悪役陰陽師

 すずめは、部屋の縁側で頬を大きく引きつらせていた。


雨が滝のように降りそそぐ庭先に、漆黒の傘をさして立っていた人物が、なんと、この世界の悪役だったからだ。


 男の持つ小さな灯籠が、ろうそくの蠟のように白い顔を、雨夜あまよの闇にぼんやりと浮かび上がらせている。

 お面のように張り付いたほほ笑みは、間違いない、ゲームスチルや攻略本で何度かみかけた悪役だった。彼は、この栄安京えいあんきょうで極悪非道の限りを尽くす残虐無慈悲な悪役陰陽師だ。


――名前は確か安倍……。あら、何だったかしら。セイメイ? いえ、もっと人をたくさん殺めている鬼のような残酷な響きの名前だったはずだわ。


 すずめは、今日火守御殿ひもりごてんの私室へ客人を迎える予定だった。それが、急に雨が降り出したので日を改めようと思い、相手方へ文を送ろうと縁側へ出た。そしたら、彼が花の盛りがすぎたアジサイのそばに幽鬼のように立っていたのだ。そんな不審者へにこりと笑いかけられるはずはなく、すずめは思わず悲鳴を上げてしまった。そして、悲鳴をあげた直後、彼がこの世界の悪役だと気付いた。

 男の紫がかった青い狩衣は、傘をさしているとはいえ不自然なぐらい少しも雨に濡れていない。

 まるで何か秘術でも使い、すずめが縁側に立った瞬間をみはからって庭にぬっと現れたかのようだ。


 

「宮様、お初にお目にかかります。安倍無残です。かねてよりあなたをお慕い申し上げているものです。お部屋へ入ってもよろしゅうございますか?」


 そうだった。彼は安倍無残あべのむざん。名前からして、すでに「私は残忍な悪役です」と自己紹介してくれている親切設定だ。そして、彼こそがすずめの今日の客人だということも、すずめは今の今、気付いた。

 男性にしてはやや甲高く柔らかな声には、まるで一夜の情けを乞うような甘い響きがこめられている。

 老若男女問わず、誰しもが彼の声にうっとりと聞き惚れてしまうだろうが、その正体こと設定を知っているすずめは、おぞましさのあまり震えあがりそうになる。


――でもここで、もしつれなく断ったら、何をされるかわかったものではないわ。


 すずめも多少は呪術の心得はあるが、相手は極悪であり稀代の陰陽師でもある。

 子供の頃、父の親友の行者に護身用程度に教えてもらったが、そんな初歩レベルの呪術など、凄腕の呪術師の彼の前では、まるで歯が立たないだろう。

 何の力もない女が、力のある男の求めを拒めるわけがなかった。



 すずめは、この緋美国ひみのくにを治める炎帝えんていの一族に連なる者である。つまり、救世の女神緋美古の血筋をひくやんごとない生まれだが、父宮は都のはずれに暮らす貧乏学者だった。すずめが幼い頃はやり病で亡くなった母もまた、身分は低く財も学もなかった。

 そんな権力も財もない家で、すずめ本人も評判になるほど姿が美しいとか、鬼や妖魔さえうなるほど琴の演奏がうまいとか、後宮で皇后に仕えられるほど学問に秀でているとか、これといった大きな取り柄はない。そんな血筋ばかり立派な娘のところへ通おうとするもの好きな殿方などもちろんおらず、すずめはずっと独り身だった。

 父が昨年亡くなってからは、悲しみに浸る間もなく身の振りをどうしようか悩んでいたところ、有力貴族に嫁いでいた伯母のすすめで、高齢の貴族に嫁ぐことにした。正妻とは名ばかりの介護要員だったが、衣食住は保証されていたので、他に頼るところのないすずめは、ためらわずに承諾した。

 けれど、その夫も婚儀を迎える直前にあっけなく亡くなってしまった。

庭の柿の木に登った三匹の猿が、石のように固い青柿を夫へどんどん投げつけて、そのうちの一つが頭に直撃してよろめいて転倒し、打ち所が悪くて死んでしまったそうだ。どこの昔話? と眉をひそめたくなる妙な死に方だった。


 この俗世において、親もいない結婚もしていない手に職もない女は、どこにも行き場はない。もはや出家するしかないわ、と決心して、雪の降る中、都のあちこちの尼寺の門を叩いた。けれど、どこの尼寺の門も、なぜかことごとくかたく閉ざされていた。


すずめは俗世にも仏門にもどこにも行き場がなく、ほとほと困りかけていた。そんなとき、伯母から今度は火守ひもりの巫女候補の女房をすすめられて、飛びつくようにその職についた。

 飛びついたのは、火守の巫女候補の女房になれば、巫女の修練期間の三年間は衣食住に困らないだけでなく、宮中に出入りできる機会があるからだ。

 そして、春の吉日に火守の巫女候補を歓迎する式典が内裏で開かれた。前世でプレイしていたゲームのシナリオ通りに。

 かくして、桜の花びらが舞い散るさなか、すずめは、若い主の後ろについて生まれて初めて宮中へ足を踏み入ることができた。


 一通の藤色の文がすずめの元へ送られてきたのは、その歓迎の儀の翌日のことだった。

 品のいい上質な紙には、蠱惑的な薫りの香がたきしめられていた。送り主は、手紙の内容を読むと、どうやら歓迎の儀ですずめのことを見染めてくれたらしい。

 すずめは、きっと気の多い公達のお遊びか気まぐれだろうと思ったものの、十代で結婚する人が多いこの世界において、彼女も二十六歳とけっこういい年である。心は、前世から別の殿方に捧げているが、前世でも経験しなかった異性とのお付き合いというものを一度ぐらいは経験してみたいと思い、返事をしたためるべく筆を手に取った。

 そして文を送り合ってみたら、相手はいっときのお遊びにしては、女房仕事になかなか慣れないと愚痴や泣き言をこぼすすずめを、何かと気にかけ励ましてくれ、趣味のいい贈り物もよくしてくれた。

 なんて心遣いが素晴らしい人だろうと感激し、いったいどんな人なのだろうと、文の相手にすずめが興味を抱くのは自然な流れだった。

 一度ぐらいは、贈り物のお礼をかねて会ってみたいと思い、夏が終わろうとしている今日会うことにしたのだ。


――それがまさか、悪役陰陽師だったなんて。


 すずめは、日々を生きるのに懸命ですっかり忘れていた。この世界――前世でプレイしていた乙女ゲームの世界には、残忍で卑劣きわまりない悪役がいたことを。


作中一の悪役こと陰陽師の安倍無残は、主人公である火守の巫女候補を殺め、神火かみびを奪い、この栄安京を混沌の渦に陥れ、緋美国を滅ぼそうとしていた。

火守の巫女は、炎帝の先祖緋美古の化身である神火をその身に宿す女性のことだ。いわば、神火を守る器である。だから火守の巫女と呼ばれる。  

 先代の巫女が亡くなると、占いにより国中の女性たちから複数候補者が選ばれ、三年の修練をへたのち、神火の御意志によって新しい火守の巫女が決まる仕組みだ。

先代の火守の巫女は、そう歳をとっていないうちに亡くなった。それもゲーム中盤で判明するのだが、安倍無残が病死にみせかけて、その手にかけたのだ。

 どう考えても、悪役陰陽師こと安倍無残は、火守の巫女候補に危害を加えるために、その世話係であるすずめに近づいたのである。

 

 殿方と文をかわしてときめいていた女が、文末にあった名前を、まさか都を滅ぼす悪役のものだと気付けるだろうか。


――ゲームの設定を覚えていたら、気づく人は気づくか。すっかり浮かれていた自分が呪わしいわ。


せっかく設定を覚えていたのに、名前と悪役が全然結びつかなかった。そんな自分の迂闊さを、すずめはひそかに嘆く。

 このまま彼とお付き合いを深めてしまったら、仕えている巫女候補を危険な目にあわせかねない。かといって、「今すぐ帰ってください」なんていきなり拒むのも、向こうは演技とはいえ、文通であれだけ二人の仲は盛り上がっていたのにあまりに不自然だ。

 どうやって穏便にすずめから関心をなくしてもらうか、すずめは頭の中で考えを巡らせるものの、さっぱり思い浮かばない。


 外の強い雨のように、冷汗が背中を次から次へと流れているなか、二人の間に置かれた夜光珠が、いつも通り目に優しく光っている。


 夜光珠やこうじゅは、蹴鞠の鞠ほどの大きさの照明器具だ。海の妖魔の目玉か何かからできているとても貴重なもので、お金持ちの商人や有力貴族の屋敷か炎帝のおわす内裏で、松明とともに毎晩使われている。この海の秘宝も、何を隠そう、安倍無残からの贈り物である。ろうそくの炎とちがい、触れると明るさを調整できるから、すずめは夜の読書に重宝していた。

 女房仲間の蜜麻呂みつまろから、この贈り物を羨ましがられたとき、くだらない優越感をちょっとだけ抱いたが、今は受け取らなければよかったと後悔しきりである。


焚き火の火のように暖かな光は、膳の前に座った来訪者の姿をくもりなく照らしている。

 安倍無残は、上背はそうないものの、秀でた額にすっと通った鼻梁は男らしく、垂れた丸い瞳からは色気がしたたり落ちている。さりとて、だらしなさは微塵もなく、気品にあふれた美丈夫だ。

 彼の正体を極悪人だと知らなければ、都で今をときめく評判の貴公子だと言われてもなんら差し障りない。当然のことながら、すずめの最推しである太陽のように光り輝くあの人とは比べようもない。

 

――あら、何かが足りないような。気のせいかしら。


 すずめは安倍無残の姿にひっかかりを覚えたが、今は彼がくれた夜光珠に、毒霧やら爆薬やら何か仕込まれていないかそわそわしてしまう。


 すずめは、自分の盃へお酒を注いだ。客人の無残へなんの声かけもせずに、両手に盃を持ち一気にあおる。うわばみだった父宮とちがい、彼女は酒にそんなに強くはないが、しらふで彼に話しかけることなどとてもできそうにない。


 無残の強い視線を感じる。おそらく、客に断りもなく先に飲むなんて無礼な、とでも思っているのだろう。

 今宵の酒は、彼がお気に入りの銘柄をあらかじめ取り寄せ、料理はすずめがわざわざ朝に市場へ行って材料を買い、御殿の厨房を借りて腕によりをかけたものだ。


――せっかく、なけなしの給金をはたいて、文通のお相手をもてなそうと思っていたのに。悪役陰陽師だとわかっていたら、お酢になりかけの酒とトカゲの姿焼きにしていたわ。


「今宵はこのように無礼講といきましょう、安倍様。たいしたものはございませんが、どうぞ遠慮なくお酒も食事もお召し上がりください」


すずめは、笑顔を無理やり張り付け、つとめて明るい声で言った。心のおびえを彼に気取られないようにする。

 彼の思惑に気付いていると当の本人に知られたら、きっと妖魔か鬼の餌にされるにちがいない。


「無礼講ならば、無残とどうぞ気軽に呼び捨てください。私は、今でこそ主上から氏を賜りましたが、元は氏なしの下賤の生まれ。宮様、あなたは、生まれながらにしてやんごとなき身分なのですから」


無残の言う通り、すずめは、野々宮という宮号を持っている。宮号を持つことは、この緋美国において、その君主たる炎帝の一族に属することを意味している。けれど、分家の末端のさらに末席だったため、父ともどもすっかり一族内では忘れ去られた存在だった。


 父宮は、人柄は良く楽にも秀でていたが、金銭感覚は破綻している人だった。なにせたまに収入をえても、衣食にではなく書籍にあてていたのだ。父の姉が、裕福な貴族と結婚してくれたおかげで、その援助で親子は糊口をしのいでいた。すずめは他の高貴な姫君と違って、自分で薪を割るなどして料理はじめ家事をやりくりしていた。

 すずめの家が下人がいるぐらい裕福だったら、あるいは、すずめにとびぬけて何らかの才能があったら、国中の秀才が集まる鸞鳳院らんほういんという学校へ入学しただろうが、そうもいかなかった。前世では教師をしていたから、この世界の学校に興味があった。そして何より当時の鸞鳳院には、最推しのあの人がいるから入学してみたかった。しかし、無念なるかな、すずめは入学試験に挑戦したもののあっけなく落ちてしまったのである。

 これがゲームだったら、試験に受かるまで何度もリセットできるし、無残の手紙をもらってもリセットして返事をしないルートを選び直せるが、前世でも現世でも自分の人生は、心の思うままにリセットはできない。


「では、無残殿とお呼びします。わたしに身分があるといっても、年上の方を呼び捨てにするのは、さすがに気が引けますゆえ」


あとで、あのとき呼び捨てにされた、とふとした拍子に難癖をつけられ、彼の操る式神や手下の妖魔に捻り殺されてもかなわない。

 安倍無残はゲーム中、狂暴で強力な式神を三体も従えていた。それらを使役して、ささいなことで彼を激昂させたとある名門貴族を一族郎党皆殺しにしたはずだ。この陰陽師は、そんな道徳心のかけらもない残虐な心の持ち主なのだ。


「はい、かまいません。では、私もすずめ殿とお呼びしてもよろしいですか?」


無残はにこっと笑った。そうすると、垂れた眦がさらに下がる。

 その瞳の色は濃い黄金色だ。よく実って風に頭を垂れる稲穂を思わせる。鬼の瞳は、夏に死者の霊を迎える鬼灯のごとく赤い色をしているらしいが、彼のそれは誰しもが収穫の喜びに満ちあふれる季節の色だった。

交わした文によれば、無残は秋生まれで、すずめの二つ年上だ。その彼がまるで十代半ばの少年のように、屈託なく微笑んでいる。

 すずめに直に会えて、心から嬉しくてたまらない、とあえて言葉にしていなくてもすずめの胸に伝わってくる。彼女をみつめてくる視線にも、しっとりと濡れた熱がこもっている。彼のすずめにみせる心に、いつわりやまやかしの影は少しも感じられない。火守の巫女候補の女房を籠絡する演技にしては、あまりに手が込んでいる。

 目の前にいる男が、あまたの無実の人をむごたらしく殺めて、栄安京を破滅に導こうとしている極悪人にはとてもみえなかった。みるからに色男の彼が、もし人の悪さを発揮するなら、せいぜい、女たちが自分をめぐって争っている姿を、広げた扇子の奥でうっそり笑っているぐらいだろう。


――ひょっとして、別人かしら。そうだ、本物の安倍無残はたしか眼帯をしていたはず! 何かひっかかると思ったら、それだったのね。


ゲームのスチルや攻略本の設定資料では、安倍無残は右目に黒い眼帯をしていたはずだ。彼は、カラスの羽根のような漆黒の狩衣に身を包み、禍々しい雰囲気を漂わせたいかにも悪役といった風貌だった。あの無残も目の前にいる無残もどちらも同じ姿かたちなのだが、すずめの前にいる彼の垂れた瞳は、いかにも人がよさそうで愛嬌や茶目っ気があるのだ。


――この人は、悪役陰陽師と名前と姿かたちがそっくりなだけで、本当はわたしのようなモブかもしれない。


すずめは、一縷の望みに賭けてみることにした。


「無残殿」


「何でしょうか」


 呼びかければ、無残は前に少し身を乗り出した。

近づかないでほしい、とすずめは無意識に少し後ずさる。


「あの、お顔がそっくりなご親戚は、いらっしゃいますか? 名前も同じで、右目に眼帯をなさっている方です」


 すると、無残はまるで時が止まったように固まった。突然何を言っているんだこの女は、と戸惑っているかのようだ。

 ひょっとしたら彼の機嫌を損ねてしまったかもしれない。それはとてもまずい。命の危機である。すずめはすぐに非礼をわびた。


「変な質問をしてしまいましたね。失礼しました」


「いえ、変だとは思っておりませんよ。母は存命ですが、父は私が物心ついてときにはすでに亡く、母以外に親類縁者はおりません。少年の頃、右目に怪我を負い、しばらく見えませんでしたが、とある優しい方に呪術で治してもらったのです。どうしてそれを、と驚いたのですよ」


「あら、そうだったのですね。いえ、なんとなくそんな気がしただけです、ほほほ」


すずめは、ごまかすように苦笑した。きっと、頬はまたしてもひきつっている。


まちがいない、彼こそは正真正銘の悪役陰陽師、安倍無残だ。

 前世でプレイしていたときより設定が少し変わってしまっているようだが、おそらく、そのときは野々宮すずめというモブキャラも存在していなかっただろうから、現代日本からこの世界に転生して多少の変更はあるのだろう。


――わたしは単なるモブなのに、前世で恋愛経験がからきしだったから、今世ではあの人を遠くから拝みながら、男の人とちょっと恋の駆け引きなんてものをしてみたかっただけなのに。なのに、どうしてこうなるのよ。


と、すずめはわが身にふりかかった不幸を心の中で大いに嘆いた。できることなら、今にも畳の上に顔を伏せて、おいおい泣きだしたいくらいである。


――あの人以外に目を向けなければ、こんな人生最大のピンチに陥らなかったわ。

 

二六歳といい年だから、殿方の一人ぐらいとお付き合いしてみたい、と欲張ってしまったのが運の尽き。これは、最推しから少しでも目をそらし、心揺らいでしまったことへの天罰なのかもしれない。

はたして、すずめは、この悪役陰陽師を怒らせず、かといって関係を深めもせず、今宵をうまく生き延びられるのだろうか。


雨はいまだ地面をしたたかに打ち続けている。それは、夜が明けるまで続いた。


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乙女ゲーのモブキャラに転生したら、なぜか悪役陰陽師に溺愛されています――でも最推しは別のキャラ。 王八潭 @harvestmoon

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