第12話〜生活安全課のピクシーさん、のこと〜

 私とくぅさんが、世間的には「婚約者」という関係になることが決まったあと。

 速やかに、私は黒乃さんの運転する車で、病院に連れて行かれました。

 特務一課の面々はといえば、くぅさんとリンさんは街の見回り、榊さんは私とくぅさんを婚約者にするための用事があるということで、黒乃さんに私の面倒を見る役割が回ったのでした。


『いいか、靄。とりあえず大人しくしておけよ』


 ――と、いうのは、くぅさんが去り際に残した言葉です。

 大はしゃぎができない性格なので、生まれてこの方、「大人しくしておけ」なんて、初めて言われました。私はそれが、ちょっぴり嬉しかったりします。


 病院では、ぶたれた痣や火傷の痕を診てもらいました。先生には渋られましたが、黒乃さんがものすごい剣幕で食ってかかって、診断書を出してもらえました。

 それから、警察署に戻って、児童虐待の通報……ということで、生活安全課に向かいます。


「靄ちゃん、ここでちょっと待っててね」

「は、い……」


 私が案内されたのは、ほんのちっちゃな……といっても、私の部屋と同じか、それよりちょっと狭いくらいの部屋でした。でも、警察署で入ったことのある部屋、つまりは仮眠室や特務課、それから学校の教室なんかと比べたら、ずっと狭いので、こういう公共施設で見ると、余計にちっちゃく感じます。

 あとは、室内のレイアウトのせいもあるでしょう。部屋の大きさに対して、調度品が窓際に偏っているのです。窓のすぐそばには、背を向ける形でパイプ椅子が二つ並んでいて、その前にはテーブル、テーブルを挟んだ向かい側には、やっぱりパイプ椅子が二つありました。

 黒乃さんは、ドアから見て奥の方、窓際のパイプ椅子を引きました。そこに座れ、ということなのでしょう。私が腰掛けると、黒乃さんはふと、呟きました。


「ちょっと変わった人が来るけど、驚かないでね」


 変わった人?

 私は不思議に思いましたが、こくんと頷きます。

 黒乃さんはそれを見て、「ちょっと待っててね」ともう一度言って、部屋から出ていきました。


 一人になった室内を、私は手持ち無沙汰に見回しました。

 椅子とテーブルは窓際に寄せられているけれど、それ以外にも、店がいくつか並んでいます。目を凝らして見てみれば、そこには、子供が好きそうなものがずらっと並んでいました。

 可愛いお人形に、手で動かせる小さな自動車、ミニチュアの動物にぬいぐるみ。積み木やパズル、木製の知育玩具に一人で遊べるアナログのゲーム。絵本がたくさんと、それから、少年犯罪の更生やドラッグ、性教育についての本が、大人が読むような難しいものから、小学校高学年くらいから読めそうなものまで、本棚に並んでいます。

 多分、ここは、私みたいな子供の話を聞く部屋なのでしょう。小さな子供から、高校生くらいまでが、遊んだり時間を潰したりできるものが揃っています。

 いえ、私みたいに虐待の聴取ならともかく、本当の本当に補導された高校生が手に取るものがあるかと言われると、わからないけれど。少なくとも私は、多少の待ち時間はここにあるもので潰せます。


 パイプ椅子に腰掛けたまま、本の背表紙を興味深く眺めていると、不意に、コンコン、とドアがノックされました。思ったより早かったなぁ、と思いながら、私は慌てて、返事をします。


「っは、は、い……!」


 なるべく大きな、外まで届く声を出そうとしたら、掠れて裏返った、変な声が出てしまいました。恥ずかしくって頬を熱くしながら、私は、ドアを見つめます。

 果たして、カチャリとドアノブが回って、ゆっくりとドアが開きました。


 一瞬、誰もいない、と思いました。

 私が見つめていたところ――ちょうど黒乃さんの顔くらいの高さの部分からは、ドアの向こうの景色しか見えなかったから。

 自然と、私の視線は下がっていきます。目線でしていた想定よりも背が高い人なら、向こうの景色じゃなくて、その人の胸元なりなんなりが見えるはずなので。

 そんなに高いわけじゃない、私の身長くらいの場所を通り越して、もっと視線が下がります。私より小さいって、相当小柄な人じゃないかな――そこを超えても、まだ頭は見えなくて。

 時間にすれば、一秒もない。でも、少し焦りを覚える頃合いで、濃いピンク色の髪の毛が、ようやく視界に飛び込んできました。


 その顔は、ドアノブよりちょっとだけ高い位置に、ありました。ひょっこりと、左半身が室内に入っています。

 白い肌、赤い瞳。まるでお人形さんみたいな、くるくるした長い髪の毛は、片方しか見えないけど、位置から見るに、多分ツインテールにしているんでしょう。

 着ているのは、いわゆるゴシック・パンク系……というんでしょうか。黒いノースリーブシャツと、ショートパンツにロングブーツ。


 ここに来て私は、黒乃さんの言った「驚かないでね」の意味がわかりました。その子は――いえ、その人は、事前に聞いていなければ、とてもじゃないけど警察官には見えませんでした。そもそも、まだ高校生の私よりも、ずっと年下に見えるのです。

 身長は、多分私の肩くらい。130cmあるかどうか、という程度でしょう。

 それだけだったら、極端に身長が低いだけかもしれません。けれども、頬のぷにっとした感じや顔立ち、それに柔らかそうな手指は「若い」を通り越して「幼い」と感じさせるもので、とてもではないけれど、大人には見えません。


 何も知らずに見かけたら、小学生の女の子だと思ったであろうその人は、赤い瞳に私を映して、ニコッと笑いました。


「こんにちはっ、にゃあさまだよ〜!」

「……え、と……」


 たっぷりの沈黙の後。

 私は、何と言っていいかわからずに、オロオロしました。


 にゃあさま……って、何?

 この子、じゃなかった、この人の名前?

 でも、第一声が「にゃあさまだよ〜!」って、えっと、私、どんな反応すればいいの?

 というか、そもそも、警察官って、身長の制限がなかったっけ?


「ありゃりゃ、びっくりさせちゃった?」

「え、と……」

「ごめんねぇ、もやちゃん」


 子供特有の甲高いソプラノに、ちょっと舌っ足らずの声は、けれども不思議と、優しく響きます。

 ああ、この人は、本当に大人なんだ――と、私はやっと、腑に落ちました。

 だって、笑顔も、声も、すごく優しくて、私に対して、自分より幼い者を慈しむ色があったから。


 なんだか私が感動していると、「にゃあさま」と名乗った……名乗った? ともかく自称した女の人は、左半身しか見えない状態で、にたぁり、といたずらっ子みたいに笑いました。


「きっと、も〜っとびっくりするとおもうし〜、『さいしょ』が『かんじん』ってね〜!」

「え……?」


 待って、驚くってどういうこと?

 と、私が思ったのも一瞬、「にゃあさま」さんは、まるで絵本の猫みたいな笑顔で、これもまた猫みたいに、ドアの隙間から、にゅるんっ、と室内に入りました。


 ――その、全身を見て、私は確かに、びっくりしました。


 思った通り、髪型はツインテール。ピンク色をした、くりくりの髪は、まるでお姫様みたい。

 ちっちゃくて可愛い女の子にしか見えない顔――その右半身には、無数の痣がありました。

 多分、あれは、痣だと思います。そうでなければ、入れ墨みたいな……でも、日本の警察官さんで入れ墨を入れるのはなかなか難しいと思いますし、タトゥーシールなんかだったら、わざわざお仕事の日にはつけてこないでしょう。

 その痣は、ほんのりと青みがかった赤紫色で、形はまるで、魚の鱗のようでした。腕や足は勿論のこと、可愛い顔の右半分にも、まばらに散っています。

 一体、どうやったら、こんな痣が残るのでしょうか。誰かにつけられたのだとしたら、多分、「こういう形のもの」を、打ち込むように殴るだとか、熱して押し付けるだとかしないと、こうはならないでしょう。想像しただけで、あんまりに残虐で、偏執的です。

 そうでなければ、生まれつき? いずれにせよ、私はびっくりして、目をパチパチさせました。


 とはいえ。

 この、ちっちゃくて可愛い女の子にしか見えない人が警察官さんだという事実ほど、驚くものでないのも確かでした。そもそも、痣だらけというのなら、私の身体だって、同じなのですから。

 お母さんに毎日のようにぶたれた痣があるので、私は夏でも長袖と膝下丈の靴下で、肌を隠しています。だから、どちらかといえば、「にゃあさま」さんの痣は、誰かに傷つけられたものじゃないといいなぁとか、隠さずに堂々としているのがかっこいいなぁとか、そういう気持ちの方が大きいのです。


 私がびっくりしていると、「にゃあさま」さんは、ニコッと笑いました。

 そうして、体格相応の長さの足をちょこちょこと動かして、私の向かいに座って、片手に持っていたノートパソコンをデスクに置きました。


「あらためまして〜、はじめましてっ! 『ちょうしゅ』を『たんとう』する、『せいかつあんぜんか』の、にゃあさまで〜す!」

「あ……は、い……」

「これ、めーしねっ!」


 スッ、とテーブルの上に出された名刺を、私は慌てて受け取ります。

 てっきり、警察官さんの名刺だと思ったのですが……そこには、いかにも手書きの字で、「こどものみかた にゃあさま」と書かれていました。なんだか可愛い、猫のイラストつきです。


「にゃ、あ……さま、さん……?」

「にゃあさま、でいいよぉ〜」


 にゃあさま……さんは、私の呼びかけとも言えない小さな声に、ケラケラと笑います。

 まぁ、確かに、「にゃあさま」って敬称を含んでいるのですが……なんとなく、本人が名乗っている名前をそのまま呼ぶ、というのも、座りが悪い気がします。

 私がなんとも言えずにいると、「にゃあさま」さんは、「んふ」と笑って、頬杖をつくと私を見上げます。


「きになるなら、『にゃあさまさん』でも、いいよぉ?」


 その言葉に、私はホッとしました。そして、やっぱり、大人の人なんだなぁ……と思いました。

 セクシーと言うには、見た目が幼すぎる。でも、ただ「可愛らしい」というのには収まらない、ちょっと魅惑的な感じ。小悪魔って言えば似合うのかもしれないけど、それじゃあ子供っぽい……そんな、なんとも言えない雰囲気のようなものが、にゃあさまさんにはありました。


「にゃ、さま、さん……」

「はあい、もやちゃん!」

「ん……は、い……」

「そろそろ、『ちょうしゅ』をはじめていっても、いいかな〜?」


 最初の目的を改めて尋ねられて、私は頷きます。

 すると、にゃあさまさんは、デスクに置いたノートパソコンを開いたのでした。




 私への聴取は、お昼が過ぎるまで続きました。

 つっかえつっかえ、切れ切れに話す私の言葉を、「にゃあさま」さんは、辛抱強く聞いてくれました。

 時々、にゃあさまさんは、一枚の書類――多分さっきもらったばかりの診断書に視線を向けながら、ゆっくり、じっくりと私の話に耳を傾けてくれました。


 お母さんにぶたれる頻度、「いい子」でいるために課せられた条件、お父さんの態度、毎日の生活と、学校について――概ねのことには、正直に答えたと思います。

 正しく答えられたかは、自信がありませんが。


 何しろ、私は……今朝、くぅさんが助けてくれるまで、自分の置かれた状況を、まともに認識しようとしなかったので。

 別に、知識が全くないわけではありません。スマートフォンはフィルタリングこそされているものの、特に使用を制限されるわけでもなかったし、家にはパソコンもありました。テレビも、ご飯の時についているものくらいは、見ています。

 それに、成績とか、門限とか、「お仕置き」を受ける条件はいくつもあったけれど、逆に言えばそれ以外の制限は、殆どなかったのです。多分、酷くぶたれるのが問題なだけで、「叱る」とか「できたらご褒美」という条件なら、よくあること……なんじゃ、ないでしょうか。

 だから私は、やろうと思えば、児童虐待について調べることだってできました。自分から、助けを求めることだって。


 だけど、私はそうしなかった。

 当然のことだと思い込んで、受け入れようとしたから。


 なので、私は、自分の認識を、あまり信じていませんでした。そんな私の主観なので、正しく答えられた自信はないのです。


「……あ、の……」

「なぁに、もやちゃん?」

「え、と……そ、の……これ……だい、じょぶ……です、か……?」

「うん、『だいじょうぶ』だよ〜? もやちゃんは、なにか、『しんぱい』なのかなぁ?」

「え、と……わ、たし……ちゃん、と……答え、られて……ま、すか……?」


 終始この調子の、たどたどしくて滑舌も甘い、意味が取りにくい私の言葉。

 それを、根気よく聞いてくれるにゃあさまさんは、にぱっ、と笑いました。


「だ〜いじょ〜ぶ! もやちゃん、ば〜っちり、にゃあさまのしりたいこと、こたえてくれてるよ〜!」


 そうして、にゃあさまさんは、幼児みたいに真っ平らな胸をいっぱいに張って、ふにふにのこぶしで、トン、と叩きます。


「にゃあさまは〜『せんもんか』だからね〜! ど〜んとまっかせなさ〜い★」


 その仕草は、どことなく子供っぽいような、不思議と頼り甲斐があるような……ちぐはぐではあるけれど、決して悪い感じはしなくて、私はホッとしました。


「それじゃあ、ちょ〜っと『けが』したところの『しゃしん』、とらせてもらってもい〜い?」


 写真、ということは……年中隠していた身体中の傷跡を、記録に残すということです。


「あ……え、と……」

「だいじょ〜ぶ、『しょるい』だすのとか、『ひつよう』なときにしか、つかわないからね〜」


 私はたじろぎましたが、にゃあさまさんが安心させるように優しく言うので、覚悟を決めました。

 こくん、と頷けば、にゃあさまさんはスマートフォンを片手に立ち上がります。


「ここの『かべ』に『せなか』むけて、たってもらっていい〜?」

「……は、い……」

「よしよし、いいこっ! そしたら、おなかがみえるように、『ふく』をまくって〜」


 言われた通りに立てば、それだけで褒められて、くすぐったいような気持ちになります。私はおずおずと、ゆっくり、お医者さんの前でするみたいに、服の裾を胸の下まで上げました。


 隠しているから陽に当たらない、真っ白な肌。まるでキャンバスみたいなそこには、絵の具をぶちまけたみたいなまだら模様の痣が、いくつもありました。

 フライパンとか、お鍋とか、掃除機の先っぽとか……お母さんが手にするもので、毎日、何度も、ぶたれた痕。治りかけのところは薄黄色、内出血の赤紫や青、熱したものを押し当てられた場所は白っぽくなって、薄い肌が露出しています。

 誰にも見せたくなかった傷を、初めて会った人に見せているのが、不思議でした。


 カシャ、とスマートフォンのシャッター音がしました。にゃあさまさんは静かでした。スマートフォンが被っていて、全部は見えない顔は、どことなく痛ましいような雰囲気を滲ませています。


「『せなか』も、とってい〜い?」

「は、い……」


 私は服の裾を下ろして整えると、後ろを向いて、背中を出しました。

 背中には、どんな傷があったでしょうか。新しい火傷があるのは、覚えているけれど……自分では見えないので、全体像ははっきりしませんでした。

 カシャ、ともう一度、シャッター音。それから一拍置いて、にゃあさまさんが私に声をかけます。


「もやちゃん、もういいよ〜」

「あ……は、い……」

「おつかれさま〜、がんばったね〜」


 私がもたもたと服の裾を整えて、振り向くと、にゃあさまさんは、トテトテと軽い足取りで私に近づきました。

 そうして、背伸びをして手を伸ばして、私の前髪の辺りを、ちっちゃな手で撫でました。


「えらいえらい! はなまるあげちゃう!」

「ん……」

「いっぱいおはなししてくれたし〜、つかれちゃわなかった?」


 そう、言われると、そうかもしれません……今朝まで見て見ぬふりをしていた、虐待の事実を直視して。何をされていたか、つまびらかに話して……すごく、疲れたような気もします。

 でも、一方で、自分でもびっくりするくらい、すんなりと話せた気がしました――夏でも長袖の制服を着るくらい、隠したかった肌まで晒して。


 そんなことができたのは、にゃあさまさんのおかげのように思います。


 幼くて愛らしい顔で、ニコニコと笑ってくれた。

 私がどんなに言葉に詰まっても、その笑顔は変わらなかった。

 それに、私の話を、ただ、聞いてくれた。


 もしも、「酷いことをされたんだね」と言われたら、私は言葉が続かなくなってしまったでしょう。

 くぅさんに助けてもらって、やっと、「ああ、普通じゃなかったんだな」と気付いたばかりの私です。くぅさんが私のために怒ってくれたのは嬉しかったけれど、それは、これまで顔を合わせるたびに、私に優しくしてくれたくぅさんだから。

 出会ったばかりのにゃあさまさんに言われたら、私は……どう思ったかさえ、わからない、と、思います。


 ニッコリと笑って、にゃあさまさんは、私の頭から手を離しました。

 そうして、その手をショートパンツのポケットに入れて、ぎゅっと握ったまま、私に向けて差し出します。


「はいっ、あげる!」

「……?」


 小首を傾げながら、私はにゃあさまさんの手の下に、自分の手を広げました。それを見たにゃあさまさんは、握った手をパッと開きます。

 コロン、と落ちてきたのは、個包装の黒飴でした。おばあちゃんの家――実際のところ、私はあんまり、おばあちゃんとおじいちゃんの家に行ったことはないのですが――イメージとしては、おばあちゃんの家にありそうなお菓子。


 一番大きく見積もっても、小学生にしか見えないにゃあさまさんには、似合わないような、なぜだか不思議と、雰囲気に似合うような。

 だけど、そんなのは、些細なことでもありました。


 この飴は、にゃあさまさんが、私にくれた飴です。

 聴取で疲れただろうからと、思いやってくれた証。

 私はその気持ちが嬉しくて、小さく笑いました。


「あっ、あ……」


 相変わらず、声は出ません。

 だけど、にゃあさまがニコニコ笑ってくれているから、怖くない。


「あ、あ……あり、がと……ご、ざいます……」


 消え入りそうな声で、それでも私は、お礼を言いました。

 すると、にゃあさまさんは、それこそピカピカ花丸の、満面の笑みを見せてくれました。


「ど〜いたしましてっ!」


 この警察官さんのことを、よく知っているとは、私には言えません。何しろ、今日初めて会ったのです。

 なんでこんなにちっちゃいのに、警察官になれているのか、それさえも、私は知らないけれど。


 気にかけてもらえることが、私にはとても、嬉しく思いました。


「ちょ〜っとまっててね、くろのん連れてくるから〜」


 にゃあさまさんに言われて、「くろのん」というのが黒乃さんのことを指しているのだ、と気付くのに、一拍の時間が必要でした。

 私がこくんと頷くと、にゃあさまさんはノートパソコンを抱えて、部屋を出ていきます。

 それから、程なくして、ノックの音。


「あ、は、い……!」


 できる限り大きな声で返事をすると、黒乃さんが部屋のドアを開けて入ってきました。黒乃さんは、座っている私のところまで近づいて、優しく笑いました。


「お疲れ様、靄ちゃん」

「……は、い……」

「ちょっと変わった人だったでしょ?」


 苦笑交じりの言葉に、私はちょっと迷ってから、曖昧に頷きました。

 初対面の人のことを「変わった人」と言うのは失礼な気もするのですが、にゃあさまさんが色々な意味合いで変わった人なのは、まぁ、事実でしょう。

 それに、私が「変わってる」と言ったわけじゃなくて、黒乃さんが「変わった人」と称したわけで、私は同意を求められていて……全然、思ってもいないことってわけでもないので、頷いても、差し障りはないはず。

 黒乃さんは頷く私を見て、目を細めました。


「まぁ、大丈夫よ。あの人、こういう案件に関してはプロだから」

「あ……こ、どもの……みか、た……って……」


 ふと思い至って、私はテーブルの端っこに置いていた名刺を手に取って、黒乃さんに見せました。すると黒乃さんは、「ああ」と軽く答えます。


「正確にはね、にゃあさまは、生活安全課の少年犯罪とか、青少年育成の担当なのよ」


 ああ、なるほど……と、そんな部署があるんだ……の気持ちに、私はなりました。

 よくよく考えなくても、私は警察という組織のことを、何にも知りません。でも、確かに、少年犯罪にも対応しなくちゃいけないことはわかります。それと、補導なんかも警察がやることです。

 そういうのを担当しているから、にゃあさまさんは、あんなに慣れた感じだったんだなぁ、と納得しました。私も補導されかかったことはありますが、本当に補導されたのなら、口が重い子もいるでしょう。


 それに……この名刺も。高校生にはちょっと幼すぎますが、子供を担当するなら、難しいことが書いてある警察の名刺よりも、わかりやすいです。

 警察官さんの制服を着ていないのも、警戒心を解くためでしょうか。


「……子供、たんと、する、ひと……て、服、とか、も……ああいう、の、なん……です、か?」

「……普通は、制服よ」


 あれっ?


 ため息混じりに言う黒乃さんに、私はキョトンとしました。

 あれっ、普通は制服なんですか?

 ああ、でも、確かに私が補導されそうになった時の警察官さんたちは、制服でした。

 言われてみれば、私服で子供に声をかける大人って、そっちの方が通報されそうです。

 いや、まぁ、くぅさんが私と会う時は、大体私服でしたが……私服警官さんというのがいると知っていたし、警察官さんたちと面識もあったし、疑う余地の方が少なくはあったんですけど……。


 私が頭に「はてな?」を飛ばしていると、黒乃さんは長い髪を指で梳かしながら、困ったように言います。


「にゃあさまは、ね……いつからここにいるのか、誰も知らないのよ」

「え」

「そもそも、なんで警察官になれたのかもわからないし。身長の制限がなくなったのって最近だし、その時はもう、にゃあさまはここにいたから……本当なら、157cmないと、警察官にはなれないのよ」

「え」

「本当、どうやって潜り込んだのかしらね〜」


 私はもう、短い驚きの言葉を繰り返すことしかできなくなっていました。

 たとえば学校の先生とかなら、「いつからいるのかわからない」って噂も立ちやすいでしょう。何しろ生徒は3年で顔ぶれが入れ替わって、「それより前」を知る人が、だんだんいなくなるんですから。

 でも、警察官さんは、別の交番ですとか、違う署に行くことがあったとしても、まるっきりメンバーが入れ替わる……というのは、珍しいはず。だとしたら、「いつからここにいるのか、誰も知らない」というのは、本当に、若い人もおじいさんおばあさんも、等しくにゃあさまが警察署に勤め出した時期がわからないのでしょう。


 私は、「そんなことって、ある?」という気持ちと、「魔法なんてものが実在するんだから、そういうこともあるかもしれないな」という気持ちを、いっぺんに感じていました。

 この目で見たんだから、信じるも信じないもないですが、魔法で怪物と戦う人がいるんだから、どんなに不思議なことが起きたって、仕方ないような気がします。


「にゃ、さま、さん、て……まほ、つかい……なん、ですか……?」


 尋ねてみると、黒乃さんは眉を寄せた難しい顔をしてから、ふっ、と表情を緩ませました。


「靄ちゃんには、話してもいいかぁ」

「……?」

「多分、だけどね。にゃあさまは、不老不死なのかも……って話は、特務課では出ているわよ」

「ふろ……ふし……?」

「ええ。特務課所属じゃないから、正式な魔法使いとして配属されてないのは確実。でも、色々鑑みたら、むしろ怪物に近いような存在じゃないか、って説が、今のところは有力ね」


 にゃあさまさんが、あの、黒くてウゴウゴした怪物に、近い存在……というのは、全然、腑に落ちませんでした。

 先輩たちに触腕を向けた怪物と、優しく話を聞いてくれたにゃあさまさん。比べることからそもそもおかしいと思う私と、常識で考えることのできない出来事がたくさんあるのだと思う私がいます。


「……くろ、の、さ……」

「なぁに、靄ちゃん?」

「にゃ、さま、さん……やっ、つけ……ます、か……?」


 なんとなく、不安な気持ちで、私は黒乃さんに尋ねました。

 にゃあさまさんは、今日出会ったばかりの人です。でも、私に優しく接してくれた人でもあります。

 それに、特務課の皆さんは、よくわからない力を持っている私にも、すごく良くしてくれるので……できれば、にゃあさまさんにも、良くしてくれるといいな、という気持ちでした。

 黒乃さんはそんな私を見て、柔らかく微笑みます。


「心配しなくても大丈夫よ、今のところはね」

「……!」

「だってあの人、ちょっと子供の保護に対して熱心過ぎるだけの、ただの警察官だもの」

「……は、い……!」

「まぁ、万が一……万が一よ? 彼女が敵対するっていうなら、私たちは排除しないといけない立場だけど……にゃあさまは、ねぇ……」


 黒乃さんの言葉には、二重の意味が込められている……ように、思います。

 にゃあさまさんは多分敵対しないだろう、という気持ちと、いざという時にあは容赦をしてはならない、ということでしょう。

 にゃあさまさんは、特務課の感覚だと、様子見でいいのだ、と、黒乃さんは言外に伝えてきました。

 私は心底、ホッとしました。

 でも、まぁ、確かに、にゃあさまさんが悪いことをするとは思えません。

 いえ、付き合いは浅い、むしろないに等しいくらいなので、絶対とは言い切れませんが……でも、私の話をあんなにたくさん聞いてくれて、気遣いもしてくれた人、「こどものみかた」でいてくれる人が、悪いことをするとは、考えにくいです。


「まぁ、心配しなくても大丈夫よ。にゃあさまには、むしろ協力してもらってるもの」

「きょ……りょく……?」

「ええ。あの人どういうわけか、ものすごい情報通なのよね」

「じょ、ほう……」

「ホワイトハッカーっていうのかしら……とにかく色々なことを知ってるから、調査に協力してもらうことも多いの。特務課じゃ、『生活安全課のピクシー』って呼ばれてるくらいよ」


 ホワイトハッカー……確か、ハッカーさんの中でも、特に世の中の利益になるようなことをする人、だったと思います。ピクシーは、ちっちゃな妖精のことでしたっけ……ちっちゃくて可愛いにゃあさまさんには、とっても似合うので、私は少し、口元を綻ばせました。


「そういうわけでね。多分、敵対する予定なら、積極的な協力は、しないと思うのよねぇ」


 にゃあさまさんは、特務課の敵ではないみたいです。

 その事実は、私にとって、少しばかり安心できるものでした。

 よくわからない存在というのなら、私だってそうです。異星の魔女とやらの魂が混ざっていて、どうやらともかく、普通ではないみたいですから。

 いえ、この際、私のことはどうでもいいんですけど……私に優しくしてくれた人たちが、争うようなことになるのなら。それはなんだか……すごく、嫌なので。


「よ、かった……です……」

「ええ。あ、でも、にゃあさまのこと、あんまり信用しすぎちゃ駄目よ?」

「え……?」


 私は、びっくりして、目をパチパチさせました。

 にゃあさまさんは怪物に近いモノで、でも、悪いひとじゃない。なのに、信用しすぎちゃ駄目……なんだか矛盾しているようで、それなのに、黒乃さんはイタズラっぽく笑っているのが、ちぐはぐでした。

 そんな私を見て、黒乃さんはますます、ニヤリ、というのがピッタリな笑みを深めます。


「にゃあさまはね、情報の対価に、他の人の知らない話を求めるの」

「は、なし……」

「だから……特務課のやらかしはね、ぜ〜んぶ握られてるんだから」


 ようやく、話が見えました。

 つまりにゃあさまさんは、とっても色々なことを知っていて、もっともっと色々なことを知ろうとしていて。

 要するに、にゃあさまに頼るということは、弱みを握らせるってことなのでしょう。

 一体、どんなことが知られちゃっているんでしょうか……それは、私には、わからないけど。

 本当に疑っているひとに、そういうお話を聞かせることはないだろうなと思って、私はやっぱり、安心したのでした。

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異星の魔女と魔法使い〜悪い子だから嫌われるんだと思っていたら、どうやらラスボスの魂を持っているのが原因だったようです〜 桐谷慎也 @midnight_fogval

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