エピローグ: 安息日をとうに過ぎて:記憶の残響 ―新世界―

 あの奇跡的な7日間から1ヶ月が経過した。さいたま新都心の街並みは、表面上は完全に元の姿を取り戻していた。人々は日常の営みに戻り、一見すると何事もなかったかのように見える。しかし、街全体を包み込む奇妙な違和感は、日を追うごとに強まっていった。


 ある日の朝、コンビニで偶然出会った幼なじみの田中さんと高梨さんは、こんな会話を交わしていた。


「おはよう、田中さん。……えっと、田中さんだよね?」

「ああ、高梨さん。うん、田中だよ。でも、なんだか初めて会ったような……変な感じがするね。疲れてるのかな、ははは」


 このような会話が、街のあちこちで聞かれるようになっていた。昔からの知り合いのはずなのに、どこか違和感を覚える。初めて会ったはずなのに、旧知の間柄のように感じる……。まるで記憶が曖昧になったかのような感覚が、多くの人々を悩ませていた。


 さらに奇妙なことは、街には見覚えのない顔ぶれが増えている気がすることだ。しかし彼らは自然に街に溶け込み、まるで昔からそこにいたかのように振る舞っている。不思議なことに、誰も彼らの来歴を明確に説明することができないにもかかわらず、気にする様子はなかった。


 この状況を、さくらは鋭く観察していた。

 ある日、彼女は親友の美咲とカフェで話をしていた。


「ねえ美咲、最近街で見かける不思議な人たち、もしかしたら……」

「もしかしたら?」

「あの卵から生まれた人たちなのかな」


 さくらのつぶやきに、美咲は目を丸くした。

 しかし、その言葉は彼女の心に深く刻まれた。


 科学界でも、この奇妙な状況について様々な仮説が立てられていた。東京大学の高橋健太郎教授は、記者会見でこう語った。


「我々は、『集合的記憶の変容』や『平行世界の融合』といった大胆な仮説を立てています。例えば、あの7日間の出来事によって、我々の集合的な記憶が書き換えられた可能性があります。または、複数の平行世界が融合し、異なる世界線の記憶が混在している可能性もあります」


 しかし、高橋教授も認めるように、これらの仮説を科学的に証明することは不可能だった。それでも、多くの人々がこの説明に納得していった。それは、彼らの体験を説明する唯一の方法だったからだ。


 哲学界でも、新たな議論が展開されていた。京都大学の山田太郎教授は、「存在の連続性」について新たな理論を提唱した。


「我々が『自己』と呼んでいるものは、実は刻々と変化し続けている。にもかかわらず、我々はそれを連続的な存在だと認識している。あの7日間の経験は、この『存在の連続性』という幻想を打ち破り、『アイデンティティの本質』について根本的な問いを投げかけているのです」


 山田教授の理論は、多くの人々の共感を呼んだ。それは、彼らが日々感じている違和感を言語化したものだったからだ。


 街の雰囲気も、目に見えない形で変化していった。カフェでは深遠な哲学的議論が日常的に交わされ、美術館では現実と非現実の境界を探る前衛的な作品が人気を集めていた。宗教施設では、既存の教義を超えた新たなスピリチュアリティが模索されていた。


 そして、人々の価値観も少しずつ変容していった。物質的な豊かさよりも、内面の充実を求める人が増えた。競争よりも協調を、確実性よりも可能性を重視する傾向が強まっていった。


 さくらは、この変化を日々のブログで発信し続けていた。


「私たちの街は、目に見えない形で進化し続けているみたい。みんな、何かを求めているんだ。でも、それが何なのかはまだわからない。でも、それを探す過程そのものに意味があるんじゃないかな」


 彼女の洞察は、多くの人々の心に響いた。


 そうして、さいたま新都心は、目に見えない不思議な雰囲気に包まれたまま、新たな日常を歩み始めていった。人々は、科学では説明のつかない現象と日々向き合いながら、新たな世界観を模索し続けている。


 あの巨大な卵は消えた。しかし、その7日間の経験は、人々の心に深く刻まれ、彼らの生き方を永遠に変えてしまったのだ。そして、その変化は今もなお、静かに、しかし確実に広がり続けている。


 人類は今、未知なる進化の途上にあるのかもしれない。その行き着く先が、誰にもわからない今、我々にできることは、この不思議な旅を謙虚に、そして勇敢に続けていくことだけなのかもしれない。


(※この物語はフィクションです。いかなる実在の団体・個人とも関係がありません)

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【SF短編小説】さいたま巨大卵奇譚 ―七日間の異界― 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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