魑魅魍魎が俺の周りを囲んでいるのではないかという、無理のある錯覚に囚われつつも、俺は好奇心を隠すことが出来なかった。

 ――ホラーカメラマンに転向するのもありかもしれんな。

 シャッターの持ち手に手を掛ける。そのまま、全身の筋肉を総動員して、倉庫の中を覗いてやろうとしたその時だった。


 ビシュッ!


 流線型のものが風を切る音が一瞬聞こえた。かと思うと、ガシャン、と俺の耳元で爆発音みたいな金属音が鳴った。

 腕は完全に力が入らなくなり、呼吸を忘れたかのように呆然とした俺は、足元に一本のナイフが落ちているのを見つけた。

 ――なんだ、これ。

 ナイフは比較的小さめだが、先はかなり鋭利で、当たってしまえば……。

 ――脳からの大量出血で、復活の狼煙を上げる前に俺は死ぬことになる。

 拾ってしまうのも憚られて、俺はひとまず、足元に落ちているそれを写真に収めた。

 それから、そちらが飛んできたと見えるバックネットの方にもレンズを向けた。


 シャキッ


 長い影を落とした木が、化け物みたいにバサバサ揺れている。その様子を切り取ったことを確認し、俺は校門を出ようとした。

 刹那。


 ポーン


 硬い物が地面に跳ね返った音が、無理やりに鼓膜をくぐろうとした。

 ――今度は何やねん。

 汗の滲んだ右手で胸を押さえて、チラリと振り向くと、真っ黒になった球がコロコロと土を巻き付けて転がってきていた。

「ヒィィ……ギャアアアアアッ!」

 喉から搾り出た絶叫が、足音と共に山にこだました。




 カメラを抱きしめる腕は蒸し地獄になっていた。

 それゆえに、心地よい琴の音と、さらさらと春の小川のごとく流れる水の音が無性に心地よく、ガチガチに凝り固まった俺の腕の筋肉をほぐしてゆく。

 旅館「わらび」は雅な感じの、それなりに良い場所と見れた。


「あら、こんばんは、お客様」


 と、頭上からいきなり、妖艶で生温かい女性の声が降ってきた。

 垂れていた顔を上げると、着物を身にまとった女性が佇んでいた。

「お泊りですか?」

 彼女はシルクような肌に茶髪、濃い口紅を塗っていて、紫地に金色の蝶の舞っている着物を着ていた。まるで江戸の日本人形のようだ。

「あ、はい、岸清忠きしきよただで予約しているのですが……」

「ああ、岸様ですね、どうぞ、お上がりください」

 ゆっくりとお辞儀をする彼女は五〇代と見れるが、空間を紫色のオーロラが舞う空にしてしまうような魅惑があった。

「私は女将の元山もとやまのぶと言います。よしなに」

「あ、はい」

 サラリと返す言葉が俺の脳内には見つからなかった。


「ご職業は?」

「あ、えー、カメラマンをしています」

 言ってから唇を噛んだ。

 ――全く売れることが出来ず、妻からも離婚され、息子からも愛想を尽かされたくせに、よく堂々とカメラマン名乗れるよ。

「へぇ、そうなんですね。立派なカメラ、格好いいですね」

「あ、どうも……」

 ――ほら、暗にカメラと俺が見合ってないって言われてるじゃねえか。

 結局、全く何も知らない相手に対して被害妄想を抱いている自分が情けなくて、俺は皮膚を削る勢いで首筋を掻きむしった。




 温泉にゆっくりと浸かって身体がほぐれていく間も、“何かいる”廃校の恐怖が掴んで離さない。

 この温泉にも何かが溶けていて、どこからか怪人がムクムクと浮かび上がってくるのでは無いかと勘ぐってしまう。

 結局、どこか疲れて風呂から上がり、ざらつきの気持ち悪い浴衣を羽織って部屋に戻った。

「があっ……」

 俺はぐったりと寝転んだ。

 ――一体、俺は何でこんなことしてるんだろう?

 ふと俺は、愛用する一眼レフカメラを手に取った。

 カメラマンデビューして、希望に満ち溢れていたころに撮った風景写真やポートレートが、スライドショー形式でサラサラと流れていく。

 どれも自信を持っていた。なのに、注目もしてくれないし、気づけば誰も声を掛けてくれなくなっていた。

 ディスプレイに映し出される画像は、だんだんゴシップのものや性的なものが増え始める。

 ――どうせなら、もう一花咲かせたいもんだよなぁ。

 今日撮った写真が流れてきた。

 俺の今の心境にピッタリな寂しい写真……。

「ん?」

 旅館の池に泳ぐ鯉の写真に切り替わる寸前、俺は“見てはいけないもの”を見てしまったような気がした。

 背後に大口を開けたドラゴンが迫ってきたかのような冷たい硬直。

 俺は写真を一つ巻き戻す。

 ――やっぱり。

 バックネット裏に生えているいくらかの木。


 その裏に、半透明の人間が、いる。


 かなり薄く、裏の背景とほとんど同化してしまっているため分かりにくいが、恐らく野球のユニフォームだ。身長は百六十センチと少しくらいだろうか。

 表情は見えないが、画面の向こうのそれは、確かに強烈な殺意を放っている。

 ――これが、ナイフを投げた犯人なのか?


「失礼します、ご夕食をお持ちいたしました」


 と、元山が襖を開けて、すり足で入ってきた。

 スミレのような花の匂いが空気に溶け出していくのに一瞬気を取られてしまった。

「どんな写真を撮ってこられたんです?」

 ウフフ、と彼女が近寄ってきているのに気づかなかった。

「あっ」

「あら、そこの西高じゃないですか。もしかして、卒業生だったりして?」

 随分画面に顔を近づけてきても、その存在には気づかなかったようだ。

「え、ああ、そうなんです、実は。はは」

「実はね、この旅館の一階に、西高にあったものがいくらか収蔵されているんですよ。亡くなった夫がそこの野球部の出身で」

「え、そうなんですか?」

 思わず大きな声を出して立ち上がってしまったことを、俺は思い切り懺悔していた。

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