伍
十時三十分ぴったりに、旅館「わらび」の暖簾をくぐると、相変わらずの妖しげな薄ら笑いを浮かべた元山が巨大な酒樽の前に佇んでいた。
「ギリギリ、セーフですかね?」
「いや、社会人としてはアウトですね」
「すみません」
ウフフフフ、と元山は右手で口を隠して、静かに笑い声を上げた。
「では、参りましょうか」
一階の部屋の奥へ奥へ進んでいくと、『西高の遺産プチミュージアム』と筆文字で書かれた木の板が、入り口に立て掛けられている部屋があった。
「ここなんです。中へどうぞ」
室内は、プラスチックの透明な仕切り板で仕切られた展示用ショーケースが並んでいた。
その中に、廊下に飾られていた気のする絵画や、校歌が筆で書かれた紙、歴代の校長の写真のコピーが収められている。
「あぁ……」
「懐かしいでしょう? 私は分からないんですけれど、夫が廃校になってから、学校の中に何度も入って色々なものをかき集めてきたんですよ。ここがオープンしてすぐに、ぽっくり逝ってしまいましたけれどね」
「そうなんですか……」
先に進んでいくと、各部活動のものがあった。
最後の優勝旗や、表彰状、道具類……。
「ん、これは?」
その中に、野球部のグラブとバット、一つのボールが丁寧に置かれている。
他の展示品から見事にはみ出しているわけではない。ごく普通の、使い込まれた黒いグラブとノックバット、さらに、土埃に塗れた軟式の野球ボールだ。
だが、どこか違う。
何かが宿って、こちらをジトッと睨んでいるかのような。そんな、見られている、という虫の悪さを感じていた。
「あら、お気づきになられましたか?」
元山の声は、蝋燭一本だけが灯の部屋でヒソヒソと怖い話を聞かせるような、風通しの良い声だ。
目は座っていて、顔のほとんどが影になっている。紫色の着物が、独特のムードを醸し出している。
「さすがは、カメラマンの見る目は違いますね。そうなんです、実はこれ」
と言ったところで、元山は言葉を切り、頬に人差し指を一本当てて俯いた。
俺は、ごくりと生唾を呑み、息を止めて次の言葉を待った。
「……こちらをご覧ください」
二の矢を継ぐ前に、元山は俺の浴衣の袖を引いた。
グラブの隣には、一枚の巻物のようなものがある。
「……これは?」
「読んでみてください」
筆の細い線で、丸っこい文字が書かれている。
『天国で、やきゅうは出来ますか? せんそうなんかせずに、おなかいっぱいごはんを食べて、ずっとボールを追いつづけられますか? 寺井勝子』
縦書きで、巻物にはそうあった。
「……てらい、しょうこ?」
「はい。この子は、終戦した翌年、高校三年生の時に、自分の好きな子に憧れて、野球をしようと思い立ったんです」
「え、終戦した翌年なんですよね? まだ貧しい時期なんじゃないんですか? しかも女子でしょ?」
「はい、でも、その子は思いを止められず、野球部顧問の
「はあ……」
今日の一連の出来事の輪郭が、少しずつ作られてきている気がしてきた。
「で、まあその先生は当然反対したんです。そもそも野球は男のものだし、ましてや終戦直後の厳しい環境で、普通の部活動さえ出来ていないのに見れないと」
「当然ですね」
「それでも、彼女は頼み込んだんです。彼女は酒屋の娘で、生まれた時から酒屋を継ぐ運命でした。父親は厳しく、何も好きなものをさせてもらえない。そういう背景もあったのでしょうね」
――酒屋?
「そういう強い願いを続け、西嶋先生が折れ、親にもばれてしまうことの無い深夜なら、練習を見てやる。その代わり、とても厳しいからな。と、許諾したんです」
「……はあ」
「そして、深夜に毎日グラウンドで練習させました。西嶋先生自身の息子と一緒にね。ですが、それも半年くらいで父親に知られてしまって。勝子さんは、酒屋を継ぐ女がなぜ自分に内緒で野球なんてしているのだ、と散々にぶたれ、鬱になってしまったそうです」
俺は、ついに相槌を打つことも出来なくなってしまった。
目の前の、カラカラに掠れた筆跡に、視線がずっと向かっている。
「なぜこんな話をしていたかというと、この旅館が建っている場所は、実は元々、彼女の生家である酒屋があった場所なんです」
「ほぉ……」
「なので、時々変なことが起こったりします。すすり泣く声とか……。そして、学校でも、八月になると、先生と勝子さんの霊が出たりするとか。まあ、全部夫の受け売りですけどね。あ、そうそう、西嶋先生の息子さんは、時々ここに泊まったりされますよ。今日も宿泊されていたんじゃなかったかしら」
――そういうことだったのか。
心臓をガツンと突き上げる衝動が、何度も何度も、俺を襲う。
――もしかして、温泉で話したあの人が?
「ちなみに、その寺井さんはどうなったんです?」
「その数カ月後、栄養失調で亡くなられました」
俺は気づけば旅館を飛び出していた。
グラウンドでは、相変わらずボールとバットが動いている。
――今はバッティング練習してるのか。
カメラを覗き込みながら、俺は校門側に回った。
そして、グラウンドに降りた。
「あんた、すごいね、本当!」
俺は、しゃがれた声を張り上げて、そう言った。
「厳しい時代に、好きなことをやり続けてさ、本当、すごいわ」
ボールの音は相変わらず続いている。
「俺なんかに比べたらさ、本当に……」
言い終わる前に、耳のすぐ近くでバン、と音がした。
「……え?」
片耳が聞こえない。
と、真正面から真っ黒に焦げたボールが飛んでくる。
「え、何だ」
キャッチすると、それは勢いよく破裂し、俺の両腕をカメラごと吹っ飛ばした。
俺は呆然と突っ立つしかなかった。
よく見ると、それは倉庫の方から来ている。
倉庫の前には、一人の少年が、開かなかったはずの一番右の倉庫から手榴弾を次々と投げていた。
――まさか、あの子が西嶋先生の。
「その人はダメだ!」
誰かが叫んだのを聞いた瞬間、俺は轟音に殴り倒された。
青春時代と同じように砂の感触が頬を伝う。
――志半ばで、か。
ノックの音は、子守歌のように止まることを知らず響いている。
(完)
四六年の千本ノック幽霊 DITinoue(上楽竜文) @ditinoue555
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