夏に眩んだ水の世界で、だからわたしは人魚を殺す

ラーさん

夏に眩んだ水の世界で、だからわたしは人魚を殺す

 雑踏の中にいるのに雑踏の音が聴こえないのは、ここが水の中であるからだ。

 ○○駅と××駅との間に挟まれた繁華街の雑踏には、買物客や乗換客などのたくさんの人間が行き交っている。

 けれどこの人の流れを道の端で眺めるわたしの耳には、そこで聴こえるべき街の喧騒は聴こえない。そのかわりに見えるのは、コンビニやパチンコ店にドラッグストア、牛丼屋や蕎麦屋に居酒屋などの平々凡々と見慣れた繫華街の街並みがひやりとした青い暗色の水の底に沈んだ景色であり、その不思議な光景を照らす真夏の陽射しが水中にカーテンのような光となってゆらゆらとたゆたう世界だった。

 その水の世界を行き交う人々の息が、泡となって昇っていく。

 息苦しくはなくて、ただ気泡だけがアクアリウムのエアレーションのようにぶくぶくと立ち昇り、音もなく光のカーテンと混ざり合って溶けていく。

 酷く暑い夏の日のはずだった。けれど、この水の中では夏の熱ももう他人事のように遠くて、行き交う人々とは断絶した静けさが、わたしを冷ややかに夏の世界から隔離する。

 この断絶は感覚の問題ではなく文字通りの事実のようで、道端でひとりきりで立つ女が声を上げたり手を振り上げたりしても誰にも見えも聴こえもしないのか、通行人たちは目すら動かすことなくわたしの前を通り過ぎていき、伸ばした手も彼らの身体を立体映像にでも触ろうとしたかのようにすり抜けてしまう。

 誰にも見えず、聴こえず、触れられない、水に沈んだ夏の街の片隅。

 そんなこの世とは思えない異常な世界に、わたしはひとり入り込んでいた。


「本当に来れた――」


 ネットで見つけた都市伝説だった。

 真夏の白い陽射しに燃えるような陽炎かげろうが揺れる日に、この繁華街の雑踏の特定の場所でずっと立ち続けていると、くらむような夏の暑さが世界と世界の境界線をあいまいにして、ここではない水の世界へ行くことができるという都市伝説。

 わたしはこの世界に行きたくて、じりじりと焼ける夏の太陽の下で待ち続けて、馬鹿みたいに待ち続けて、だんだんと意識が朦朧としてきた頃に、足元のアスファルトから水がじわじわと滲んでくるのを見たのだった。その水は地面を走ってあたりへと広がりながら、どんどんと、どんどんと湧いてきて、湧いて、湧いて街を沈めて、わたしをこの平凡な日常風景を幻想で上書きしたような水の世界へと連れてきてくれたのだ。

 この都市伝説は嘘じゃなかった。夢じゃなかった。本当だった。わたしは自分が興奮しているのを感じた。希望が胸に湧いてくるのを感じた。この世界が本物なら、わたしはきっと――、


「――彼女に会える」


 そう口からこぼしたときに、わたしの頭上にゆらりと動く影がよぎった。


「え?」


 顔を上げたわたしの目に、揺らめく光の波を間切りながら泳ぐ人影の姿が映った。それは繁華街の上を縦横に走る電柱の電線や、人々の息から立ち昇る泡の群れをすり抜けながら、ゆらゆらと泳いでゆっくりとわたしの居るところまで降りて来た。


「あ――」


 瑠璃色に輝く髪が視界いっぱいに広がった。その髪は青くやわらかいシルクのビロードに砕けた紫水晶アメジストの欠片をまぶしたような色つやで煌めき、細く長い花びらをゆらめかす水中華のような優雅さでわたしを覆った。このたゆたう髪の隙間からは風に揺れる木々のこずえが降らす木漏れ日にも似た光の波が見え隠れし、わたしの身体に網で出来た檻のような影を落とす。

 わたしは囚われた。

 神秘の色に。


「あなたは――」


 それは降り落ちる光と影の波の色で、

 それは水中華の花びらのように咲き開く女の髪の瑠璃色で、

 それはわたしを映してルビーのように輝く女の瞳の真紅の色で、

 それは長い首から肩、胸、腰へと広がる未踏の雪原のような女の肌の白色で、

 それは腰から下を赤白の硝子細工で埋め飾ったような魚の鱗の煌めく色で、

 それは脚先に透けてたなびく薄地のレースのような尾ひれがゆらめく色だった。


「――人魚」


 彼女は長い瑠璃色のまつ毛に縁取られた目を細め、ルビーの瞳でまっすぐにわたしを見つめながら桃色のふくよかな唇を緩めると、ギリシア彫刻の女神のような神秘の色の微笑みでわたしの言葉に応えてくれた。

 人魚の微笑。

 美しい顔。

 釘付けになる。


「もっと」


 魅了される。

 美しさに。

 わたしのような惨めな女とは違う、絶対的な美しさに。

 光そのものといえるような、輝きに満ちたその姿に。

 だから――、


「もっと近くに――」


 だからわたしは人魚を招くように手を広げる。人魚は誘いに応じるようにゆらゆらとわたしの目の前へと、わたしの手の届くところへと近づいてきて、わたしを受け入れるように、わたしの顔へと手を伸ばす。


「もっと――」


 白磁で作られたような細く長い彼女の指がひやりとわたしの頬に触れ、わたしはその感触に爆発しそうな喜びを抑えながら、肩に提げたバッグの中へと密やかに手を入れた。

 そうだ。この人魚が――彼女がどこまでも美しく、どこまでも神秘的で、どこまでも圧倒的な、この世のものではない存在だったから、わたしの希望の光にふさわしい存在だったから――、


「ああ――」


 だからわたしは、わたしの欲望にどこまでも従順になれたのだ。


「捕まえた」


 わたしはバッグに忍ばせていた包丁を近づいた人魚の腹に突き立てた。


「わたし、あなたになりたいの」


 血が水の中に煙のように噴き上がる。

 都市伝説には続きがあった。


「だからあたし、ここまで来たの――」


 真っ赤な、真っ赤な、美しいものから溢れた血が、のたうつ蛇のような小さな渦を巻きながら、ゆっくりと瑠璃色の髪を汚すように広がっていく。


『真夏の白い陽射しに燃えるような陽炎かげろうが揺れる日に、○○駅と××駅との間にある繁華街の道のある場所でずっと立ち続けていると、くらむような夏の暑さが世界と世界の境界線をあいまいにして、この世界とは別の次元にある水の世界へ行くことができます。その世界には髪や鱗を宝石のように輝かせる、恐ろしいまでに美しい人魚が棲んでいます――』


 わたしは、煙る血に染まりながらも変わらずに美しい、茫洋とした微笑みを湛える人魚の横顔に自分の顔を添わせ、その耳に都市伝説の続きを語る。


『そこで人魚を殺し――』

「あなたを殺し――」


 ぐっと人魚のお腹に突き立てた包丁に力を込める。さらに多くの血が溢れ、人魚の裸身がびくんと跳ねる。その様子を愛しんで、わたしは恋人でも抱き寄せるように人魚の背中に手を回す。人魚は顔を仰いで口から音もなく血煙を立ち昇らせ、白い喉が眩しくわたしの眼前にさらされる。


『人魚の肉を食べることができれば――』

「あなたの肉を食べられたら――」


 そしてわたしは、絶命する白鳥のように仰ぎ反る人魚の喉首に狙いを定めて口を開き、


『その人は人魚になり――』

「あなたになれるって――」


 その肉を噛み千切った。


『その水の世界で永遠に生きられるのです』

「――永遠に」


 口に広がる人魚の血肉は、ほのかに甘みを帯びていた。


 ――ずっと、ここではないどこかへ行きたかった。


 人魚の肉を咀嚼して、飲み込むまでのわずかな時間、わたしはわたしのあまりにも惨めな、しみったれた暗黒の半生を思い返す。

 何故か娘を憎む母。

 家族に無関心な父。

 母に溺愛される弟。

 認知症の祖母。

 そんな家族の世話をする役目を負わされたわたしには、自分の人生の時間を生きる権利が与えられていなかった。

 いつもわたしにイライラしている母に怒鳴られながら家の掃除をして、それを見て見ぬふりする父が洗濯機に放り込んだ下着を毎日洗い、母に似た口の悪い弟の好き嫌いの多い舌に合うご飯を用意しながら、日に日に認知症が悪化して強情になっていく祖母の入浴や排泄の介護をする人生。

 友達はいなかった。遊ぶ時間が与えられていなかったから。成績は悪かった。宿題をやる時間すら与えられていなかったから。すべて家族に尽くした。捧げられた。奪われた。

 そんな閉ざされた人生を生きていたわたしにも、心に光が差し込む時間があった。本だ。学校の図書館から借りてきた本。その中の物語に触れている瞬間だけ、わたしは光を感じることができた。

 物語の中ではわたしは別人の主人公で、無敵に爽快に正しく悪人を成敗したり、とても善良に愛されて素敵な恋人と結ばれたり、ひどく切ない別れを経験しながらそれを強く乗り越えて成長したり、救いある光の人生を歩めたのだ。

 ささやかな夢の時間。

 わたしがわたしでない時間。

 学校の休み時間や寝る前のベッドの中で、わずかに浸れるここがここでない時間。

 けれど――、


「そんなくだらないもの読んでどうするの? そんな暇あるなら、もっと家族に尽くしなさいよ。みんながかわいそうだと思わないの?」


 そう母はわたしの読んでいた本を取り上げて、ガスコンロで燃やした日からそんな夢を見る時間もなくなった。

 そうだ。母は愕然と立ちすくむわたしを見ながら細めた目に愉悦を浮かべ、上げた口角に皮肉を湛えながら、わたしが学校から借りた本をガスコンロで焼いたのだ。

 ふざけている。

 心底ふざけている。

 なのに、それはわたしには絶対に逆らえないこの世界の常識で――。

 だから怒りを覚えているのに、わたしは蔑みのまなざしの母にご機嫌うかがいの愛想笑いを浮かべ、無関心の父に無関心を返し、わがままに暴言を吐いて叩いてくる弟にごめんなさいを言い、自分の粗相に泣き喚く祖母の排泄物を無言で片付ける以外のことができなかった。

 わたしの怒りはわたしを変えることができなかった。

 物語の主人公のようにわたしはわたしを変えることができなかった。

 怒りはあるのになにもできないでいる自分に、わたしは悲しく絶望したのだ。

 その人生には、もうなにも光はなかった。

 だからわたしは、わたしの世界からいなくなりたかった。


 ――そんなときに、わたしはこの世界に触れたのだ。


 去年の夏のことだった。高校に進学して通学路になった乗り換えの駅と駅との間の繫華街。そこを通った猛暑の日。その日は期末試験終わりの早上がりの日で、わたしは家に帰りたくなくて重くなった足を止めて、焼けるように輝く太陽を見上げていたのだった。

 そのとき一瞬にスッと周囲の熱が下がり、視界の色が青く暗くなったと思ったときに、わたしは空を飛ぶ人影――瑠璃色の髪をなびかせながら赤白の鱗に煌めく尾ひれを揺らして泳ぐ人魚の姿を見たのだ。

 光の波の中を泳ぐ神秘的な人魚の姿を。

 幻想の絵画から抜け出たような、その美しい横顔を。

 息をのんだわたしは、その突然の光景についに自分はおかしくなったのかと思って、咄嗟にその場から逃げ出した。すると白昼夢でも見たかのように青かった世界の色は、すぐに肌を焼く白い陽射しの色に戻ったのだった。

 わたしはホッとしながらも、けれどあの一瞬に見た光景が、あの人魚の横顔が、それを幻覚と思いつつ、強い光に焼き付いた影のように消えずに心に残るのを自覚せずにはいられなかった。

 だからわたしは、この日から人魚について調べ始め、そしてあの都市伝説に行き着き、今年の夏を迎えたのだ。


「――ん」


 人魚の血肉が、わたしの喉を越えて胃の中へと落ちていく。

 熱い。

 燃えるような熱さが胃にともる。


「もっと――」


 わたしは人魚を水底に押し倒し、はらわたに刺した包丁を引き抜く。


「もっとちょうだい」


 水に広がる血の匂いが薔薇の花のように甘く香り、わたしは胃の底から湧き上がってきた飢えと渇きの食欲に衝き動かされ、包丁で人魚の身体を切り削いだ。


「もっと――」


 茫洋とした瞳で虚ろに揺れる光の波を見上げる人魚から、その肉を一口大に切り離し、一口、二口と口に運ぶ。

 運び、噛み、呑み込み、そしてまた運ぶ。

 甘い旨味の人魚の血肉に、舌が徐々に痺れていく。

 繰り返される咀嚼と嚥下に、胃がどんどん熱くなって、その熱が身体全体に広がっていって、わたしはわたしが人間をやめてしだいに人魚になっていくのを確信しながら、貪るように人魚を食べた。

 食べた。

 食べ続けた。

 乳房がもがれ、腸を垂れ流し、白い肋骨をさらし、腕や首のやわらかい部分も噛み千切られながら、それでもなお美しい瑠璃色の髪の絨毯の上で、赤い血のもやがれ舞う赤白の鱗の煌めきに包まれながら、茫洋とした微笑を湛え続けて眠る人魚の身体を食べ続けた。


「ああ――」


 そして食欲が満ちたとき、わたしは人魚の死体を見下ろしていた。

 同時にこの死体に覆い被さってうずくまる女の姿も見下ろしていた。

 黒い髪を重く伸ばして小さい背中を醜く丸めた、みすぼらしい女の後ろ姿。


「あれは――」


 わたしだ。

 わたしの身体だ。


「なった」


 そこでわたしは、自分の身体がふわりと軽いものになって水の中に浮いていることに気づいたのだ。


「なったんだ」


 それは魂が抜け出たような感覚だった。重く沈む檻のような肉体から抜け出して、自由に軽やかな魂だけの存在になった感覚。


「人魚になった」


 自分の身体に目をやると、白磁のように滑らかな肌の腕が見え、肩、胸、腰へとやわらかく続くサテンの光沢の曲線の先には、赤白の硝子細工の煌めきの鱗に彩られた魚の半身が、薄地のレースのように透ける尾ひれをゆらりと水に揺らしていた。

 そして頭にやって両手でさらりと指に掬えたのは、豊かに伸びた波打つ髪の瑠璃の輝き。


「ああ、わたしは人魚だ!」


 わたしは喜びに肩を抱き、弾けるような勢いで腕を解き放った。全身が重さなんてなくなったように軽やかに伸びて、新しい身体の新しい尾ひれはわたしの意思に自由自在に翻り、わたしは空の上でも飛ぶような軽快さで水を舞った。

 ぐるぐると回る世界。

 見上げる夏の太陽は遠くやわらかい水の揺らぎに光を揺らし、見下ろす街に行き交う人々は疲れた顔で灼熱の夏の日常を歩いていく。

 人も建物も電線もすり抜けてわたしは泳ぐ。

 もうこの世界にわたしに触れられるものはなにもない。

 母も、父も、弟も、祖母も、もうわたしには触れられない。

 喜びに満ち満ちて、わたしは自分の見捨てた世界を自由に泳ぐ。

 ああ、やった。

 やったんだ。

 もう、わたしはわたしじゃない。

 わたしは人魚だ。


「わたしは人魚になったんだ!」


 心の底からの喝采に叫んだ声が心地よく耳を打った――そのときだった。


「え?」


 わたしは、わたしを見つめる視線を感じた。

 振り返る。

 その先にいたのはわたしの身体。

 惨めな人間だったわたしの身体。

 脱ぎ捨てて置き去りにしたはずのわたしの身体。


「なんで」


 その身体は立ち上がっていて、抜け殻のはずの動かないはずのその身体は確かに立ち上がっていて、人魚になったわたしをじっと見上げていた。


「なんで――」


 背筋にぞくりと悪寒が走った。不吉な予感。湧く不安。その目はわたしを見ていた。捨てたはずのわたしが、わたしを見ていた。忌避感に目を逸らしたくなる。だけれどその目はわたしの心を捕らえて逃がさなかった。抗えなかった。だってその目はわたしの心に深く傷を付けた人の表情と同じもので――、


「なんでそんな顔で見る!」


 細めた目に愉悦を浮かべ、上げた口角に皮肉を湛えた表情。


 嘲笑。


 なにか――なにかを奪われた。


「なにを――」


 そう直感したのは、その顔がわたしをあざける母の顔にそっくりだったからだ。

 わたしを侮蔑して、わたしの人生の光のすべてを奪った母の顔と。


「なに――」


 瞬間に怒りが湧いた。わたしは、わたしは生まれ変わったんだ! 奪い取ったんだ! なのに、なのに――、


「なんなのよ、その顔は!」


 ぶつかる勢いで泳ぎ、わたしはわたしだった身体に掴みかかる。


「え?」


 けれど、その手はすり抜けた。


「え、あ?」


 戸惑うわたしをあざ笑いながら、わたしだった身体がわたしを置いて去っていく。


「え」


 勝ち誇った笑みを残して、わたしだった身体がわたしを置いて去っていく。


「なんなのよ!」


 がむしゃらに振り回した手はすべて虚しくすり抜けて、わたしだった身体がわたしを置いて去っていく。


「なんなのよ、なんなのよ、なんなのよ!」


 あちらの世界に戻ったわたしのものだった身体は、こちらの世界の人魚になったわたしの手には届かずに、わたしを置いて行き交う人混みの中へと消えていく。


「なん、なのよ――」


 その背中をただ茫然と見送ることしかできなかったわたしは、もうこの事実を認めるしかなかった。

 奪われた。

 わたしの身体を。

 誰に?

 人魚だ。

 あの人魚はあたしを誘ってわたしの身体を奪ったのだ。

 わたしは、わたしの身体を奪われたのだ。


「なんで――」


 その疑問が浮かんだとき、わたしは雑踏の人たちの息から立ち昇る泡が減ってきていて、それとともに世界がだんだんと暗く、深い青色に沈んでいっていることに気づいた。


「光が――」


 見上げれば水底を照らす太陽の光が徐々に弱く、か細く、途絶えていき、あたりを見回せば人の行き交う繫華街の風景がしだいに薄く、暗く、墨に溶けていくようにして失われていくのが目に映った。


「――閉じる」


 そして闇が訪れた。

 なにも見えず、なにも聴こえない、深海のような漆黒の世界。

 なにもない世界。


「そんな――そんな訳ない」


 動揺を振り払ってわたしは泳いだ。

 この世界になにもないなんてあるはずない。

 どこかに、なにかが、誰かがいて、わたしを、わたしを認めてくれるなにかが待っているはずで――、


「そんな――そんな訳ない――」


 そう思いながら、どれだけの時間を泳いだだろうか。

 何日? 何年? 何十年?

 わたしはなににも出会えなかった。

 なにもなかった。

 この世界にはなにもなかった。

 光なく閉ざされた暗黒に満ちた水だけしかない世界。

 美しくなったわたしの身体すら見ることも叶わない闇の世界。

 なにもない世界。


「そんな――」


 そしてわたしは永遠を手に入れた人魚。

 都市伝説の通りに人魚の身体は永遠で、わたしはこの姿になってから一度もなにも食べていないのにまったく衰弱することもなく、何十年にも感じる時間を延々と泳いでいるのに決して力尽きることもなく、永遠という言葉の体感とともに生き続けていた。

 絶望だった。

 虚無だった。

 わたしはこのなにもない闇の世界で、永遠に泳ぎ続けなければいけないの?


「そんな訳ない」


 わたしは泳ぐ。

 希望を探して。

 だってあの人魚は、わたしの身体を奪ったあの人魚は、この世界を出て行ったのだ。

 出て行けるのだ。

 そしてあちらの世界には、あの都市伝説があって、あれはきっと、この世界から抜け出したいつかの人魚が広めてくれたお話なのだ。

 好奇心で、逃避感情で、この世界に興味を持った人間を呼び込むために流されたうわさ話のはずなのだ。

 だからきっと、いつか誰かが、あの夏の陽射しとともにこの世界を訪れる。

 希望の光が訪れる。


「必ず、いつか――」


 そう信じて泳ぎ続けるわたしの目に、久しく忘れていた刺激が走った。


「光」


 光だ。遠い。けれど確かに見える。薄雲から差し込む陽射しのように帯状に伸びた光の柱が遠くに見える。


「あ――」


 この光の下へと急ぎ泳いだわたしは、そこにいつか歩いた、懐かしいあの駅と駅との間の繫華街の姿を見た。

 真夏の白い陽射しが暗色の水の色と入り混じりながら揺れる光の波のカーテンとなって、平々凡々とした街の雑踏を神秘的に照らす光景。

 たくさんの行き交う人々の息が、アクアリウムのエアレーションのように泡となって立ち昇っていく情景。

 あの日に見た、あの景色のすべてがわたしの下に広がっている。


「ああ――」


 込み上げる感情の中で、わたしは、わたしが願い続けた希望の存在が、その場所にいるのをすぐに見つけていた。

 雑踏を避けた道の端のあの場所。

 高校生らしき制服姿の少女が、わたしの姿を見上げている。

 瑠璃色の髪を広げ、赤白の鱗を煌めかせて浮かぶ、わたしの姿を。

 そんな少女にわたしは微笑みを返しながら、一言ぽつりと言葉を漏らす。


「希望の光」


 わたしは細めた目に愉悦を隠し、上げた口角に皮肉を潜ませながら、わたしに見惚れるその少女の瞳の希望に満ちた輝きを見下ろした。

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