後編 小百合さん

おはようございます、と寝起きの少し朦朧とした意識で挨拶をした。


それとは対照的に、明るい声とはっきりとした笑顔で、おはようございます、が返ってくる。


浴衣、素敵ですね、と声をかけた。


紺地に古典柄が白抜きされた浴衣だった。


ありがとうございます、浴衣が好きなんですが、着る機会がないからこういう時にと思って。


と、その女性が答えた。



鄙びた温泉街に映えますね。


ええ、ここは車の通りも少なくて、時間が止まっているみたいで、癒されますよね。


今日はどこかにお出かけするんですか?


街を見て歩こうかと。


ああ、僕もです、近くにこの町出身の偉人の記念館がありますよね、そこにも行ってみようかと。



そんな流れで、一緒に散策をすることになった。



♢♢♢



街は観光地になっていない。

僕たち以外誰も歩いていなかった。


近くに大きな湖があり、視界がひらけている。

天気は良く、青空に入道雲。

小学生の時、絵日記にそんな絵を書いた覚えがある。

あの頃は、時間が無限にあるように感じていたことを思い出す。



小百合さんは白のレースがあしらわれた日傘をさしていた。

傘の陰が小百合さんの目元を覆い、ミステリアスだった。



記念館に寄りちょっとお勉強をして、ボロい見た目の割に品揃えがよい個人商店で酒とつまみを調達した。


近くにある足湯に浸かりながら、二人でアイスを食べた。



ここにはよく来るんですか?


ええ、年に一度。


それは結構な頻度ですね。


五年前に亡くなった夫と毎年来ていて、今も、来なくてはいけないような気がしてしまうんです。


思い出の場所なんですね。


大した思い出はないのですが。夫がいないことに慣れるためでしょうか。



小百合さんは笑った。


見た目は三十代半ばに見えたが、優しげな目尻の皺からすると四十代かもしれない。



♢♢♢



部屋に戻り、本を読みながらビールを飲んだ。

田中さんと親しくなってから、酒を飲む習慣ができた。


読み耽っていると夕食の時刻になり、食堂へ行く。

小百合さんはシンプルなワンピースになっていた。


夕食を済ませて食堂を出ようとしたときに、小百合さんから部屋で飲まないか、と誘われた。




小百合さんの部屋は、自分の部屋より見晴らしがよく、虫の声や川のせせらぎが聞こえて涼やかだった。



若い男性が一人だなんて、珍しいですね。


と言われて、そういえばこちらの事情は言ってなかったと気づいた。



付き合っていた彼女に振られて。僕が浮気したのが悪いのですが。


小百合さんは驚いた表情をした。



そんな人には見えませんけど、と僕の顔を見て言った。


ええ、僕も、自分がそんな人間だとは思っていませんでした。彼女に不満があるわけでもないし、浮気相手をすごく好きだというわけでもなく。単に、そういう習慣ができただけで。


習慣……という言葉が出て、自分でも納得した。



罪悪感はあるのですか?


酷い人間だと自分でも思うのですが、それが無くて。自分はおかしいんだと思ったから、ここに来たんです。ここでゆっくりすれば、罪悪感を感じられるんじゃないかと思って。



小百合さんは両手でお酒の缶を抑えたまま、黙りこくってしまった。


こんな気味の悪い感性の男がそばにいて、具合が悪くなってしまったのだろうか。


小百合さんが口を開いた。



夫は……優しくて良い人だったんですが、亡くなった後、遺品を整理していたら手紙が出てきたんです。夫が学生時代もらったラブレターでした。中味は大したものじゃなくて。単に、思い出話と、好きだから付き合ってほしいというものでした。本当に付き合ったのかはわかりません。そんな話、聞いたこともないし。でも、なんで何十年経ってもとっていたのかなって。闘病していたので、処分する時間は十分あったのに。


小百合さんは真っ黒な瞳で僕を見つめた。



忘れていたんじゃないですか、もらったことを。手紙だし、ましてラブレターだから捨てづらかったとか。


そうでしょうか……。


覚えてたら、逆にちゃんと自分で処分しますよ。たまたまですよ。


実はずっとその人が好きだったとか、ありませんかね?


僕はロマンチックな人間ではないので、そういう気持ちは全くわからないですね。それにたかだか紙切れ一枚に、そんな重い意味なんか持たせたくないし。旦那さん、良い人だったんでしょう? 亡くなったら弁解もできないし、疑われたままじゃ旦那さんが可哀想です。僕みたいな優柔不断で浮気してたわけじゃないんだし、気にしなくていいんじゃないですかね。



普段、他人を説得するようなことはしないのだが、なんとなく小百合さんの旦那さんが僕みたいな人であってほしくないと思っていた。


小百合さんは、ありがとう、と言って溢れる前の涙を拭った。




しばらくして自分の部屋に戻ろうとしたら、寂しいから今夜は一緒にいてほしいと言われた。


断る理由がなかったのでそうした。



小百合さんは着痩せをするタイプのようで、前開きのボタンが外れると、思いの外大きな乳房が現れた。


白い肌の上に、艶やかな黒い髪が落ちる。


華奢だった田中さんとは対照的に、小百合さんの体は柔らかな脂肪に包まれていた。


首筋にキスをしたときに、くすぐったいと言って笑ったのが可愛らしかった。


小百合さんの、閉じていた心と体がゆるんだのは嬉しかった。


温泉のにおいと小百合さんのにおいが混じっていく。



♢♢♢



翌朝、お互いにちょっと恥ずかしい気持ちもありながら身支度をした。


小百合さんはバスに乗って帰るという。


送りますよ、と言ったが、バスで帰るまでが自分の旅行なのだと言う。


来年はここに来なくてすみそうです、と小百合さんは微笑んで言った。




車に乗り込むと、メッセージが届いていた。


彼女から、やっぱりよりを戻したいという内容だった。


スマホのカレンダーが目に入る。


明日は、彼女の誕生日だった。



(完)

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良い人 千織 @katokaikou

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