闇の巡礼者
ミド
闇の巡礼者
息子よ、お前は私がこのような手紙と古書を旅先からわざわざ送ることを奇妙に思うだろう。しかし、私は何としても故郷に持ち帰らなければならない物を手に入れたのだ。これをお前に届けなければならない。そして今の私はまた、己の生命の危機をも感じているのだ。
この手紙に添えた古書には、この土地で培われた、死を失った呪わしい命を救う術が記されているという。これを解読することで、我々を悩ませるあの忌むべき不死者、吸血鬼を人に戻すこともできるとよいのだが。
そう、吸血鬼なるものこそは、いかなる貴族や富者が地上に富を積もうとこれを治す薬の無い病である。私はこの先如何なる叡智を得ようとも、彼らが生まれることを神がお認めになった理由だけは理解できないように思うのだ。
私が命の危険を感じている理由も、まさにこの不死者にある。今から書くことは信じ難くもあるだろうが、私が間違いなくこの耳目で見聞きしたことだ。
私が海と砂漠を越え、この巡礼の旅の本来の目的地に近付いた頃だった。ある町の宿で私は、身なりが良く振る舞いから相当の身分であることを伺わせる男に出会った。聞けばこの男もさる国の貴族であって、更には聖地を目指す巡礼者であるという。このような所で似た者と遭遇するとは奇妙な縁もあったものだと私は驚いた。
我々は直ぐに親しくなり、どうせ共通の目的地を目指すのだからと同行することになった。数日共に過ごす内、この男は自らの身の上を語って聞かせてくれるようになった。
彼は名をマグヌスといい、北方の大国で伯爵の地位を持つ者であるという。背は曲がっておらず身の丈は高かったが、その憂いた表情の浮かぶ顔は老人の域に差し掛かっていると言っても差し支えはなさそうだった。只一人の従者しか連れず聖地への巡礼を志した理由を私が尋ねた時、彼は一度目には世俗における苦悩と苦痛を忘れるためだと語った。
マグヌスはまた、私の持つ広大な領地に幾らかの羨望の感情があることを仄めかしつつも、我々の一族が末永く栄えるようにと願う言葉をかけ、彼が領地を治めるのに用いる方策を講じてくれもした。その口ぶりから、私はこの男について、彼の国での政争に敗れ領地を失ったのではないかとの印象を持った。
お互い決して若くないとはいえ、男二人とその従者での旅路は早いものだった。我々は一週間の内に聖地に辿り着いた。そこで見聞きした数々の素晴らしいものはまた別の手紙に記すとしよう。この手紙は早急に書き上げられなければならないからだ。
その日の私は、マグヌスも私と同じく感動と共に秘跡の地を歩んでいるのだとばかり思っていた。だが、宿で夕食を共にした際の彼の様子から、私は思い違いをはっきり悟った。乾杯の直後に、どうやら救いなどないようだ、とマグヌスは一言ぽつりと呟き、それ以上は何も語ろうとしなかった。
私は就寝前に再度彼と言葉を交わそうとした。マグヌスは応えなかったが、主人とはうって変わって背の低い小男の従者が代わりに事情を幾らか語ってくれた。
彼の言葉によれば、彼らの国では大貴族の一族というのは国の支配者の地位を巡って争うものではなく、一つの王家から国家への貢献の見返りに土地と地位を与えられるものであるようだった。そうした国にあって、最も勢力の強い大貴族の跡取りとして生まれ、優れた教育者の下で豊富な知識と教養を身に付けた彼は齢二十三歳にして女王の側近となった。即ち、マグヌスはかつて栄華を極めた大貴族であったのだ。
輝かしい称賛と名声の下、広大な領地を手にした彼にはしかし、二度の苦難が待ち受けていた。一度目は、理由は不明だが女王の不興を買い、宮廷から去ることを余儀なくされた。その後女王の退位と新国王の即位に伴い、マグヌスは政治の場に返り咲いた。
益々高い地位と権力を得た彼は、二十六年間その立場を享受した。そして齢も六十にさしかかろうという頃、再び失脚の憂き目を見た。彼は先祖から受け継いだ城を含む領地のほぼ全てを国王に明け渡すことを余儀なくされた。更には国土を荒廃させた罪に問われ、失意の底に突き落とされたのだという。領地の喪失に関する限りにおいてはマグヌスに対する私の印象は正しかったようだ。
彼の経緯を聞いた私は気の毒に感じたが、遠い異国の権力争いに介入などできはしない。そこに至るまでには彼と従者が語らない彼自身の失策と落ち度もあったことだろう。ただ翌朝朝食を共にした際に、私は彼に対して、神は彼を公正に扱われる事だろうと言った。
マグヌスは私の言葉を喜ばなかった。ただ暫しの沈黙の後、聖書が決して語らぬ忌むべき秘術に関心があるかと私に尋ねた。彼の身に付けたという深い教養とかつて得た高い地位を鑑みれば、そのようなものを求めるなど正気の沙汰ではないように思えた。私は自らの感情を偽り、あると答えた。これ以上関わらぬのが賢明であるとは理解していたが、この魂に傷を負った男を独りにしておくわけにはいかなかったのだ。
私の返答を聞いたマグヌスは微笑みを浮かべた。
そうしたわけで私は、その翌日から本来の旅路を逸れて彼についていく事になった。彼の目的地については、教えてもらえなかった。私がどのような忌地を踏むことになるか知ったのは、いよいよそこに近付いてからの事だ。場所は伏せるが、私が生きて帰れたならばお前の耳にだけ直接語ろう。
その日からというもの、マグヌスは一日の殆ど全てを鬱屈した表情で過ごすようになった。一方で、時折非常に上機嫌になりもした。だが、その際の彼の笑みを凄惨と呼ばずして何と呼ぼうか。
彼は毎晩、身の上に起きた不幸を断片的に私に語るようになった。始めの内、それらは既に従者から聞いたとおり、彼の国家への貢献に関わらず国王達は彼に無実の罪を着せ財産を召し上げたといった内容であった。一つ印象的な点として、女王の名を口にする際には激しい憤りを露わにしていた。
更に聞くうちに、どうやら彼は領地を取り上げた現国王への不満もさることながら、二代前の女王について彼の不幸の根源だと見做していると判った。彼の言葉の幾らかの部分では誤解や逆恨みも混ざった狂気に近いものを感じられた。繰り返し語るには、彼は女王と彼の妻とをそれぞれ別な形で愛していたが、二人は共謀して彼を裏切ったのだという。私はそれが如何なることを意味するかを敢えて聞こうとは思わないが、その出来事は若き日の彼を酷く傷つけたのだろう。
彼はまた、国王からの迫害に抗う術として、黒魔術に関心を抱くようになった。ただし、西方で相争っていた新教も旧教も彼の救いとはならなかったが、最後の試みとして、それならば教えの生まれた場所に行けば救済を得られはしないかという一縷の望みはあったらしい。それが先日、聖地を訪れても何も感じられず、遂に諦めるに至ったという。
そして我々は禁断の地に辿り着いてしまった。村の案内人だという男の口にすることはどれも不気味で、私は嫌悪感を殺すのに大変な努力を要した。関心があるふりだけをして、何も見ず何も聞かずにその村を去りたかった。
マグヌスは永遠の命を得る術と、彼の敵を必ず滅ぼす忠実な僕を作り出す術という二つの術を探していると言った。手がかりとなりうる事など教えるべきでなかったにも関わらず、永遠の命とは吸血鬼になるということか、と私は口を滑らせてしまった。慌ててそれは勘違いだったと嘘を吐いたが、マグヌスは執拗に追及したので、私は渋々我々の国に存在するあの化け物について説明することになった。
彼は大喜びして、私に不死身の力を得る為の魔術書探しを手伝ってもらうと言い出した。後者の術については従者に探させるという。私は進んであのようなものになりたいと望む彼に心底恐怖を感じた。
禁断の地の一角に、大気を司る悪魔を祀った廟があった。その付近には、黒魔術の書を並べた古書商人が店を構えていた。マグヌスは上機嫌で目的の物について尋ねた。私は誤って助言しないよう口を噤み、店主が気の利かぬ者或いは商売熱心でない者であることを願った。だが彼は直ぐに思い当たったらしく、マグヌスはすんなりと魔術書を手にしてしまった。
最早彼を止めることは叶わないように思えた。だが、私の心には一つの勇気が沸いてもいた。マグヌスがどう考えようとも、神が悪魔に人を惑わすことを赦されているのは、密かに人の為に悪魔に抗う術をお創りになっているが故のことに違いないのだ。私はマグヌスを先に行かせ、この怪しげな商人にマグヌスの払った金の倍額を渡して、先程の魔術書に対抗する為の魔術書を売るように要求した。
商人は大喜びで私が望んだものを差しだした。内容は確かだが誰も欲しがらない物を高値で売れて、思いも寄らぬ幸運だったのだという。私はすぐさま本を開いて、少なくとも存在する言語で文字が書いてあることを確かめた。
マグヌスの従者も、主人が望むものを見つけ出したらしい。我々の用件はそれで終わった。
この村で休む気にはなれず、私は来た道を引き返すことを提案した。マグヌスは反対はしなかったが、例のぞっとする笑みを浮かべて、ここまで来てしまえばそんな事をしても無駄なのだと言った。野宿もやむなしかと思っていたが、意外にも帰り路はあっさりとしたものだった。突然道が短くなったかのように、我々は日没前に前の町へとたどり着くことができた。
そして夜が来た。息子よ、ここまでを読んだお前は私が旅路で病に侵され悪夢を見た、或いは錯乱したに過ぎないと思ったかもしれない。私も己の耳目を信じ難く、いっそ事物が正しく見えず聞こえぬ者になってしまったという顛末であればまだよかったように思う。だが、そうではないのだ。
突然マグヌスの部屋から、この世の者とは思えぬ叫び声がした。それは一度限りであったが、あまりの壮絶さに、永遠に続くかと思われた。
私は十字架を手に強く握りしめ、隣室のドアを何度も叩いた。返事はなかった。私は少しばかりの苛立ちと共に、そこにいるのならば出てこいと扉に向けて言うと、自室の戸を開いた。その時、ふと私はマグヌスの所業次第では自らにも身の危険がある可能性に気付いた。そこで戸を閉める前に十字架を扉に取り付けておいたのだ。
私は間違いなくそのようにして扉を閉め、また閂もした。部屋にも十字架が掛けられていたため、これ幸いと取り外して窓辺に吊るした。そうして翌朝を待つつもりでいたのだ。だが、さほど経たない内に扉を叩く音と私を呼ぶ声がした。それは間違いなくマグヌスの声だったが、隣に連れているであろう従者の声は、人間のものではなくなっていた。
私は入ってよいとは一度も言わなかったし、終始聖画像と十字架を手から離さなかった。だが凄まじい力で扉はこじ開けられ、蒼褪めた顔で目ばかりが爛々と光るマグヌスの姿を私ははっきりと見た。
別れの挨拶だ、と彼は言った。自身は明日の朝まで待っても構わないが、私の方では一刻も早く自分から離れたいに違いないと考えたのだという。私はそれには答えず、ただ彼を救う手立てがここに無いことを悲しむとだけ告げた。手に入れた秘法は解読しなければ使い物にならず、血に飢えた獣が私の解読を悠長に待つはずがないためだ。
マグヌスはあの恐ろしい笑みと共に、これが私の得た救いだ、とだけ言って静かに部屋を後にした。彼の背後にいる小男の姿は醜く変貌し、両腕は異様に太く成長した蔦のように曲がりくねり、先が短くなっていた。
今日の夜明けは来た。私は恐る恐る彼の部屋を覗いたが、そこに残っている者はいなかった。ここまでが今私の知っている全てだ。私はマグヌスに理性が残っていることに驚き、また安堵はした。だが吸血鬼へと堕ちた以上、いつ彼の気が変わって私に牙を剥くかわからない。それ故に、この秘法と手紙は私の生死に関わらずお前の許に届くよう、直ちに送られなければならなかったのだ。ああ、天が彼に情け深くありますように。
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