勇
カーン!
「おい、そんなんで他のやつらを認めさせられるとでも思ってんなら二千年早いぞ!」
カーン!
「おら、もっと食らいつけ! こんなんで倒れてるようじゃいけん!」
カーン! ……カアン! ……カァァン!
何度も響く、金属音。そして、聞き覚えのある、野太いよく通る声。
――何だ、こんな夜に。
時間は、十時になろうとしているところだ。
――あと、三十分なら行けるか。
俺は、浴衣のまま相棒の一眼レフを手に取り、忍び足で階段を降りる。
不思議と、何事か、と騒いでいるような声は無く、途中で大きないびきすら聞こえるくらいだった。
八月初旬の夜は文字通り熱帯夜で、皮膚と心臓がドロドロ蕩け落ちそうな気がした。
カーン!
「おい、あと二十球あるぞ! ほらちゃんと頑張れ! こっちは自分の夜を削ってまでやっちょるんじゃ!」
「は、はいっ……ズッ」
「泣いてる暇があるんなら、家に帰って眠ってもいいんだぞ? おい、情けないぞ、八十球でこんな」
「っ、はいっ」
「ほら、よい!」
カーン! ビュシュッ、ザッ……
「ヒッ、ヒッ、アアッ、スッ」
幼い頃に見た、お岩さんの悲劇を彷彿させるすすり泣きが、グラウンドから聞こえてくる。
――女か?
俺は、カメラを起動し、録画モードにした。
そのまま、腰の痛みに襲われつつも身をかがめ、息を潜めてバックネット裏へ接近する。
そおっと顔を上げる。
樹木の間からは、月明かりに照らされて青白くなっているグラウンドしか見えない。
ぼんやりと俯瞰していると、ボールが散乱している以外にそれと言った異変は無いように思える。
が。
「はい次!」
耳をつんざくような怒声と共に、バックネットの奥でボールが高く上がり、宙に浮いているバットがそれを捕らえ、二塁線への強いゴロが放たれる。その先には、黒く、様々なところで皮が破けたグラブが待ち受けていた。
ボールはグラブに収まったかと思うと、磁石の反発のようにふわりと再び浮き上がり、一塁に設置してあるネットへ突き刺さった。
「弱い! 弱いぞ、そんなんなら! バッターランナーは悠々とセーフ!」
ぼわわんと、不気味な広がり方をする男の怒鳴り声。
「はいぃっ」
それと、弱々しい返事。
そしてまた、ボールが上げられ、バットがそれを捕らえ、グラブに収まってから浮き上がり、ネットへ突き刺さっていく。
俺は、カメラを覗いてみた。
――おいおい、嘘だろ?
重くなってきた瞼を擦り、首筋をガリガリと掻いて、ディスプレイに顔面をグイと近づける。
――カメラが壊れたか? いや、この相棒がそんなヘマをやらかすはずはない。だとしたら。
西高グラウンドには、二人の人がいた。
一人は、ノック用バットを構えた、太鼓腹の中年男性。丸眼鏡を掛けて、上半身は裸、下半身にはダボダボのハーフパンツという姿だ。
もう一人は、背中まで伸びた三つ編みの女子だ。すらりとした、というよりはかなり痩せた体形で、上は薄い麻で出来たタンクトップのような服。下はゆとりのあるもんぺという恰好だ。
そばかすが散っている顔には、きらりと雫が光っている。
二人はどちらも、藍色だった。それは、光が遮断されたグラウンドの色そのもので、水槽越しに見る景色のような。
じっと目を凝らしていると、雲が去って、月明かりがグラウンドを照らすと、彼らの身体は水色っぽくなるし、また雲が被さると、藍色に戻るといった具合に色が変化している。
――やはり、この人たちは、この世のもんじゃないのか。
カメラのディスプレイに注いでいた目線を外して、ストレートにグラウンドを見てみれば、やはり人影すら見えず、ボールとバットとグラブが勝手に空中浮遊をしている世にも奇妙な光景としか映らない。
――それにしても、なんで女子が野球なんか。
グラブを構える女子の針金のような脚は、生まれたての鹿のように、プルプルと震えていた。
「よっしゃ、ラスト五球!」
「えいっ!」
カーン、という空気を痛快に切り裂く金属音がしたと思うと、バシュ、と革にボールがぶつかる音がして、ネットに入っていく。
だが、動きは鈍く硬く、高校時代の俺の半分以下だ。
――何をまた、こんな深夜に。
「ブワアアアッ」
と、太い間抜けな欠伸が出てしまい、俺は慌てて伏せた。
――あ、でも三脚が?
腕時計を見れば、もうあと十分で十時三十分だ。
俺はそっと三脚を畳み、カメラを取り外して、自衛隊のほふく前進の如く、這いながらその場を去ることにした。
ちらりと誰もいないグラウンドに視線をやった時、何者かと目が合った気がしたのは思い込みだと思い込むことにした。
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