、この郷の総鎮守たる神社――そこに祀られる土地神の眷属である。

 人間は死しても無に還ることはない。

 魂を磨き、高次の領域を目指す責務から降りることは許されない。

 その手段として多くの魂が向かうのが『次の人生』、輪廻転生の道程であるが、撫子の前に提示され、そして選択したのは別の手段であった。

 生前の人格をそのまま留め、現世と繋がりを持ついずれかの神仏の眷属となること。

 無条件で万人に許される道ではない。

 しかし、今世の撫子にはそれを為す資格が与えられた。

 鎮守の神の選定を受けたがために。

 それゆえ撫子は、一女学生としての自我を留めたまま、四十年以上も土地神の遣いとして活動している。

「我が神の名代として、これよりこの地で憩うあなたへご挨拶に伺いました。差し支えなければ、あなたの自我の形を見せてはいただけませんか」

 鋼鉄の無機物、動くことのない機械へと撫子は呼び掛ける。

 だが、この蒸気機関車は断じて『意思なきもの』ではない。霊なるものにはそれが判る。蒸気機関車は生物ではない。しかしこの機体の内には確かに霊性が息づいていた。

 付喪神。

 古来よりこの国の生者に伝わる概念。百年を経た道具には生命が宿るという、化生の伝説。

 霊体の領域においてこれは真実である。霊的存在の知覚により現世を解釈すればそれが視える。

 人間――生物の魂とは異なるものの、それに類似した機能を担う霊的な核を持ち、自我を得た非生物たち。

生物、否、霊体を含めた全ての意志あるものの想念や生気などがモノに折り重なり、凝集したそれらが核と成ることで成立する。

 付喪神と成るまでの年月はそのモノに注がれた想念の濃さ、重さ、多さによって変動する。百年も要せずそう成るモノは数多い。

 生者の伝承に綴られるように『動き出す』『変化する』といった、物理的領域に影響力を持つ付喪神は稀だ。

しかし、自我を獲得する段階に至るモノは決して珍しくない。

この蒸気機関車もその一体だ。

 鉄道を造る者、運営する者、利用する者、愛する者。

 無数の人間の想念を受ける列車が付喪神と成ることは容易い。


 かくして、蒸気機関車は撫子の呼び掛けに応えるかの如く、内なる霊気を波立たせた。

 物理的な観点からは、時と共に熱を失っていくだけの静止した機関車であることに変わりはない。

 しかし、この蒸気機関車は己の機体に触れる撫子の『手を取った』。

 撫子は己の手に蒸気機関車の自我が接触したことを感知すると、手を引いて招き入れるかのごとく大きく一歩後ずさった。

 撫子が空けた領域に、人間の形をした霊的な像が結ばれていく。

 人間の想念を貯めて構築された付喪神は、本体の形に依らず、人間の姿をとった霊体を形成することが非常に多い。

 撫子は口を閉ざしたまま、噴煙が張れるように解析度を増していく霊体の像を注視していた。


 像は女の姿をしていた。撫子よりも頭一つ分は長身で、張りのある恵まれた体躯。

 腰に届くほどに伸びた波打つ髪。その色は蒸気機関車の塗装色をそのまま移植したような光を通さない墨色であった。撫子が持つ東洋人に普遍的な黒髪と比較すると、自然ならざる者であることを主張するかのような徹底的な黒さが際立つ。

 纏う衣服は鉄道職員、更に言えば車掌のそれを思わせるものであった。しかし下半身はジャケットと同じ色合いの柔らかなロングスカートで、帽子の徽章も鉄道職員のそれとは異なる。

 映画女優を思わせる整った顔立ちに、自信のみなぎりを感じさせる凛とした視線を携えていた。

 蒸気機関車の自我の顕れであるその女は、撫子の手を取る形で機体から抜け出すように現れ、すっと背筋を伸ばして彼女の眼前に立った。引いた手を放し、両者が直立したまま向かい合う。


「初めまして、ではないわね?」

 蒸気機関車は撫子を見据えたまま、薄く笑んで語り掛けた。

「貴女の視線をちゃんと感じていたわ。わたくしたちの道の横、あの木立の奥の神社からのね」

 その言葉と共に蒸気機関車は視線を逸らし、彼女にとっての左奥、撫子の右肩の後ろへと向けた。

 彼女の視線が示す先には撫子が仕える郷の総鎮守が鎮座している。

 蒸気機関車が迎え入れられた小学校と総鎮守は徒歩数分で行き来できる至近距離にある。両者はほぼ鉄路に沿うように座していた。

更に総鎮守から鉄道に沿い数分歩くと、鉄道の収束所にして分岐路たる街の中央駅が存在する。

 越後蒲原より山を抜け会津を超え、更には太平洋へと至る道に繋がる鉄路の出発点、あるいは終着点。

 それを含めた三系統の鉄路を束ね、更に車両工場や操車場などの鉄道関連施設も備えたこの駅は交通の要衝として知られていた。

 鉄道の街として歩みを進めてきたこの街に、過ぎ行く蒸気機関車の時代の記念碑となるべく招かれたのが彼女、引退したばかりの蒸気機関車である。

「私は生きていた頃、遠くへ旅したことがありませんでした。だから、汽車に乗ってどこまでも行けたらきっと楽しかったんだろうなと思ってしまって。それで、あなたたちが通るとつい意識を向けてしまうんですよ」

 撫子は生前の記憶を辿りながら応える。

 鉄道を利用した経験は皆無ではないが、基本的にこの街で生活を完結させていた撫子にとって、汽車は日常的に利用するものではなかった。

 数度、親と一緒に港の都市へと物見遊山に向かう際に利用した程度だ。

 耳を鋭く叩く汽笛、走る際の己まで楽器とされたかのような振動、肌で感じる飛び去る風。

 撫子はもはやそれらを体感することはできない。

「どこまでも、ではなくてよ。鉄路の届く限りまで。人の足の方がよほど『どこまでも』行けるでしょう? その決まり切った道を正確に駆けることが必要なの。決まった時間、決まった速さで走り続けて人も物も正しく循環させることが汽車の誉れよ」

 蒸気機関車は得意げに、笑みを含ませてそう答えた。

 撫子は想像しうる範囲を超えた回答に虚を突かれたが、すぐに満ち足りた笑みを返した。

 早逝したこと自体は全く望ましくないが、生者の身では捉えることのできない、ヒトならざる者の心に触れる立場を得られたことは喜ばしく思っている。

「撫子はこの街に住んでいたのかしら?」

「はい。ほとんどこの街から出なかったので、汽車に乗ることも稀だったのですが……鉄道の要である街の民として、鉄道に親しみは覚えていました」

「そうなの。ありがとうね。それならこの学校を出ていたりして?」

 蒸気機関車は傍らの校舎、校庭を見回して問うた。秋の日は短く、既に陽光は夕焼け色を帯びている。地に人影は落ちず、ただ蒸気機関車の伸びた影絵だけが描かれる。

「そうですね。私が通っていた頃は尋常小学校と呼ばれていましたが」

 撫子は学舎を見つめる。真新しいとまではいかないものの、完成してからそこまで年月が経っていない鉄筋の校舎や体育館。

 撫子がここで学んでいた頃には存在しなかった施設。

 撫子は生来頑丈な肉体の持ち主ではなかったが、ここに通っていた頃はまだ病を得ていなかったため、多少なりとも遊び回ることができた。

 まだ未来の拡がりを根拠なく信じていられた時間。

「貴女、その……どう言えばいいのかしら、生きていたのは見た目通りの歳まで?」

 蒸気機関車は遠慮がちに、しかし思い切るようにそう尋ねた。そう悟らせるような憂いの念を発散してしまっていたのだろうか、と撫子は己を顧みた。

「はい」

 だから心の波立ちを伝えぬよう、努めて平静に、平易に返答した。

「そう……なのね。こちらから訊いておいてなんだけど、気に障っていたらごめんなさいね」

「いいえ、大丈夫ですよ」

 撫子は穏やかに返した。実際、特に気分を害するような問いではなかった。ただの事実だ。もう全て済んだこと。

「貴女は寿命いっぱいまで生きられなかったのね。そしてわたくしは、今寿命を迎えた。煙の吐息を持たない弟妹たちの時代が来たのだから」

 蒸気機関車は柔らかく、しかしその下に哀しみを僅かに包んだ様子でそう述べ、しんとした目線で自らが走ってきた線路¬¬――鉄の会津路を捉えた。

「寿命だなんて。あなたはこれから、ここで永く生きるのです。そのために招かれたのですから」

 取り繕うようにとっさに述べた撫子に、蒸気機関車は遠くを見たまま言葉を返す。

「もちろんよ。わたくしを求め、ここに留めるべく動いてくれた人間たちには本当に感謝しているわ。でも――汽車にとっての生命って何でしょうね? 走ることを求められない汽車は、それでもまだ汽車と呼べるのかしら。ああ、答えを探さなくてもよくてよ。これはただのぼやきなの。人間に汽車の心は探れない。わたくしが人間の心を持たないのと同じように」

 流れるようにそう言い切ると、静かに撫子と視線を合わせた。ぬくもりと寂しさを内包した、曇りなき黒炭色の眼差し。

 撫子はそれを尊重すべく、真摯に蒸気機関車の視線を受け止めた。蒸気機関車の口元が緩む。

 僅かな沈黙の後、撫子は姿勢よく一礼した。太陽はいよいよ地平線に近付き、橙色に燃える陽光は撫子の像を貫通する。

「本日はお時間をありがとうございました。私はこれにて失礼いたします。おやすみなさい」

「帰るといっても、あそこのお社でしょう? わたくしからすれば立ち去るうちに入らない距離だわ。客車たちと隊列を組めば動かずとも届くわね」

 蒸気機関車は軽く笑いながらそう返した。撫子がその言葉を聞き届けてから会釈すると、撫子の自我の在処を示す像は校庭から瞬時に搔き消えた。


撫子は校庭から去った次の瞬間、彼女が仕える神社――郷の総鎮守の拝殿前に出現していた。

霊体である彼女は歩行せずとも、意識する座標をずらせばそこへ瞬時に移動することができる。

もっとも、この方法で移動できる場所は限られる。生前・死後問わず、彼女自身の自我に一定以上の思い入れで紐づけられた場所にのみ瞬間移動できる。他の霊体の導きや力添えがあれば話は異なるし、眷属の修行を通して更に高次の階梯へと昇れば、どこであろうと己自身を繋ぐことができるようになるとのことだが。

 拠点たる総鎮守に帰還した彼女のもとに、別の霊体の像――堂々とした、それでいて穏やかな様相の老爺が出現した。

 撫子も古めかしい女学生姿ではあるが、この老人の風貌は輪をかけて時代がかっている。剃り上げた月代に髷を結った髪型はあからさまに文明開化以前のもの。

 程良く健康的な肉付きとすっと伸びた背筋の持ち主で、纏う銀鼠の長着も濃藍の羽織も上等な質感。

「ただいま戻りました、おじいさま」

 おじいさまと呼ばれた老人――松坂貴路まつざかたかみちは緩やかに頷いた。

 貴路は撫子の祖父ではない。更に前の世代、十八世紀に生きた先祖である。

 松坂家はかつてこの土地の庄屋であった、地域では名の知れた家門である。

 貴路も庄屋として活動し、この郷の発展に寄与した。その功あってか、死後に総鎮守の眷属として土地神に求められたのだ。

 撫子が眷属として選定されたのも、松坂家の血筋であることが要因の一つとなっている。

 世代を隔てた子孫であり、眷属としての後輩となった撫子を貴路は目にかけており、祖父と呼ばれることを歓迎している。

 貴路は撫子の挨拶を受けると、長年の奉仕の成果として身に着けた、神気を纏う霊力を神社の敷地に沿って巡らせる。それにより、情報遮断の結界が彼らを包む。

 これからの話を、至近距離に居する蒸気機関車、その他無関係な霊体に伝えさせないための処置だ。

「お帰り、撫子。ご苦労だった。……早速だが、此度の汽車はどんな塩梅だ?」

 貴路は朗らかな、安定感のある声音と表情で尋ねた。撫子は表情を引き締める。

「いくらか現場への未練はあるようですが、情緒は安定しています。人間へも好意的です。学校の守護者と為すことは十分可能でしょう」

「それは良いことだ。撫子は引き続き汽車と付き合いなさい。そして学校、ひいてはこの郷への愛着と忠誠を育めるよう誘導するのだ」

「はい」

「同時に、霊力を育て、守護者として振舞える力をつけさせる必要があるが……これは急がなくてよい。学校に集う者の想念を受け続けることで付喪神はおのずと力を増していくだろう。そうなった時に人々を害さぬよう付喪神の精神を整えておくことが肝要。民を守ることが我らの役目であるからな」

「はい。心得ております」

 撫子が蒸気機関車のもとに出向いた理由は、蒸気機関車の付喪神の有り様を見定めることにあった。

 撫子個人としては汽車への憧憬や新たな隣人への好奇心も抱いてはいるものの、動いた理由、そして求められている行動は総鎮守の眷属であることに帰結する。

 総鎮守の守る領域に常時座すことになる蒸気機関車は、領域内の付喪神を見渡してもだいぶ特異な部類に入る。

 汽車として、不特定多数の想念を長きに渡り受け、人の生活に影響を与える存在として動いてきたモノ。そこに宿る付喪神は無数の念から織り上げられた大きな器を持つ。今はそうでなくても、いずれ強大な霊力を振るえるように成長する余地を持つ。

そんな蒸気機関車の付喪神と接して、総鎮守に協力的な霊的存在となるべく誘導し、もって生者の守護者へと仕立て上げること。

 それが望めないような荒んだ精神状態であるならこれを鎮め、最悪の場合は『調伏』すること。

 これが総鎮守の方針であった。

 幸いなことに、この蒸気機関車の自我は人間に好意的な方向性で形成されている。

 新たな領民として友好的に付き合っていくことに支障は出ないと判断できるし、ゆくゆくは総鎮守の眷属に準ずる霊体として迎えることも不可能ではない。

 その実行役として眷属としての経験年数がまだ浅い撫子が選ばれたのは、彼女がこの小学校の卒業生であり、汽車が現れた後の時代を生きたものであるからだ。

 汽車を最近現れた理外の技術ではなく、汽車にまつわる生の体験と感情を抱いていること。

 人たる自我に汽車の自我を解することは不可能かもしれないが、その知識と愛着をもって寄り添うことが撫子ならばできる、との判断が下ったのだ。

「さあ、これから夜の掃除だ。日課は滞りなく行わなければな」

「はい、おじいさま」

 総鎮守は神域として機能しているため自浄作用を持つ。それでも、参拝者によって持ち込まれた邪気(それは生者ならば誰でもいくらかは纏っていて然るべきもの)、自然現象として漂ってくる瘴気はしばらく残る。

 それを境内のみならず近隣の土地からも回収し、潰し砕くことで、翌朝の陽光にて確実に浄化する。人里の神社であるならばどこでも行っているような日常業務であった。


 この日から、撫子と蒸気機関車の隣人としての付き合いが始まった。

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