「にこの珈琲マイスター伝説」

 さくらハウスのキッチンに、芳醇な珈琲の香りが漂い始めていた。

 月城にこが、真剣な眼差しで珈琲豆を見つめている。その姿は、まるで錬金術師のようだ。


「今日は特別よ。エチオピア・イルガチェフェ産の珈琲豆を使うわ」


 にこが宣言すると、澪と詩音は思わず身を乗り出した。


「イルガチェフェって、どんな特徴があるの?」


 澪が興味深そうに尋ねる。


「そうね。イルガチェフェは、エチオピアのゲデオ地区で栽培される高級珈琲よ。標高1950メートルから2200メートルの高地で育つの」


 にこは豆を手に取りながら説明を続ける。


「この豆は、ウォッシュト製法で処理されているわ。つまり、水洗式精選法よ。これにより、クリーンで明瞭な味わいが生まれるの」


「へえ、すごい!」


 詩音が目を輝かせる。


 にこは、精密な温度計付きの電気ケトルにお湯を注ぎ始めた。


「抽出温度は92度に設定するわ。これより高いと苦味が強くなりすぎるし、低すぎると旨味が十分に抽出されないのよ」


 にこは、優雅な動作でハンドグラインダーを取り出した。


「豆の挽き具合も重要よ。今回はペーパードリップ法を使うから、中細挽きにするわ。粒度はおよそ0.75ミリメートルを目指すわ」


 澪と詩音は、にこの一連の動作に見入っていた。


「ねえ、にこ。どうしてそんなに細かく粒度を決めるの?」


 詩音が首を傾げながら尋ねる。


「良い質問ね、詩音」


 にこは満足そうに微笑んだ。


「粒度は抽出時間に大きく影響するの。細かすぎると抽出が早くなりすぎて苦味が強くなるし、粗すぎると旨味が十分に引き出せないわ。中細挽きなら、3分から4分の理想的な抽出時間が得られるのよ」


 にこは丁寧に豆を挽きながら、さらに説明を続けた。


「それに、この豆の個性を最大限に引き出すには、粒度の均一性も重要なの。だから、私はこの高精度のハンドグラインダーを使っているわ。刃の角度や材質にもこだわっているのよ」


 澪は感心したように頷いた。


「まるで科学みたいね」


「そうよ、珈琲を淹れることは科学でもあり芸術でもあり文化でもあるの」


 にこは誇らしげに言った。


 にこは次に、精巧なドリッパーとサーバーを用意した。


「このドリッパーは、円錐形で底部に螺旋状の凹凸があるの。これにより、水の流れが制御され、珈琲粉全体に均一に水が行き渡るわ」


 澪と詩音は、にこの一挙手一投足に釘付けになっている。


「さて、ここからが本番よ」


 にこは深呼吸をし、集中力を高めた。


「まず、プレインフュージョンを行うわ。これは30秒間、少量のお湯で珈琲粉を蒸らす工程よ。これにより、珈琲粉が膨らみ、二酸化炭素が放出されるの」


 にこは慎重にお湯を注ぎ、30秒間じっと待った。


「次に、本抽出に入るわ。ここでのポイントは、『ブルーミング』と呼ばれる現象を観察すること。珈琲粉が膨らみ、クリーム状の泡が形成されるのが見えるはずよ」


 にこは、螺旋を描くようにゆっくりとお湯を注いでいく。

 その姿は、まるで優雅な舞踏のようだった。


「水の注ぎ方で、抽出速度と味わいが変わるの。中心から外側へ、そして内側へと、リズミカルに注いでいくわ」


 澪と詩音は、息をのむような思いでにこの所作を見守っていた。


にこは、精密な秤の上に置かれたサーバーを見つめながら、抽出を続けた。


「抽出比率は1:15を目指すわ。つまり、珈琲粉20グラムに対して、300ミリリットルのお湯を使用するの」


 澪が小声で詩音に囁いた。


「まるで化学実験みたいだね」


 詩音も頷きながら返す。


「うん、でも芸術的でもある」


 にこは、そんな二人の会話も聞こえていないかのように、全神経を抽出に集中していた。


「抽出時間は3分30秒を目指すわ。これより長いと苦味が強くなりすぎるし、短いと酸味が際立ちすぎてしまうの」


 にこはストップウォッチを見つめながら、絶妙のタイミングでドリッパーを持ち上げた。


「さあ、完成よ」


 にこの表情が、少し緩んだ。


「でも、まだ飲むのは早いわ。珈琲は62度から70度くらいで最も香りと味わいが引き立つの。少し冷ましましょう」


 澪と詩音は、にこの一連の珈琲を淹れる過程に圧倒されていた。


「にこ、本当にすごいね。これだけの知識と技術があるなんて」


 澪が感嘆の声を上げた。


「うん! まるでプロフェッショナルみたい」


 詩音も目を輝かせて言う。


 にこは少し照れくさそうに微笑んだ。


「ありがとう。でも、まだまだ学ぶことはたくさんあるのよ。珈琲の世界は奥が深いから」


 にこは三つのカップを用意し、丁寧に珈琲を注いでいく。


「さあ、いよいよ味わいましょう。まずは香りを楽しんで」


 三人は、優雅にカップを手に取った。


「このフローラルな香りと、かすかなベリーの甘さ。イルガチェフェの特徴よ」


 にこが説明する。


「すごい! 本当に花の香りがするね」


 詩音が驚いた様子で言う。


「そして、一口含んでみて。舌の上でゆっくりと転がすように」


 にこの指示に従い、三人は慎重に珈琲を口に含んだ。


「どう? 最初に感じる爽やかな酸味、そして徐々に広がる甘みと複雑な風味」


 澪が目を見開いて言った。


「こんな珈琲、初めて飲んだわ。本当に奥深い味わい」


「うん、普段飲んでるのとは全然違う!」


 詩音も感激した様子だ。


 にこは満足そうに二人の反応を見ていた。


「珈琲は単なる飲み物じゃないの。それは文化であり、芸術であり、そして科学なのよ。一杯の珈琲の中に、栽培農家の思い、焙煎師の技術、そして淹れる人の情熱が詰まっているの」


 澪と詩音は、にこの言葉に深く頷いた。

 彼女たちの目には、珈琲への新たな敬意の光が宿っていた。


「にこ、本当にありがとう。素晴らしい経験をさせてもらったわ」


 澪が心からの感謝を込めて言った。


「うん! これからは、珈琲を飲むのが今までとは全然違う体験になりそう」


 詩音も嬉しそうに付け加えた。


 にこは満足そうに微笑んだ。


「良かったわ。これからも、もっと素晴らしい珈琲の世界を二人に紹介していきたいわ」


 三人は、芳醇な香りに包まれながら、珈琲を通じて深まった絆を感じていた。さくらハウスに新たな珈琲文化が根付いた瞬間だった。

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女三人、癒しとときめきのルームシェア ~澪と詩音とにこ~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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