番外編

 リシェは息子アルベルトに触れることを許されなかった。乳母役がいたからだ。乳母は侯爵夫人である元・侍女。約一年前に乳母が息子を産んだことをきっかけに、当時は王太子であった国王チャールトの子を身籠ったメイド、すなわちリシェの乳母として白羽の矢が立ったのだ。


 メイドのメイドをするなど、乳母にとっては屈辱だったろう。我が子の世話だけで大変なのに、王太子チャールトの隠し子を育てろという命令はどれだけの苦痛だったか。


 平民出身のリシェには、侍女のように貴族令嬢としての高い身分もなければ、教養もない。息子は隠し子であってもいずれ王子となる身。成長をただ黙って見守るしかなかった。


 アルベルトが騎士団に入団してからは、会うことは一切無かった。たまに、アルベルトの側近である乳母の息子、フェリクスから近況の報告書が届いていた程度だ。


 そんなリシェは、今、息子の結婚式にひっそりと参列していた。


 クラウフェルト子爵令嬢シルフィアとのめでたい結婚だった。シルフィアはすでに、息子アルベルトの子を身籠っている。


 半年ほど前に、アルベルトが結婚報告をしに来てくれたことはとても嬉しかった。


 それに、まさかアルベルトが立太子するとは思っていなかった。


 今までずっと、リシェは軟禁状態にあった。隠し子を身籠った以上、情報漏洩を防ぐために自由な外出すら許されず、いつも護衛という体の監視がついていたのだ。


 一時期は我が子を憎んだことすらもあった。アルベルトを身籠ったとき、リシェはまだ十七。メイドとして働きだしたばかりの、まだ何も知らない無力な若い娘だった。


 周囲も王太子チャールトの手付きとなったリシェを助けてくれる者などいなかった。そればかりか、わざわざ睨みつけたり、陰でリシェの悪口を広めたりする者の方が圧倒的に多かったのだ。


 何も知らない愚かな自分はチャールトとの恋を純粋な愛だとばかり思っていた。しかしそれは誤りだとようやくわかる歳になった。


──でも、今このときはアルベルトが王太子となり、さらに、愛する女性と結ばれて、リシェはそんな二人の母の立場を得ている。


 正室から憎まれているのではないか、命を狙われているのではないか、と怯えながら暮らす日々だった。


 リシェはようやく全ての呪縛から解放されるのだ。


(ああ、アルベルトを産んでよかったわ)


 リシェは結婚式の賑わいを遠目に眺めながら、微笑みを浮かべている。息子アルベルトが立派に成長し、シルフィアという素晴らしい女性を選んだことを心から誇りに思っていた。しかし、その幸せな瞬間に、リシェの鋭い眼差しが不審な動きを捉えた。


 一人の男──カスペルが、招待客に紛れ、シルフィアの方にゆっくりと近づいているのを見たのだ。カスペルはかつてシルフィアの元婚約者だったが、あまりよい噂のない男だった。彼が何を企んでいるのかはすぐに察しがつく。シルフィアに取り入り、息子アルベルトとの絆を壊そうとしているのだ。


「どうか……私に力を」


 リシェは自らの心臓が高鳴るのを感じながら、深く息を吸い込み、意を決した。今まで見守ることしかできなかったが、このときだけは、自分が息子とその未来のために動かなければならない。


 カスペルがシルフィアに近づき、うっすらと気味の悪い笑みを浮かべて話しかけようとした瞬間、リシェは静かにその場へと割り込んだ。


「──失礼します、カスペル様でしたね?」


 彼の驚いた顔を一瞥し、リシェは堂々と立ちはだかった。今までずっと軟禁され、息子にも触れることを許されなかった彼女だが、この瞬間だけは、母としての強さが全身にみなぎっている。


「あなたが何を企んでいるかは知りませんが、アルベルトとシルフィア嬢の幸せを邪魔することは許しません。シルフィア嬢との過去に執着しているのであれば、それは文字通り過ぎ去ったことです。彼女は今、未来を見据えています。わたくしもそうです」


 カスペルは一瞬言葉を失ったが、軽く笑い声を漏らしながら反論した。


「過去の婚約者として、彼女に挨拶くらいする権利はあるでしょう?」


 リシェの目は冷たく光った。


「いいえ、もうあなたにはその権利はありません。彼女は私の息子の妻であり、母となる身です。彼女と息子を脅かすつもりなら、この場で退場していただきますよ?」


 リシェの言葉にはかつての無力なメイドの面影はなかった。母として、そして一人の女性として、堂々と立ち向かう彼女の姿に、カスペルは言葉を呑み込む。


「──衛兵、この者をつまみ出せ。ああ、そういえば、かつておれの胸倉を掴んだ度し難い無礼者がいたな」


 アルベルトがカスペルをひと睨みした。みるみるとカスペルの顔が青を通り越して土気色になっていく。


 くすりと笑ってその光景を眺めてから、リシェはシルフィアを見つめ、改めて優しく微笑みかけた。


「あなたを守るためなら、どんなことでも私はするわ。これからは、私たち、家族なのよ」


────────────────────

※あとがき


 ここまで拙作をご愛顧くださり誠にありがとうございます。アルベルトの母リシェの話はずっと結末として書きたかったお話なので、かなり悩んでいました。これからも、いくつか思いついたお話を掌編という形で投稿するかもしれません。


※そして新作宣伝です


『ビールを注ぐ男〜常夏の国で涼みのビアガーデンをはじめたら災厄級ドラゴンが飲みたがり従魔に〜』


 「ビール✕異世界転移✕スローライフ✕冒険」


 『牛乳を注ぐ女』ではなく『ビールを注ぐ男』です。


 お酒が好きな作者によるコメディ要素強め(主観)な、異世界ビアガーデンのお話です。ご興味ある方はぜひ。

 https://kakuyomu.jp/works/16818093084151585460

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乙女的えっち世界で捨てら令嬢をなぐさめるヤバいお隣さん 花麒白 @Hanaki_Tsukumo

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