良い人
千織
前編 田中さん
僕は傷心を癒すために、鄙びた田舎町の温泉宿に来ていた。
学生時代から付き合っていた彼女に振られてしまったのだ。
僕は、理系の大学院こそ出たものの、それは単に社会に出ることを先延ばしにする口実だった。
案の定、就活時はこの社会性の無さから働き口が見つからなかった。
こんな甲斐性無しを彼女が見かねて、彼女のお父さんが経営する会社が僕を引き取ってくれたのだ。
僕もそれなりに頑張って仕事をして、悪くはなかった。
彼女は、親がいる会社では働きたくないと言って、ほかの化粧品会社の営業をやっていた。
お互い仕事に慣れてきたら結婚する、そんな話も出ていた。
ある日、僕は事務員の田中さんのアパートにいた。
帰宅途中、急なゲリラ豪雨に見舞われ、近くの建物の軒で雨宿りをしていたら、田中さんが傘を差しながらこちらに向かってきた。
その軒は、田中さんのアパートのものだったのだ。
良かったら上がってってください、と言われ、好意に甘えた。
会社では控えめで、にこにこしているだけの田中さんだったが、話してみると趣味が映画鑑賞で話が合った。
ついつい盛り上がり、長話をしてしまった。
夕飯も食べていってよ、と田中さんは言って、そうすることにした。
田中さんは童顔で華奢なのだが、見た目によらずお酒が好きだった。
ストックのビールやら日本酒をご馳走してくれた。
自家製の梅酒も美味しかった。
僕はあまり酒が強くないので、すぐにダルくなってしまった。
帰るのが面倒くさいなと思っていると、田中さんは、どうせ明日は休みだし泊まっていったら、と言う。
田中さんがいいならいいだろうと思って、そうすることにした。
お風呂までいただき、僕はボーッとテレビを見ていた。
すると、田中さんが入浴を終え、タンクトップにショートパンツのルームウェアで現れた。
普段、白のブラウスにタイトスカートのきちんとした服装しか見ていないから、薄着で太ももまで露わになっているのを見て、ドキりとした。
ワインもどうぞ、と言われ、気を逸らすためについつい飲んでしまった。
酔い潰れてしまえば、このやましい気持ちが表に出ることもないだろうと。
田中さんは僕の体に触ってきて、彼女とはどうなんだ、と聞く。
普通。
普通に付き合ってる、と答える。
どこにデートに行くのか、彼女のどこが好きなのか、と訊かれる。
何を答えたか、もう思い出せない。
田中さんが言った。
自分はまだ処女で、モテないからきっと結婚できないだろう、一度だけでいいから経験がしたい、ならせめて良い人に抱かれたい。
それで、僕にそうしてほしいと言うのだ。
田中さんは切実そうな目をしてこちらを見つめてきた。
僕は、田中さんの気持ちもわかるような気がして、断れなかった。
♢♢♢
その日以降、田中さんはよく笑うようになり、雰囲気も素朴な印象からどことなく綺麗になった。
会社ではそれほど話さないが、度々田中さんのアパートに泊まるようになった。
田中さんとの体の相性は良く、なんら違和感なくことに及んだ。
「今の田中さんなら、彼氏できるんじゃない?」
僕がそういうと田中さんは、そうかな……と言った。
嬉しいのかなんなのかわからない、微妙な反応だった。
田中さんとの関係が始まって二か月くらい経った頃、田中さんの部屋に入ろうとしたところを彼女に見られてしまった。
怪しんだ彼女に、尾行されていたのだ。
そのまま彼女も乗り込む。
田中さんの部屋の中に、三人。
その頃には、僕の部屋着や細々したものが田中さんの部屋にも置かれるようになっていた。
どういうことなのか、と彼女につめよられる。
僕が、雨宿りで部屋に上がり込んでしまい、それから仕事で遅くなった日はつい帰るのが面倒で、泊まらせてもらうようになったんだ、
と、僕は彼女に言った。
よく、父の会社にいながらそんなことができるわね!
と、彼女が言う。
ごもっともだ。
田中さんは泣いている。
二人ともごめんね、僕が悪いんだ、田中さんは本当は迷惑だったのに僕が強引だったから断れなかったんだ、だから、僕が全部悪いんだよ。
と、僕は言った。
彼女は一通り、僕と田中さんを責めて、その日は終わった。
♢♢♢
田中さんは、退職した。
最後に僕に、ありがとうございました、と言った。
僕も、クビになるもんだと思っていた。
「会社の社員としてと、娘とのことは別だから。ただ、君にとっても、娘がいい相手だとは思わないけどね」
社長はそう言った。
僕と彼女は、話し合った結果別れることにした。
僕はずっと働き通しで、全く使っていなかった有休を初めて使ってこの温泉に来た。
年季の入った温泉宿で、寝るだけの小さな和室を借りた。
ここに二泊する。
ボーッとしたり、本を読んだり、散歩したり、温泉に入って過ごす。
一日目が終わり、二日目の朝になった。
朝食を取るために食堂に行くと、浴衣姿の髪の長い女性が一人いた。
昨日も、木陰をゆっくり散歩したり、宿の休憩スペースで涼んでいる姿を見かけた。
その時も一人だった。
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