第29話 訓戒

 いつものごとく、都を訪れた最後に九護家くごけに寄った、ある日。

 野分のわきとともに屋敷の廊下ろうかを歩いていると、どこか遠くから、

「おまえはこんな誰でも出来る仕事も、まともに出来ないのか!」

 と怒鳴どなる声が、かすかに耳に届いた。

 その途端とたん、野分は足を止め、俺を振り返り、

「先に部屋へ行っていてください」

 と言い置いて、声が聞こえてきたほうへ行ってしまった。


 言われたとおりにするべきなのだろうけれど、俺は何となく気にかかり、こっそり野分の後を追った。怒声どせいが飛んでいる現場なんて危ないのではないか、と懸念けねんがわいたのだ。

 野分の行き先は、屋敷の納戸なんどの前だった。そこには、九護家の家人けにんらしき男が二人いた。

 俺は柱のかげに身をかくしながら、様子をうかがった。


 野分は二人に事情をたずねている。すると、二人のうち、立場が上と思われるほうが、

「いや、それが、与八よはちの奴がいつまでも同じ失敗ばかりり返すものですから。誰だって出来るような、簡単な仕事なのに」

 と説明した。

 先ほどの怒鳴り声は、この男のものだったのだろう。相手が主家の姫君なので、おだやかに振る舞っているが、内心に苛立いらだちをかかえているのが、けて見えた。

 与八と呼ばれたほうの男は、ひたすら身をちぢめている。申し訳なさからなのか、それとも単に叱責しっせきおそろしいからなのかは、判然としなかった。

 ただ――ほほがうっすら赤いように見えるのは、ひょっとしたら、何かでたたかれたからかもしれない。確証はないが。


 野分は、叱責していた男に向かって、きっぱりと、

「誰にでも出来る仕事など、この世には一つとして存在しません」

 と告げ、首を横に振った。

 上からおさえつけるのとは違う、淡々と道理をくような、静かな声音だった。それでいて、しっかりとしたしんを感じさせる。今の彼女に対して、感情にまかせて反抗しようとは、誰も思うまい。


 言われた男は、意表をかれたように言葉を発さず、目をしばたたいている。

 野分はさらに、声をややひくめ、男を真っすぐに見据みすえながらさとした。

次助じすけ。どのような仕事にも、それが出来ぬ者が必ず存在します。仕事とはそういうもの。かろんじてはなりません。そこをうまく配分し、教えれば出来る者は適切にみちびく――それが上に立つ者の役目です」

「あ、あの……は、はい」

「仕事の割り振り方そのものに無理がなかったか。教えれば出来ると判断したのなら、教え方が本当に充分だったか。あるいは、もっと別の何かがさまたげになっているのか――どこに問題があったのか、もう一度よく振り返ってごらんなさい」

「……はい」

 次助と呼ばれた男は、他に言葉が出てこないのか、ただ首肯しゅこうするばかりだった。

 さりとて、畏縮いしゅくしているのともどこか違う。野分の視線の奥にある強い意思と、深みのある声とに飲み込まれ、反論すら頭から吹き飛んでいるのではないか。


 野分はそこで、ふっと表情をやわらげ、

「それでもうまくいかぬようなら……いつでも私に相談しなさい。どうすればこの問題が解決するか、ともに考えましょう」

 と、包み込むような温かな眼差まなざしで伝えた。

 次助はぴしりと背筋せすじを伸ばし、

「は、はい! 承知いたしました!」

 と返事をした。そこにはもはや、苛立ちは見受けられなかった。


 与八は、ありがたそうに野分を見つめている。これまでにも何度となく、きびしく叱責されていたのかもしれない。

 一連の光景に、俺は思わず見入みいってしまったが――不意にこちらを向いた野分と、目が合った。

 どきりとし、反射的にその場を離れようとしかけたが――思いとどまった。

 こそこそした真似まねをするのは、かえって野分に申し訳ない。印象も悪くなるだけだ。


 立ち止まっている俺のそばまで、野分がやって来た。俺は正直に、

「すまない。どうしても気になっちまって。怒鳴り声だったから、まさか危ない目にあったりしねえかって、それも心配になって」

「構いません。見られたら困ると思っていたわけではありませんから。あくまで私の役目であって、あなたには関わりのないことだから、先に行っていてほしいとお願いしただけです」


 俺たちは改めて、野分の部屋に向かうために二人で廊下を歩いた。

 その途中で、彼女はぽつりと、

「先ほど怒鳴っていた者は、百姓の娘や水仕女みずしめが私と同じことを言ったとしたら、おそらく聞く耳を持たなかったでしょう」

「え?」

「だからこそ、私が言うよりほかにないのです。……これは決して、よいことではありません」

 複雑な口振りでそう語って、困ったように小さく苦笑する野分は――十四という年齢を、軽々とえた存在に見えた。

 公家の娘として生まれ育っても、この年でこんな風に振る舞える人間は、そう多くないだろう。いや、滅多めったにいないのではないか。


 俺もまた、せつない気持ちで苦笑し、

「おまえ一人で背負せおわなくていい。この世には、思うにまかせねえことが山ほどある。自分さえしっかりしてればなんて考えるのは、むしろ思い上がりだ」

「……ええ。きっと、そうなのでしょう」

 そっと息をつく野分に、俺のほうが無力感を覚えた。


 あえて「思い上がり」という強い言葉を使ったが――野分自身も、そんなことはとうに分かっているのだろう。

 俺が野分にしてやれることは、あまりにも限られている――そのどうしようもない事実が、やるせなかった。

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