第30話 うたた寝

 野分のわきの存在は、俺にとって大きな支えとなった。

 その一方で、俺と軽谷かるやの里の人たちとの間には――何とも複雑な、とらえどころのないかべが、いつしか出来上がっていた。

 九護家くごけから支援を受けるようになって以来、みんな心のどこかで、俺がそのうち里を出ていってしまうのではないかと不安に思っている――はっきり確かめたわけではないが、そう感じずにいられなかった。

 支援自体は、みんなもありがたがっている。

 その反面、支援は、俺が公家からも目をかけられるほどのうでの医者だという、証明のようなものにもなってしまった。

 元々武家につかえていたことも明かしているから、なおさら――どこかから俺に、いい話が来るかもしれない。そうしたら、そちらにかれて、里で細々ほそぼそと医者を続ける気なんかせるんじゃないか、という懸念けねんが起きるのだろう。


 あからさまに俺に「どうせ、そのうち出ていくんだろう」などと言ってくるのは、梶彦かじひことその友人たちぐらいなものだが、口にしないだけで内心では似たことを考えている者も、きっといるに違いない。

 乙名衆おとなしゅうの人たちが里の娘との縁組を俺にすすめてくるのも、不安ゆえだろう。どうにかして、俺を里につなぎ留めたいと思っているのだ。

 実家を出て、これほど遠くまで来ても、結局、縁組の話が付きまとってくる――これは一体、何の因果いんがなのだろう。

 かどが立たないように断るのも、なかなか骨が折れた。


 俺は富も地位も名声も興味がないし、この里に医者として根を下ろして生きていきたい――いくら言葉でそう伝えても、不安や疑念ぎねん容易よういに消えはしないだろう。下手をすれば、かえって疑いを深めるだけだ。

 この里も、ここの人たちも好きだけれど――それだけでは、駄目だめなのか。他に、何があればいいんだろう。

 俺は、ただひたむきに、己のやるべき仕事をこなし続けた。




 俺が二十二に、野分が十五になった、ある日。

 九護家を訪ねると、野分から、

「今、海鳴丸かいめいまる稽古けいこをしているのです。ようやくきこなせるようになったので、燎玄りょうげんにも聞いてほしいのです」

 と言われた。

 こばむ理由が何一つないので、当然ながら俺は、

「ぜひ聞かせてもらおう」

 と、笑顔で答えた。


 海鳴丸というのは、野分が友人からゆずってもらった楽器だ。

 元は難破船なんぱせんの積み荷だったらしく、それに野分が「海鳴丸」というめいをつけたと、少し前に野分が送ってくれたふみに事情が書かれていた。

 野分の部屋へ行き、彼女が取り出した楽器は、形は琵琶びわに似ているものの、琵琶とは別物なのもすぐに分かった。さおの太さなどが違う。

 あれこそが海鳴丸だ。文に書かれていた特徴とくちょうとも合致がっちする。


 いつものように人払ひとばらいし、野分は座って海鳴丸をひざに抱えるようにして、構えた。

 そしておもむろに、げんをつま弾き始めた。

 途切れることのないなめらかな旋律せんりつが、空間を満たしていく。

 音色もまた、琵琶とは異なっていた。それなのに不思議と、聞いていてなつかしさを覚える。胸の奥まで、すっとみ通っていくようなこの感覚は、どう例えればいいのだろう。


 俺は純粋に演奏を堪能たんのうしつつも、心の片隅で、「何とも贅沢ぜいたくなことをしているな」と思った。

 野分は舞の名手で、琴もたくみに弾きこなす。歌もうまい。新たに身につけた海鳴丸の腕も、思っていた通り、相当なものだ。

 俺は師澤家もろさわけに仕えていた頃に、こういった芸事に接する機会があったから、腕の良し悪しもそれなりに分かる。

 そんな音色を独占どくせんしているのだと思うと、優越感ゆうえつかんと申し訳なさにおそわれた。

 金や地位のある者でも、こんな時間はそうそう手に入らないのではないか。


 それにしてもこれは、何という曲なんだろう。おだやかな心地をもたらす、温かな旋律だ。

 聞いているとそれだけで、疲れがえ、体に入っている余計な力も抜け――。




 意識がゆっくりと、戻っていく。

 俺はいったい、どうしていたんだったか。

 ああ、そうだ。野分が海鳴丸をかなでるのを聞いていたんだ。それがとても心地よくて――。

 はっとして、俺は一気に目を開けた。


 目の前に見えるのは……野分の顔?

 さらにその向こうにあるのが……天井?

 俺の頭の下には、床とは思えない、何かやわらかい物が……。


 ようやく状況が把握はあくできて、がばりと身を起こした。

 すぐかたわらには、野分が座って、俺の様子をじっと見ている。

 俺は……野分の膝で寝てたのか?


 野分はちょっと苦笑いしつつ、言いにくそうに告げた。

「ふとあなたを見たら、座ったまま、うとうとしていたのですが……起きた時に首や肩が痛くなってしまっていそうな姿勢だったので、少し直せないかと思ったのです。そうしたら……」

 彼女の膝の上に倒れ込んで、なおもそのまま眠っていた……のか?


 俺はあせりをおさえながら、あたふたと姿勢を正し、床に手をついて頭を下げた。

「申し訳ない! 途中で寝ちまうなんて、もってのほかだ。おまけに、人の膝で……」

 と、必死に考えながらびの言葉を発したが、常日頃と違って舌がうまく回らない。

 いくら親しい相手でも、あまりに礼をしっした振る舞いをしてしまった。こんなあやまちをおかすなんて、気がたるんでいるんだろうかと自責の念に駆られたが――。


 野分は微笑ほほえんで、

「よいのです。あの曲は、あなたが少しでも休めるように、と願いながらかなでたものですから」

「え?」

「顔に、疲労のそうが出ていました。あまりこんめてはなりません。仕事もそれ以外も、いろいろと思い悩むことが多いでしょうから、心身を休めよと言っても難しいとは思いますが……。我が家に寄るのも、余裕がなければやめて構わぬのです」

 確かに、ここのところ急病人が続いていそがしかったし、先々のことでなやんだりもしたが――無理をしているつもりはなかった。

 だが、眠ってしまう前と比べて、いくらか体が軽く感じる。めていたものが、取れたような――。


 野分は、海鳴丸が置かれている場所まで戻りながら、

「自分のことは自分が一番よく分かるなどというのは、思い上がりです。他人の顔ならじかに目で見られても、自分の顔は、いったん鏡などに映さなければ見られぬのですから」

 と、やんわり俺をさとした。


 人の気配がある所では眠れない――それは今も変わらないはずなのに。

 なぜ、野分がすぐそばにいる状況で眠ってしまったのか、真相は分からない。

 ただ――とてもやすらげる時間を過ごし、これ以上ないほど満たされた感覚がある。

 母親の膝で甘えた記憶というのが、俺にはないが――もしかすると、あんな感じなんだろうか。


 野分と恋仲になろうとか、夫の座に納まろうとか、そういう欲求は相変わらず、俺の中には少しもない。むしろ、「それは俺のいるべき場所ではない」と、強く思う。

 ただ――今のこの場所が、何物にも代えがたい貴重なものなのは、確かだった。




 翌年よくねん

 年が改まって、まだそれほどたっていない、寒さの残っている頃。

 病人をた記録を自宅でまとめていると、そこへ九護家からの使いがやって来た。

 文などは甚右衛門じんえもんさんの所に預けてほしいとたのんであるから、自宅のほうに来ることはなくなったはずなのに――そういぶかしみ、胸騒むなさわぎを覚えつつ、使いから用件を聞いてみると。

「こちらに野分様が立ち寄られたり、あるいは何かお伝えになられたりしませんでしたか?」

 不吉ふきつな予感は、やがて現実のものとなった。

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――奇獣流転前日譚―― その魚は水を求める 里内和也 @kazuyasatouchi

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