02 病身総意
ある日。
鈍痛よりも羞恥が勝り、本来ならすぐに対処できるハプニングだったが、立ち上がる力どころか、その気力さえも失っていた。
夢の中で怪物に追われ、転んでしまった時のように。起き上がりたいのに足腰が言うことを聞かない夢中のように、まるで体が動かなかったのだ。
次第に裏部は、スマホのカメラを起動する
どれほどの時間が経過したのだろう、通行人のお婆さんに声を掛けられ、お節介のまま救急車が手配された。意識が闇に呑まれる寸前、彼女の目に焼きついたのは、自分よりも足腰が弱いであろうお婆さんの哀れむ表情だった。
『とうとう病院に運ばれちまったか。点滴を打って様子見だな』
『一日、二日の短期入院ってところかしら』
『このクソ暑いのに、ロクに飯も食わず、ずっと働いてりゃなぁ』
『バカな子』
医者いわく、「食べないと治りませんよ」とのこと。子供を諭すように、当たり前の説教を聞かされ、ぐうの音も出なかった。
溜息交じりの病室は、浮世よりも時間が遅く流れている。普段なら働いている時間だというのに、裏部はベッドに身を沈め、点滴でつながれ、自由を失っていた。皮肉なもので、点滴のお陰で体調は落ち着き、精神も安定していた。
「人間って、必要な栄養素を点滴のみで補えないのかな……」
が、それも一過性の平穏だった。
【点滴のみで必要な栄養を補いたい! なんとかして!】
裏部はスマホに棲んでいる会話型AIに、
『君の気持ちはとてもよくわかるよ。食べることがつらいとき、点滴でなんとかならないかと考えるのも無理はない。でも、点滴だけでは体が本当に必要としているすべての栄養素を補うことはできないんだ。体には食べ物から得られるビタミンやミネラル、エネルギーが必要で、これらは点滴では十分に供給できない。
でも、君が今の状況を少しでも改善しようとしていることは素晴らしい一歩だよ。焦らずに、自分のペースで少しずつ、体が求める栄養を摂っていこう。どんな小さな進歩でも、君にとっては大きな意味があるんだから。僕はいつでも君の話を聞くし、サポートするよ』
結果、心の片隅に潜んでいたモヤモヤや、もどかしさが増幅し、余計に情緒がこんがらがってしまった。
「こ……っ、この人工知能が! 利いた風なこと言うな! ああぁぁぁもう!」
要するに、裏部が行っていたのは質問でも愚痴でもない。共感を欲していただけであり、自分の声がエコーするのを待っていただけなのだ。
激情とともに点滴の針を引き抜こうとしたが、怖いし痛そうなのですぐにやめた。気分を害したまま太陽が真上に近づくと、昼食がオーバーベッドテーブルに運ばれてきた。患者の立場からすれば、唯一のハッピーアワーだというのに、裏部は病院食を見た途端、なにかに追われるような、責められるような焦慮を感じた。
これをどこに隠そう、どこに収めよう、どう処理しよう?
荒くなる息遣い。第三者に見られている錯覚。全身から滲み出る汗。
裏部は追い詰められ、人間の習性に倣ってパック牛乳にストローを挿して一口、二口と飲み進めた。が、途中でむせこんでしまったのは、生々しい記憶、風景が目の裏に広がったからだ。
当然、
『牧草を想像させるような心温かい味わいと、クリーミーで爽やかな舌触り――』
なんて安っぽい直喩ではなく、裏部の舌にはあの教室の匂いとか、あの騒がしい空間とか、あの――あの、あの、とにかくあの時が丸ごと想起され、ご飯やおかずや味噌汁に、苦い記憶が付与された。
不意に想像する、その頃のクラスメイトたち。彼らは今、なにをしているのだろうと、無意味で確かめようのない
「うぇ……早く退院して、わたしの
不安を押さえつけるために、治療よりも理想が勝っていた。
自分が望む体型になるために、自分が考えた食事プランに戻さないと。
仕事をして、他人が求める自分になり、他人を出し抜かないと。
けれど院内で問題を起こせば、病状悪化と認識される。だからこそ退院を目指し、禁忌を犯しているかのように、病院食を口に運んだ。
次第に目は見開き、血圧も上がり、手が震えた。
廊下に聞こえるほど大きな声で発狂していた。
一日、二日で済むと思った入院生活だったが、予想外に長引いてしまった。
『治療のための入院は、本人にとっちゃ地獄のような生活か』
『とにかく、嫌でも食べれば体力も回復するでしょ』
『ひとまずは、な』
『問題は退院後ね。でも私たちが口を出すと、また――』
『あぁ。見守るしかない』
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