03 痩身相違
鏡を見た時に絶望したことはあるだろうか。
例えば前髪を切りすぎたとか、デートの前日にニキビができたとか、死んだ魚のような目をした奴がじっと見つめてくるとか。
例えば――
元気になりました! と
お世話になりました! と皮肉を交えて。
監獄から出たあと、自宅まで公共交通機関を使った。たった三十分の距離だったが、うだる暑さにやられかけた。
フラフラの足で自室に帰還し、理想の生活に心躍らせながらも、あすから仕事に復帰する恐怖に
この時、裏部に起きていたのは、一人称視点のゲームをプレイした時に起こる、目の奥がぐるぐるし、閉眼しても脳が直接揺れ続けているような感覚だった。
「また倒れたら……あの食事が待ってる……? あぁどうしよ……」
彼女はあす以降の日常を見失い、ベッドに数十分倒れたあと、震える手でスマホを握り、上司の連絡先をタップした。数回のコールを経て、勇気を振り絞り、
「退院したんですけど、まだ体調が悪いので、あすも休ませてください」
という定型文を口にした。返ってきたのは冷めた声で、
『はい、お大事に――』
溜息交じりに見下してくる反応が、退院したばかりの心を抉った。
どうして人は、あからさまに人が嫌がる言動を取るのだろう。心を痛めながらも、あすも休める安堵を手に入れ、裏部はどうにか気分を持ち直した。
だが、その晩が問題だった。日付が変わってもなかなか寝つけず、ようやくまどろんてきた頃には、カーテンの向こうが明るくなっていた。
不安に疲れて、ようやく入眠。目が覚めると、窓の向こうには恐ろしいほどの茜世界が広がっていた。それでも、まるで眠れた気がせず、陽が沈んでゆくのに合わせ、絶え間ない不安が襲ってくる。
一日を無駄にしてしまった。
あす、出勤する事実は揺るがないのか。まだ体調不良だと伝えるべきなのだろうか、上司にどんな反応をされるのだろうか、と。
オフィスを想像しただけで胃液が込み上げてきて、裏部の動悸は速さを増し、とうとうスマホの側面のボタンを、指にあとが残るほどホールドしてしまった。仕事に行きたくないのではなく、行けないだけ、と自己嫌悪に自己弁護を重ねながら。
スマホの画面が真っ暗のまま、翌朝、正午、夕刻と浮世は一定の速度で回ってゆき、裏部は
翌日、翌々日――現実から目を背け続ける彼女は、圧倒的に解放された
迫る
「どうしよう、わたし……。わたし、理想は実現したのかも……。どうしよ、これからどうしよう」
そうかと思えば、今度は意思とは裏腹に呼吸が荒くなってゆき、未来への絶望が渦巻いていった。今まで比べていた人物たちよりも上の存在になり、優越感が生まれた次の瞬間から、それが不安へと姿を変えたのだ。
もっと健康的な生活を送るために、自分の欲望と向き合わなくてはならない。もっと自分に合った食生活をして、もっと、もっと理想を超えなくてはいけない。
スマホの電源は入っていないのに、恐怖が口をこじ開けようとしてくる。
「やだ……わたし、なに食べたら、良いの……?」
自分の声だけが生まれる部屋は心地が良いのに、なぜだか寂しかった。
自分の声が、それだけ聞こえにくかった。
『
『そ、そんな……このままじゃ、ホントに、死ぬわ……』
『本人がそれを望んでる……のか……』
『あの子は社会から……見放された。だから……私たちが、さ、最後の希望……』
『いや、アイツは……自ら社会を見限ったんだ……』
今はどっちがどっちかも不明瞭で、ふたつは目の裏で溶け始めていた。
ふと闇に浮かんできた情景は、母親が作ってくれた食事をなんでも食べていた時代だった。今は、それだけ好き嫌いが多くなってしまったのだろうか。
「おかしい……もう、おとな……なのに……」
いつしか裏部は、情報の残骸と化していた。それでもわずかに生を求め、食事を作ろうとしたのだが、体のコントロールが効かなかった。
狭い部屋をおぼつかない
布団に顔を
幸い、今は誰の目もない。情報の波も押し寄せてこない。ましてや、会社からの電話もかかってこない。そう、このままゆっくり休んで良いのだ。
だらりと全身を伸ばし、魂が抜けてゆく浮遊感を覚えながら、まぶたは次第に閉じてゆく。ほどなく裏部は【睡眠】と似て非なる空間で、甘い夢に身を委ねていった。
いや、しょっぱい夢と言うべきか。
"どれにしよーかな"
彼女はスーパーマーケットのお菓子売り場で、自分よりも大きな母親を見上げたあと、その目を輝かせておやつを選んでいた。
"どれかひとつね"
同じように母親も、儚く微笑んでくれていた。
今よりも、ずっとずっと若い母親が。
『あぁ……目の前に、シュークリームが……幻覚が、見えてきた……。おい、クソ天使? 気をしっかり、持て……オレたちが最後の、希望なんだろ――お、おい?』
『…………』
『ダ、ダメか……。そう、か……』
心に棲む天使と悪魔は、功罪
それを失ったばかりに彼女はSNSの用法、用量を守って正しく使えず、情報を誤飲し続け、食事を飲みこめなくなった。理想でありたいという誤った世論が真の悪魔の声だというのに、それを天使の忠言だと曲解してしまったのだ。
あぁ、これは認知バイアスが引き起こしたに過ぎない、よくある現代病である。
了
わたしの難儀な天使と悪魔 常陸乃ひかる @consan123
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