四六年の千本ノック幽霊
DITinoue(上楽竜文)
壱
ぼんやり、焦点が合わずとも、母校の寂れ具合は痛いほど伝わってきた。
実に四十年くらいの間を置いて、俺は校門をくぐる。
左手にある駐輪場には、一台の錆びてタイヤが歪んだ自転車がこけているだけだった。
校舎を見ても、どこの窓にもカーテンが閉じていて、蜘蛛と蝿とゴキブリの天国のようだ。
四レーンしかない二十五メートルプールからは、深い緑色をした水から腐臭が漂い、職員室があったはずのところは何者かに入られた跡がある。
――これなら、廃墟マニアとか取られてもおかしくないわな。
いっそのこと、廃墟の写真ばかりを撮っていくのも悪くは無いな、なんて薄い笑みをたくわえながら、俺はボディに味の出てきた一眼レフカメラのシャッターを切った。
さらに向こう側へ進んでいくと、体育館が出現する。
重かったはずの鉄扉は外されており、ふと中を覗くと、あれほど誇らしく光り輝いていたフローリングも埃をかぶっているし、校歌が彫られた木の板はボロボロに蝕まれているし、体育倉庫にはピンポン玉一つ入っていない。
――俺の青春の舞台は本当に棄てられちまったんだな。
大正時代末期に建造された歴史あるこの高等学校「西高」は、一度校舎の大規模な改築を挟みつつもしぶとく生存してきた、伝統ある場所だ。
廊下には三十人以上の校長の顔が飾られていたり、文豪のサインが飾ってあったりするほどだ。
そんな名門校も、少子化の波に抗うことは出来ず、県の高校統一政策によって廃校を余儀なくされた。
実際に廃校したのは二年前らしいが、それからは解体費用の問題に加え、この学校に愛着を持つ卒業生からの「解体だけはダメだ」という懇願により、廃校からそのまま学校が残っているそうだ。
体育館の隣にあるグラウンドに足を向けようとして一瞬、つま先がそれを拒んだ。
汗と涙がハイスピードで神経を駆け巡る。
少し逡巡して、俺はもう一歩、歩を進めた。
グラウンドは、廃校してからろくに整備もされていないようで、雨風に土が侵食され、走るとすぐに怪我をしそうなものになっていた。
サッカーのゴールは苔が生え、ツタが巻き付いているし、陸上部の走り高跳びの選手が使っていたマットはカバーがボロボロに破れていた。
そのもう少し奥に、バックネットはそびえ立っている。
高校時代に慣れ親しんだ戦場は、今となってはエベレストの垂直な壁のように見えた。
――何やこれ。
カメラを両手に包みながら近づいていってみると、すぐに強烈な違和感が襲う。
――二年前から、誰も使ってないんとちゃうんか?
野球部の使用する範囲は凹凸の無く均されたものである上、マウンドを中心に、甲子園球場を思い起こすような、波紋状の模様が形作られている。
――誰かがやっとるんやろうか。
明らかにそれは人間の存在を感じらさせるものだった。
俺はシャッターを切り、ディスプレイに浮かび上がる画像を見て、やはりこの光景は間違いないのだと知る。
野球部のグラウンドに、50個以上の野球ボールが転がっているのだ。
それも他のどの部活も活動の跡を完全に消しているのに、である。
ボールは黒ずんでいるものや苔の付いているものなど様々。さらにバックネットには一本のノックバットが立て掛けられている。
――誰か、こんなとこ使うやつおるんか?
西高の野球部は、甲子園出場経験こそないものの、県ではそれなりの強豪校であり、ベストエイトの常連だった。
そんな野球部に俺は身を置き、守備が売りの八番セカンド兼主将として県予選の決勝まで進んだ。
あの当時は、情熱的で、努力は全て神様により公平な評価をされて、やればやるほど報われるものだと本気で信じていたものだった。
思い出を一つタイムカプセルから解き放てば、つられて次々と他のカプセルも開け放たれてゆく。
――そういやあ、あの倉庫はまだあるのか。
俺は、草木に埋もれかけている体育倉庫に足を向けた。
――あった。
グレーの金属製のシャッターが付いた正方形の倉庫が五つ、横一列に並んでいる。
そのうち、一番右にある、少し黄ばんだ倉庫は、これまで誰も中身を覗いた例がないものだった。
その時だ。
俺の肩に、何かが乗った。
全身に電撃が打たれたように身体が跳ね上がる。心臓の拍動に合わせて滝のような汗がドバッと。
振り返って肩を触ってみても、それらしいものは何もない。
辺りを見回しても、動物はおろか、蟻一匹見えなかった。
――なんだ、さっきの。
暁の光がだんだん沈み、全てを染める闇が辺りに降りてきていた。
***
あれは高校一年の夏だっただろうか。
夏休みに入り、新しい友人たちと浮かれに浮かれ、俺たちは夜のグラウンドへ侵入した。
歴史の長さ故か、西高は「霊が出る」とかいう噂の絶えなかった。
そのうちの一つが、「開かずの倉庫」である。
野球部や陸上部の倉庫の隣にあるのに、硬いロックが掛かっていて開けようと思っても全く開かず、何が入っているかも分からない。
――あの日、俺の友達は禁断の戸を破った。
一体何があったのか、肝試しをしている時、いつまで経っても一人が出てこなくなった。
ピュルルルル、と吹く風が真冬のように感じられた。どれだけ呼んでも、返ってくるのは自分たちの声だけで、学校という空間自体が無言の重しとして俺たちに圧し掛かってくる。
三十分以上も捜索していて、半ば諦めてきた時、その友人はグラウンドの真ん中にへたり込んでいるのが発見された。
彼は顔面蒼白で過呼吸になっており、何かを問いかけても
「倉庫が、倉庫が」
と返してくるだけ。
手足はガクガク震えていてまるで使い物にならず、彼を背負って家に帰ろうとしたその時だった。
カーン!
甲高い金属音が、暗闇の田舎の空に、ぼわわんと不気味に響いたのだ。
一同は硬直した。
「いつまでもわろてるんちゃうぞ!」
野太い男の怒鳴り声が追い打ちをかけると、俺たちはヒィッ、と情けない声を出して、涙を堪えながら一目散で逃げたのだった。
ちなみにそれ以来、友人は引っ越し、その後は一切知れない。
***
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます