後編
「……イモムシのほうがマシだわ。いつか綺麗な蝶になれるもの」
「また突然なにを言い出すんだか。そんなにも結婚が嫌ですか」
「貴族令嬢だもの、物語のようにはいかないってわかっているのよ。件の本は物語として楽しんでいただけ」
「ではジムが言っていたことは?」
「ジムが勝手に言っただけでしょう? だってあのお話における恋の相手は従者じゃないの。わたしの場合はしつ――」
うっかり執事と口走りそうになって固まった。
あわてて口許に手を当てたけれど、ダグラスの耳にはきちんと入っていたらしい。生来の察しの良さを如何なく発揮した男は、くちの端をにやりと引き上げた。
「私の聞き間違いでなければ、今、執事とおっしゃいましたか?」
「と、途中でやめたから、すべてをくちにしたわけじゃないわ!」
「言ったも同然だろ、それ」
ぼそりと吐いた言葉は彼らしくない粗野なもの。目を見開いて驚くリズベットを見やり、ダグラスは大きく息を吐いて肩を落とした。
「なんだよ、ジムの野郎。あの笑いは勝者の笑みじゃなくて、俺を煽るためのものだったのかよ」
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってちょうだい、あなた本当にダグなの?」
「いつもの畏まったほうが好みですか? 戻しましょうか?」
「あなた、嘘をついていたのね!」
「失敬な。お仕えする主に丁寧に接するのは当然でしょう。嘘ではなく、演技ですよ演技」
「演技?」
「だって、そういうほうが好きなんだろう? 好んで読む恋愛小説は、お嬢様に仕える忠実な男が相手役だ」
リズベットは顔が熱くなるのを感じた。たしかにそういう物語を好んで読んでいたけれど、指摘されるとものすごく恥ずかしい。
「なによ、笑いなさいよ、どうせわたしは不埒な女よ、婚約者がいながら別のひとを好きになっちゃう、ダメな女よ!」
「この問題における最大の笑いどころは、婚約者と好きになったひとが同一人物であることに、本人が気づいていないってところだろう」
「――は? なにを言っているの。それじゃあまるで、わたしの結婚相手がダグみたいじゃない」
「そうだと言っている。むしろなんで気づかないんだ。名前でわかるだろう。わざとなのか?」
「でもだって家名が」
婚約者はスロー子爵の次男のはず。
対してダグラスは、十四歳のときに我が家へ入った使用人だ。
さらにいえば、婚約者のダグラス氏は王宮で仕事をしているのではなかったか。
リズベットの疑問をダグラスは潰していく。
「タームはうちが持っている男爵位のひとつ。兄がスロー子爵を継ぐことになってるから、タームを貰った。王宮の仕事に関していえば、やってるよ。お嬢様が学院でお勉強しているあいだにね」
「爵位って、そんな簡単に手に入るものなの!?」
「俺の祖父は
侯爵閣下は、愛妾をたくさん持ち、子どもをたくさん作った男としてよく知られている。
ダグラスが言うに、祖父の子どもは十人。その子どもたちがそれぞれ結婚して子を成しているため、孫の数は倍以上。会ったこともない従兄弟もたくさんいるし、現在進行形で増えているという。
ザード侯爵家はいくつも爵位を持っており、それぞれの子どもへ渡している。ターム男爵もそのひとつにすぎない。
「祖父の代では、税収を上げるために爵位をたくさん作って付与したらしいな。子沢山のザードには、多くの爵位が与えられた。持て余している男爵位に、たいした価値なんてないよ。王子のところでやっている仕事は、爵位の見直しだ。祖父のツケを払わされている」
「うちも爵位整理の対象で、ダグはずっとわたしを見張っていたのね」
体を悪くして第二子を望めなくなったグレニスタ家において、リズベットが女性伯爵となるに相応しいのかどうか。
「見張りといえば見張りかもしれないけど、婚約が成立したのは俺が十歳ぐらいだぞ、そんな意図はなかっただろうさ」
将来を見据えて、ダグラスは十四歳のときにグレニスタ伯爵家へやって来た。学院に通いながら執事見習いとして仕え、次期伯爵を支えることになった。リズベットが八歳のときである。
「……ダグは、そのころからわたしをそういう目で見ていたの?」
「そんなわけないだろ。俺は幼児愛好者ではない」
ピシャリと断じる。嬉しいようなそうでもないような、じつに複雑な気分だ。ダグラスは大袈裟に溜息をついて、リズベットの傍に腰かけた。
「ずっと見てきたよ。夢見がちでふわふわしているが、きちんと他者を思いやれる。使用人に対しても階級を超えて分け隔てなく接することができるし、頭を下げることも厭わない。危なっかしくて心配になるぐらいだけど、そこは俺がなんとかすればいい。そう思うようになった」
「わたしは合格なの?」
「
直球の言葉に一気に体温があがり、頭巾のようにかぶったシーツの端をさらに引き下げる。唯一、表に現れていた瞳すら隠してしまったリズベットは、見えない視界の向こう側でダグラスがかすかに笑うのを感じた。
「それで、いつまで隠れているつもりなんだ。婚約者との顔合わせだぞ」
「なによ意地悪。顔も知らないどころか、嫌ってぐらい知っている相手じゃないの。黙っているなんてひどいわ」
「嫌味ぐらい言わせろよ、こっちは婚約者が別の男に気があると思わされてたんだぞ」
「そんなの勘違いしたほうが悪いのよ。わたしはダグのことしか見てなかったのに」
「……そういう可愛い台詞は顔を見て言って欲しいんだが」
ダグラスの手がシーツを剥ぎ取る。
そうはさせじと押さえるリズベットだったが、力では敵わずあっさり頭部が露出した。いままでずっと手加減されていたのだと思い知る。悔しい。
黙り込むリズベットを見て、ダグラスもまた言葉を失ったようだ。彼を驚かせられたことで、すこしだけ溜飲を下げる。
「……その惨状はどういうことか訊いても?」
「あのね、髪の毛って売れるのよ。わたしの髪って高いんですって。手入れが素晴らしいって褒められたわ」
「だからって貴族令嬢が髪を切って売るかよ、バカなのか」
腰まであったストレートの長い髪は、今は肩の上で揺れている。
断髪した理由としてはいくつかある。
小鳥の涙ほどではあってもお金になること、一定の長さがあればウイッグとして活用され、病気のために髪を失ったひとの役に立つと知ったこと。
「わたし、自分の髪があまり好きではなかったけど、喜ばれて嬉しいの。どうせ髪はまた伸びるし」
「結いあげる髪がないから結婚式も延びるだろうと?」
「……なんのことかしら」
敢えてくちにしなかった残りの理由を挙げられて、バツが悪くなったリズベット。視線を逸らせて言うと、ダグラスはリズベットの頬に手を伸ばす。
「この頬がどこまで伸びるか試してみようか?」
「やめなさいよ、嘘をついて伸びるのは鼻だけよ」
「なるほど。つまり嘘はついていないと」
「鼻が低くて悪かったわね! どうせわたしは、お母さまみたいな美人じゃないわよ」
「いいじゃないか。俺はリズのすべてを愛している」
これは本当にダグラスなのだろうか。ひとが変わりすぎていて信じがたいといったリズベットに、男は笑う。
「言っただろう、もう待つのはやめた。式に関しては髪が伸びるまでは待ってやるが、それ以外は好きにやらせてもらう。旦那様の許可も取ってるしな」
「な、なにをするつもりなのよっ」
リズベットの問いかけには答えず、いつもどおりニヤリと笑う。
腹黒さ満載の笑みにうっかりときめいてしまったリズベットは、やっぱり自分はいろいろ終わっているのかもしれないと感じつつ、それでもいいかと心から笑った。
だってどうあったところで、リズベットは、この腹が黒い、忠実な執事のことが大好きなのだから。
没落予定の伯爵令嬢は腹黒執事さまがお好き? 彩瀬あいり @ayase24
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