わたしの難儀な天使と悪魔

常陸乃ひかる

01 満身創痍

 である。

 心の中に棲む天使と悪魔が言い争い、善か悪かなどと、愚かで人間らしい葛藤に苛まれる場面が、死ぬまでに一度は――もとい、何百回は訪れるだろう。

 例えばお金を拾った時、心の中の悪魔が、

『もらっちまえよ。誰も見てねえって』

 と適当にささやく反面、心の中の天使が、

『んー、別にもらっても良いんじゃない?』

 と、さらにテキトーなことを囁くのだ。

 多くの人間は、こういう使を過保護に育てている。


 さて、ここに若い女が居る。

 名を裏部うらべと言い、仕事に人生を振り回されている、典型的な社畜もどきである。そうかと思えば、帰宅すると低俗なショート動画に時間を費やした挙句、

『時間が足りない!』

 と妙なことを抜かしている。

 二十代も半ばに差しかかろうというのに恋人もおらず、心と同時に食生活も荒み始め、いよいよ――といったところか。こうも人生が不調だと、ストレスの矛先が食欲に向いてしまうわけで、外出するたびに『食べ物』に心を奪われそうになっていた。

 そこで出てくるのが、天使と悪魔である。


生恵いくえ、ケーキ買っちゃえよ。甘いモン好きなんだろ? たった三百円払えば、幸福はお前のモンだぞ? 家に帰って風呂上がりに食ったら、さぞ美味いだろうなあ』

 裏部のファーストネームを軽々しく口にするのは、彼女の心にむ悪魔である。いつでも裏部を甘やかし、悪いほうへ、悪いほうへ――と引きこもうとする、メタボ体型のオジサンだ。

『ダメ! そんなの食べたら、ブクブク太って肉団子になるわよ! それでなくても生恵の食生活、偏ってるでしょ!』

 反面、人の話も聞こうとせず、ヒステリック気味に叱責してくるのは、裏部の心に棲む天使である。端正たんせいな目鼻立ちに、しなやかな体躯たいく。美女の模範のような容姿だが、性格は厳格で口も悪い。

『おい天使。おめえ、言いすぎだぞ。もうちょっと優しくしろよ』

『あんたがシュークリームくらい甘いのよ! このメタボ悪魔!』

『シュークリーム……? つーか生恵の奴、買わずに帰っちゃったな』

『それで良し。少しキツいくらい言わないと、あの子のためにならないわ』

 裏部は、それとなく気づいている。

 天使の悪態ささやきが、どれだけ真っ当なのか。

 悪魔の誘惑ささやきが、どれだけ将来に悪影響を与えるのか。


 若いうちに『精製糖せいせいとうくん』と仲良くなった日には、『トランス脂肪酸さん』を紹介され、早死はやじに契約書を片手に勧誘が始まる。

 契約書にサインすると、

心血管疾患しんけっかんしっかんの片道切符】

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 と連携すると、毎月五パーセントの追加コレステロールがサービスされる。

 まさに、超お得なセットが待っているのだ。


 このように裏部の頭の中には、天使と悪魔を通じて様々な広告が流れてくる。

 だからこそ、二十代から好きなモノを食べ続けようとする浮動の意思をブロックし、食生活を今よりも見直そうと思った。戒めか、近い将来のためか――いや違う、これはに近いかもしれない。

 日々、着たくもない制服を装備し、乗りたくもない満員電車で出荷され、居たくもないオフィスに投入され――朝昼晩と仕事を頑張っているのに、なぜ恋人ができないのだろう? なぜ生活が豊かにならないのだろう?

 と半ば答えが出掛かっている疑問を宙に吐き出す――そういった言動すべてが、永遠に変化し続けるなのだ。

 その上で裏部は一考し、時間を置いては何日も一考し、一考の教義を超えるほど巡らせ、答えを導き出した。

 自分の体型が、男性が求める理想像にまだ近づいていないから恋人ができず、給料は上がらず、生活も豊かにならないのだと。

 そうであれば、さらにストイックにならなければならないのだ、と。


『生恵の奴、ここんトコ随分と痩せてきたな。ちゃんと食えよ』

『ちょっとメタボ悪魔、またそうやって生恵を誘惑しないで!』

『誘惑じゃなくて心配してんだが』

『あの子は私に似て自制がきくの。ほら、あんなにスマートな体型――って……ちょっと最近、痩せすぎじゃない?』

『だから言ってんだよ。普通に食わねえと痩せ細る一方だぞ』

『ま、まあ……アンタの言うことも一理あるかもね』


 裏部は情報の渦に吞まれないように、その渦がなくなるまで、どこか安全な場所でやり過ごそうと思った。そこが他者からの意見こえが届かない閉鎖された空間で、自分に似た同調こえばかりが反射する空間だと気づかずに。


  甘い物は敵。

 間食も敵。

いや、朝食も昼食も敵だ。

 一日一食、十六時間断食。

    科学的に正しいのだから。


『おーい、普通にメシを食えっての!』

『確かに一日一食でも問題はないわ。でも、それは必要なカロリーと栄養を摂取した場合よ。そもそも、痩せてる生恵がやることじゃない』

『じゃあ十六時間断食なんて、アイツには必要ねえだろ』

『ホルモンバランスだって崩れるし、なにか食べさせないと!』


 理想の体型に近づくには、絶え間ない努力が必要である。

 理想の生活を手に入れるには、それなりの容姿が必要で、太っている奴らは全員、自制がきかない社会不適合者で、もできないアウトサイダーで――

 ふと裏部は疑問を浮かべた。

 日に日に理想へと近づいているのに、なぜだろう? 確実に他人から頻繁に目線をもらうようになってきたのに、歩くのさえ辛くなってきたのは? なぜだろう。


『あぁもう! この際ファストフードでも良いから、なんか食べなさい!』

『お前がそれ言うか……。もしかしなくてもアイツ、摂食せっしょく障害なんじゃねえの?』

『なに? じゃあ拒食症――病気ってこと? ヤバくない、さすがに』

『倒れねえと良いが』


 裏部の耳に――脳内に、天使を装った悪魔の忠告ささやきが聞こえてくる。

 それもふたりの天使もどきが叫んでいるのだ。恐ろしい。

 なにか食べて、ブクブク太れと。

 あぁ、恐ろしい。

「食べたら理想が遠退く……。わたしは完璧な理想を手に入れるまでやめない」

 いつしか裏部は、骨が浮き出るまで痩せ細り、肌から艶が消え、メイクで誤魔化せないほど顔はカサカサになってしまった。当然、メンタルにも影響は表れた。

 自己認識が歪んだ結果、社会とのズレが生じ、孤立感に苛まれる。他者から認められないフラストレーションとは裏腹に、コントロールできない欲求はどんどん膨れ上がった。そうして最悪の現代病――に行き着いてしまった。


 みんな、自分よりも優れている。

 であれば、自分はもっと頑張らないと。

 心の中で『頑張る』と唱えるたび、裏部は目的を見失っていた。

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