第3話 それは世界の終わりか、始まりか

 最初に感じた違和は小さく、ボタンを掛け違えたような――普段なら右足から履くはずの下着を、左足から履いた時のような、何かが違うけれど明確に口にするほどでもない、僅かな差異でしかなかった。

 それを決定的なものとしたのは、同じ職場の上司だった。

 古い知り合いと口にしたのなら、まだまだ年齢的に若いお前が何を言う、なんて笑われるかもしれないし、仕事場に来る前も含めたところでせいぜい五年だ、長い付き合いと言って良いのかどうかも、あやしくなる。

 その五年が、年齢に対してどのくらいの比重なのか。

 たとえば三十歳なら、三十分の五の割合になるだろうけれど、二十歳ならもっと割合は大きくなる。時間の感覚の目安なんてのは、だいたいそのあたりを理解しておけば良い。

 呼び出しを受けて顔を見せれば、就業時間を気にして仕事は確実に終わらせる所長が、珍しく手を止めており、よく見れば右手に懐中時計を握っていた。

「やあ、どうかしたかい?」

「ふむ……調子はどうだ」

「仕事ならいつも通り。それ以外なら」

 違和感が頭をよぎるが、言おうかどうか、少しだけ迷って。

「……いや、そうだね、特にはなにも」

「迷いか、なるほどな。魔術師としても未熟なお前が感じているのならば、おそらくそこが正解だろう」

「――どういうことかな。一体、何があったんだ」

「いつからか、気付くのが遅れたので明確なことは言えんが、――私の時計が正しく刻んでいない」

 なんだ、今朝に時計合わせを忘れたのか……などと、そんな軽口が言えないことは、わかっている。

 日本にも古くから、魔術師の家名は存在する。その中の一つ、老化の停止を研究している陽ノ宮ようのみやという家の、彼は次男だ。実際にその研究の成果は彼の姉が成功し、完成したため、晴れて彼は自由の身となった。

 自由。

 それは一般人になれるという意味ではなく、魔術師としてどう生きるのかを選べるだけの話であり、そもそも魔術師の家の子供が、魔術師にならない方がおかしい。

 選択の権利の話ではない。夕食を食べて、風呂に入り、寝る――そういう日常の、当たり前のものとして受け入れているため、魔術師にとっては魔術の研究をほかの人がやっていないことの方が、驚くべき事実なのだ。

 そんな中、彼が選択した研究対象は、老化の停止と同じく時間に関わること。

 おおよそ十五年ほど前、夏の終わり、ある河川敷で花火大会が行われた。

 毎年のことであり、それほど注目すべきことはなかったのだが、そこで事故が発生する。表向きには爆発事故として処理されたそれに、検分に入ることができた魔術師が、あることを口にした。


 ――転送されている。


 転移ではなく、転送。似たような現象であれ、この差異を魔術師は正しく捉えようとする。複数人の魔術師が介入して検証した結果、それを未来方向への転送だと想定した。

 人が過去へ戻ることはできない。可能なのは、過去にひたることだけだ。しかし、未来へは――いや、可能である、とは言えない。だが可能性はある。何故なら未来とは、不確定だから。

 限定条件下でならばありうる、それが所長を含めた魔術師たちの出した結論だった。

 不確定な未来、それも千年単位での移動、転送。偶発的な事故であるとはいえ、世界の仕組みとして、未来への転送は可能。ただし、観測者の存在が必要不可欠。

 たとえば。

 今も生きていて、かつ、いつかはわからないその未来の時点でも生きている存在がいるのならば――世界の中にある、人間が作る時代の流れを見届けられる存在があれば、転送された瞬間と、転送が完了された瞬間が、将来的に繋がる。

 現実的かどうかはともかく、その結論を出せたのも十年以上かかっていたし、ともかく彼は、時間そのものに関しては敏感で、ほかの魔術師でさえ、時間なら彼に聞けと口にするほど正確だ。

 さて。

 その時計が正しくないとなれば、世界そのものが改変したのだと疑いたくもなる。

「ふむ、何が起きたのかはまだ、お前と同じく違和としか感じないが……」

「きみの時計が狂ったんなら、ボクとしては最大級の危機として捉えたくなるよ」

「――ほかの連中は昼で帰らせろ。自宅でならば、選択の幅も広がるだろう。何であれ、な」

「きみは?」

「帰って準備をしておく。何が起きるかわからんのなら、考える限りの最悪を想定した方が良い。お前と違って、私は武闘派ではないのでね」

「じゃあ、ボクはここに残って、様子見から入るよ。きみと違って、必要な荷物は持っているから」

「そうか。では、何事もなければ明日に逢おう」

「うん、そうなれば良いと、心底から思うよ」

 だが、その願いは叶わなかった。

 思うだけなら、誰だってできる。眠る前に、明日が来てくれと願う者がほとんどいないのと同様に、いつだとて足かせになるのは、慣れだ。


 変化に対し、常識を振り回すのが、人間だから。


 昼食を終えたタイミングで部下たち三人を返してから、一人になった研究室で着替えをした時点で、空腹には気付いていた。自分も昼食を終えたというのに、腹が減っているというのは、ありがたいことに違和の輪郭を掴むきっかけとなり、まずは自分の躰を把握することが先決だと、空腹は抑え込む。

 自己の精査は魔術師の基本――なぜか。

 そもそも、魔術とは範囲が広いものだが、魔術式といえば、現実的に可能な現象を引き起こすものとして知られている。

 体内で生成された魔力を、自身の中にある魔術回路に通すことで、魔術構成を組むために必要な特性を生むことができる。その構成に改めて魔力を通してやれば、式は実行され、いわゆる術式は完成する――簡単に流れを追えば、こうなっていて、であればこそ魔術回路の把握には、自身の精査が必要だ。

 想像するほど簡単でもなければ、便利でもない。

 人によって得意もあれば、苦手もある。それどころか、世界中を探しても同一の魔術回路は存在しないと言われているので、誰かに教えてもらったところで、それを落とし込んで術式を完成させるのは、自分だ。

 己を知ることは、必須とも言える。

 結果として、今までにはなかった何かの存在を、この時点で掴んだ。

 それが一体何なのかを探っていたら、いつの間にか時間が経過し、陽が沈む時間帯になっており――そして。


 反応したのは、危機察知だった。


「……?」

 防音がされているので声が聞こえないことに気付くが、騒がしい気配があった。ほかに部署が二つあるので、そちらでトラブルでも起きたのかと、部屋の外に出ようとして、ぎくりと身を震わせるよう、足を止める。

 待て。

 トラブルが起きたのかを、確認する? いや、その行為自体は良いが、そのトラブルの内容さえわからず、しかも交流があまりない他部署のことなのに、警戒心も抱かずあっさりと、それこそ武装の確認もせずに行こうなどと、当たり前の思考ではない。

 深呼吸をする、それで気付いた。

 ああ、腹が減っているんだな、と。

 抑え込んだつもりでいて、いつの間にか意識をしていなかったようだ。これは悪い兆候だったので、自分の中で切り替えを行う。

 ――ここは敵地だ。

 そう意識するだけで、雑念が消える。訓練のたまものだ。

 意識してわかるのは、本当にここが戦場のような空気だったことだ。騒がしさがあるのに、それは感じるのに、空気だけは冷えていて、何もかもが床に落ちてしまっているかのような錯覚に陥る。

 階段を下りる時、足音をできるだけ立てないようにするか、それとも移動速度を優先するか、選択を考えるくらいには、異常事態。

 階下、到着する前に血の匂いがする。あまり慣れたものではなく、思わず眉をしかめてしまう。

 慣れているのは、どちらかといえば死臭のほうだ。

 ゆっくりと受付に顔を見せれば、そこに血と、真新しい屍体が――。

「……?」

 屍体の周囲に、黒色の何かが集まって、三秒ほどで形ができた。

 驚きや戸惑いはなく。

 足は、足首まであるかないか、というほど短く、両手は床につくほど長い。胴体の部分はまるで音叉おんさのように別れている。顔というものが存在しないのにも関わらず、明らかに目だろうものが胴体の表面、左右に合計四つ存在していて。

 ゆっくりと姿を見せる。

 間違いなく、隠れていたこちらを視認しており、敵意、あるいは殺意――感情的な否定が伝わってきた。

 変わった存在だな、と思う。

 さて、人型ではないおかしな生物の殺し方は知らないが、とりあえず細切れにしてしまおう。

 視界の中に、無数の赤色のラインが出現し、魔力を通した時点で術式は完成。そして完成と同時に、黒色の何かは切断された。

 霧のようになって――消える。

「ん……ああ、これは面倒だ」

 ため息が落ちた。

 この時点で、人を殺して腹を満たし、この黒色を殺しても同じことが起きることは理解できたし、人の屍体が消えていたのも確認できた。

 そして。

「なるほど、か」

 直感的に選択した言葉を、迷わず受け入れるのも大事だ。つまり、変異であり、変化。これは屍体が変わったのだ。珍しい存在という意味合いではなく、文字通りの変わった、変化した存在。

 異形で良いか――。

 とりあえず仮称として決まったのは、この時だ。


 そこからは検証の時間だ。


 痕跡を術式で解析し、世界の中に生まれた異形という存在の情報を探る。また、途中でまた異形が発生していたので、苦労はしたが、捕まえることに成功した。縄抜けの技術があるかどうかは知らないが、少なくとも物理的な拘束が可能だったのも、新しい情報である。

 ただ、探りの最中、そもそも世界という器に違和を抱く結果となった。何かが違う、何かがおかしい――そう、ありていに言うのなら、ルールが変わったことに加えて、根底が覆るような何かがある気がしてならない。

 それを知りたいと思う反面、現状は混乱の方が大きいはずで、動き回るのは得策ではない。この職場、建物の内部でも殺しが発生し、異形が発生しているのだから、どこも同じようなものだろう。

 そう、どこも同じならば、これが外側に広がるのも時間の問題で、生存競争が始まるのはすぐ目の前だ。

 常識をいかに早く捨てるかの勝負になる。

 当たり前のこと、守るべきルール、そういったものをすぐに捨て、賢く、狡猾で、貪欲な者が生き残る――可能性が、かなり高い。

 つまり、今はまだ、静かに隠れているくらいが丁度良い。

 考えることはやめない。どれだけ想定しても、必ず現実は予想外がくるから。


 そこに、後輩がやってきた。


 顔には出さなかったものの、さすがに驚いた。たくさんある選択肢の中で、仕事場に戻って来ることをどういう思考で決めたのか。これが直感ならば、褒めてやりたいものだ。

 だから――死なせたくないと、思えてしまう。

 可愛い後輩は、いくら良い選択をしたとはいえ、このままでは間違いなく死ぬだろう。大半の、いや、九割の人間はそうだ。一ヶ月生き残れるのは、砂浜で掴んだ一握りくらいなものか。


 さて。


 楽しい時間を終えて、少しだけ睡眠が深くなるよう細工をしてから、まだ使えるシャワーを手早く浴びてから着替え――その間、ずっと考えていて。

 賭けなのはわかっている。

 適応できるかどうかは、せいぜい四割。ただ、適応できたとして、きちんと使えるかどうかはまだ四割。思い通りにいく可能性は低く、失敗なら彼の死ぬ可能性を上げるだけ。

 これは、きっと、わがままなのだろう。

 手のひらサイズの立方体の中に、角度を変えた立方体が入り、中央に複雑な文字で球体が作られている――これが、いわゆる技術結晶。ある武術に関連する技術情報を凝縮したものだ。

 一息を置いて、それを彼の躰に落とせば、吸い込まれるようにして消えた。

 すぐに術式を展開し、わかりやすく術陣を作って保護、浸透率の向上、拒絶反応の縮小化、麻酔、そういった複合効果を発揮させ、可能な限りの手を打つ。

 せめて、技術結晶を受け入れてくれなくては困る。

 守ってやる、なんておこがましい。予想が外れていなければ、ここからは誰かを守って生き残ることは困難だ。少なくとも自分には無理だろうし、連れ添っていくには目的が違いすぎる。

 だったら一人で生きれるのかと問われれば、それもまた難しいが、少なくとも。

 この後輩が生きているうちは、死ねない。

 それが責任というものだ。

「頼むから、生きてくれよ……」

 聞こえていないからこそ、本心がもれる。いろいろと隠し事ばかりの付き合いだが、何もかもが偽りだったわけじゃない。

 少し、考えるのに疲れた。

 何も考えないのは難しいが、考えすぎるのも良くはない。術式を展開したまま、しばらくは経過を見守るだけに専念して、頭を休めることにする。


 目を閉じて、眠りはしないが起きてもいないような状況が終わったのは、わずかな振動であった。

 地下倉庫にまで移動したからか、あまり外の音が拾えなくなっていたのだが、さすがにその振動に気付かずにはいられない。地震ではなく、地鳴りや軋みに近いような音色――いや、それも含めて、自然的ではない地震で構わないか。

 ついに、建造物の破壊が始まった。

 人の手によるものか、それとも異形が暴れているのか、今のところ確認はできない。だが残された時間がないのは現実で、ため息とともに彼のために展開していた術式を消す。

「……人体実験ですまないね」

 初めてのことだ、成功しているかどうかなんて、彼が起きるまでわからないし、何をもって成功とするのかも、曖昧なままだ。

 影の中から、一振りの刀を取り出し、彼の傍に置く。加えて、部屋の強度を上げて、目隠し用の結界を張った。長時間、せめて彼が起きるまでは効果を発揮するようにしたが、そのあたりの術式は錬度が低いので、ないよりはマシだと思って欲しい。

 改めて、着替えを。

 スカートや半袖のシャツだなんて、最初から論外。肌の露出を抑え、長いズボンにベルトはきつく締め、上も長袖のジャケットを羽織り、前は閉じる。

 拳銃はP320。腰裏のホルスターに入れ、メインナイフは右の腰、サブはブーツに差し込んでおく。

 軍属なのかと問われれば否定しないが、軍人かと問われれば否定する。

 経歴を説明するには、いろいろと複雑な事情があるので難しいが、米軍を間借りするかたちで、ある組織の末端に所属していたことがあり、魔術師でもあるが軍人のようなもの、という曖昧な説明で理解してもらいたいものだ。

 やり残しはないか、振り返って確認してから、外へ出た。

 そして。

「――はは、まるで怪獣映画だ」

 ただ作り物と違って、壊されているのは精巧なジオラマではなく、現実の街だ。

 まだ原型をとどめている建築物の方が多いけれど、悲鳴や倒壊音がそれなりに聞こえてくる。

 誰かを助けようとは思わない。というか、これからの世界では、そういう人物から消えていくだろう。

 聖人君子ではないのだ。自分の身を護ることで精一杯――。

「おや」

 さてどこへ向かおうか、なんてことを考えていたら、周囲にいくつものラインが走った。それは切断術式を得意とするからこそ気付けたものであり、少しだけ考えて自分に被害がないよう対処してやれば。


 周囲に、十三本もの切断ラインが通った。


 近くで瓦礫が倒れる音を聞く。さすがにうるさいし、轟音には恐怖心が浮かぶ。背後にあった仕事場も壊されたが、これは予定通り。最初から崩れていた方が、地下も隠れやすいだろうとの考えだ。

 それに、攻撃自体はそれで終わり。敵意はあったし、殺意と似たようなものも感じたが、これは術式ではない。こう言うとおかしいかもしれないが、ただの切断という現象だ。

 ――まるで、かまいたちだ。

 想像したのは妖怪の方で、小さく笑ってしまう。こちらの場合は、とにかく人を斬りたいだけのような気もするが、ああいう異形もいるのなら、この惨状にも納得できる。

 しばらくは潜伏した方が良さそうだ。

 メイン拠点は国外にあるが、もちろん日本にも仮拠点がいくつかあるので、まずは隠密行動でそちらに向かうことにした。

 隠れて行動するわけではない。あくまでも目立たず、何かに介入することもせず、かといって急ぐわけでもなく。

 今は、情報収集に重点を置いた方が良い。


 ひどいものだった。


 異形たちは個であり、意思を持って連携していないのが幸いだったが、それでも一般人にとっては充分に脅威だったけれど、そんなことより知らない他人の方が、よっぽど恐ろしい。

 悪意も敵意も、裏もある。

 異形にとっても人間にとっても、人は、同族は、食料になってしまうから。

 人口は激減するだろう。いや、している最中であり、現時点でも半分以下のはず。だからもう、気にするのはやめだ。

 しばらく移動してからようやく、太陽がないことに気付いた。ぼけーっと空を眺める姿は間抜けそのものだったが、そのくらいには衝撃的だったので仕方ない。

 否定材料、まず太陽の消失はありえない。惑星の運行に関しては、魔術の分野としてあまり触れてはいないので確かなことは言えないが、少なくとも太陽がなくなった時点で地球の存在は終わる。気温も下がっておらず、また上がってもいない、つまり自然環境の大きな変化はないのだから、見えないと、そう考えるべきだ。

 隠されている――そう捉えても、理由や意味合いまではわからない。

 ただ、夜の訪れと共に、多少は解決した。

 暗い。

 訓練されているので、意識して切り替えれば夜目も利くが、月光がない世界だと術式で補強したくもなる。

 いや――だが、暗闇と表現するには光源があるような気もする。ともかく月はなく、そして星もなかった。

 だが、月が発する特有の魔力がまだある。以前と比較すると薄い、あるいは遠い、と感じるくらいには弱くなっているが、あることは確かだ。

 昔から月の魔力波動シグナルは魔術師にとって常識だ。これによる影響はほぼ受けないが、人狼の例があるよう、何かしらの仕組みが存在する。実際に夜にだけ完成する魔術式を作った魔術師もいるくらいには、専門にする魔術師がいて、未だにすべてを解明するには至っていないが、それでも。

 月が存在するならば、魔力波動を感じるのなら、太陽もまた存在し、こちらからは見えていない――ということだ。

 結界でも張られているのか。

「よくわからんなあ」

 なんて呟きながら、こっそり近づいて来ていた相手に向かって発砲し、何事もなかったかのよう空を見上げる。

 夜は奇襲に最適だが、ゆえに警戒度も上がっていることに気付かない素人。いや、そもそも素人でなければ、今の自分を襲おうなんてことを考えないだろうけれど。

 銃弾は消耗品だ。使ったらそれっきり、補充はできないと考えた方が良い。

 ありがたいのは、異形に対して銃弾は効果的ではないことか。やはり部位を切断してサイズを小さくした方が殺しやすいし、楽だ。

 夜になっても、熱気が引いていかない。気温は下がったが、どこかで誰かが戦っているし、潜んでいて、誰かを狙い、誰かから狙われている。


 ――終わり、という言葉が身近に感じた。


 戦地にいた経験から、こうした雰囲気には慣れている。それこそ、隣に死神がいるような雰囲気だと仲間内では笑っていたが、笑っていないとやってられない。

 死にたくない、なんて言葉はほとんど聞かなかった。それを耳にする時は、大抵の場合が死ぬ直前のことだからだ。

 弱音は許されない、それが軍人というものだ。

 ただ、どうだろう。いくら軍人であってもこの事態だ、そうそう生き残れないか。


 移動をしながらも、異形を倒す以外にも、今までやっていたような食事も意識してするようにした。主に肉だが、こういう食品も時間経過と共に少なくなっていく。

「――」

 そのために?

 見越したうえで、異形を倒して空腹が満たされるようになっている?

 まるで、生き残りを、生き残る道を残すかのように――。

 いや、結論は出ないし、出さない。だがどうだろう、本当に人間をすべて殺すつもりなのかどうか、ずっと疑問を抱いていた方が良いと感じた。

 日数を重ねるごとに人の気配が少なくなり、逆に野生動物たちが目に入るようになってくる。といっても、主に鳥たちだ。

 異形は、巻き込むかたちはあっても、積極的に野生動物を狙わない。あくまでも人間を――殺す、いや。

 今の自分たちがそうであるように、あるいは、捕食に近いのかもしれない。

 推測に推測を重ね、解決する前に棚上げしておいて、次の問題に移るのが、魔術師のやり方だ。そうやって次から次に考えていくと、棚上げしていた問題に関連することが発見でき、具体性を帯びることがある。

 何事もそうだ。

 解決まで一つの問題を追及することも必要だが、そればかりだと視野狭窄に陥り、悪循環を生むことの方が多い。

 そして、到着した自宅は、崩壊していた。

「あーあ」

 という言葉がもれるが、肩を落とす必要もないくらいな気分だ。元より偽装の結界は張っていたが、効果的にも軽いものでしかなかったし、異形が暴れれば隣の家と一緒に壊されるのは当然のこと。しかもマンションの一室なら、なお更だ。

 魔術関連の代物がどのくらいあったかを考え、書きかけのメモ帳くらいなものかと損失を諦める。メイン拠点は国外で、そちらは高価な魔術品などもあったが、この状況を考えるに、無事かどうかは――まあ、無事ではないと考えた方が精神的にも良いだろう。


 それから数日後、いや数ヶ月後、よくわからないが――。

 海に近づいた時には、さすがに頭が痛くなった。


 一歩、近づくことを本能が拒絶する。

 頭上から、いや、空から落ちてきているのは水、おそらくは海水であり、眼前には巨大な壁があった。水の壁だ――滝、と表現したものか、迷うくらいには大きい。

 それなのに、落下音がない。一切ない。あるのは、数百メートルか、それとも1キロかはわからないが、自分が知っている打ち寄せる波の音色だけである。

 ――怖い。

 どうなっているのか調べようにも、その一歩が踏み込めない。

 隔離? いや、結果そうだとしても、これは。


「――っ」


 いきなりの衝撃に、驚きを抑え込んで反射と意識で身体を制御する。

 前に二歩、短い移動を全速力。その後に跳躍しつつ、躰をひねってようやく背後を確認し、砂浜に着地した。その行動は三秒ほどかかったが、着地した時には左手に拳銃、右手にナイフを既に抜いている。

 そこでようやく、背後から殴られたのだと現実を認識したのならば、反応した自分にはまったく興味がないと言わんばかりの態度で、するりと隣を移動する女性の姿に、もう一度振り向くはめになった。

 彼女の姿は、よく知っている。

「先生……?」

 年齢としては、少し下だが、かつて軍部に間借りしていた組織で、魔術を含めた戦闘を教えてくれた教官だ。

 当時、最年少として扱われていた自分よりも年下の彼女は、就任当日、全員を相手に戦闘訓練をして、息を切らさず、もれなく全員が病院送りにされた。しかも、彼女は術式を扱わず、ただただ体術のみでやってのけたのだから、相当なものだ。

 そして今も、敵うだなんて思えない。

「それで?」

 海にある壁を見上げた彼女からの問いかけに、懐かしさを覚えながら拳銃とナイフをしまう。

 主語のない催促。何を考えていて、どう感じたのか――彼女の意図を読めるかどうかはさておき、まずは返事をすることが重要だ。

「隔離したってのもそうだけど、ボクが感じたのは、まるで海の中に沈んだんじゃないかって」

「……そうね」

 そして、彼女は催促の意図と違っていようが、合っていようが、否定することはなかった。

「入るのはともかく、出るのは、まあ、難しいでしょうね」

「……?」

 それは。

 出ようとした? あるいは、入ってきた?

「ほらこれ」

「ん……」

 疑問を口にする前に放り投げられたそれは、手のひらサイズの時計だった。鎖でもつければ、懐中時計になるだろう。時間を刻んでおり、中央付近には数字が――。

「これは、所長の……」

「そう、あいつからあんたに。魔術的にはともかく、正確性はあるから、あの日から間違いなく刻んでいる数値よ」

「そっか。……もう三ヶ月も経過していたのか、驚いてるよ」

「今さら、時間を数えてもね、得るものもあるけれど。――状況は?」

 小さく肩を竦めた。

「人の死と異形の関係性については、まだわからないことだらけだよ。ともかく殺さないと空腹が満たされないってのは、共通したルールだとは思うけど」

「聞く?」

「そうだね、次に逢えるとも限らないから、ぜひとも」

「まあ、そうでしょうね」

 普段なら自分で考えて、ある程度の結論が出てからにしたいものだが、これは訓練ではなく実戦だ。悠長なことは言っていられない。

「まず――」

 くるりと海に背を向けた彼女と一緒に砂浜を出て、壊れてしまった堤防の一部に腰を下ろす。

「今回、世界が選択したのが新しい胃袋の用意だけれど」

「うん。一般的な食事が必要なくなるような満たされ方をしてるね」

「らしいわね」

「――先生は」

「ああ、私はたまたま国外にいたから、こっちに来るのは遅れたのよ。実感はしていないけれど、数人に話を聞いた限り、解除はそう難しく……あんたらはともかく、難しくないわね」

「世界が決めたルールだろう?」

「そうであったとしても、自分の躰に影響しているものなら、それは己の範疇よ。重い石がある、それを持ち上げられないから躰を鍛える。ほら、当たり前のことじゃない」

 重い石が今回の新しい胃袋か。確かに、壊して石を小さくすることは不可能でも、自分を鍛えて持ち上げることは可能か。

「それに、一時的にルールを適用しただけで、ほら、外から来た私はそうなっていないから、厳密には限定的でしょうね」

「うん……だとしても、何故、それが必要なのか、ボクにはまだわかっていない」

「必要、ね。じゃあ――」

「おっと、長くなるかい? 珈琲を淹れるよ」

「ああ、じゃあお願い」

 頷き、影の中からセットを取り出す。電気がないので自動とはいかないが――そういえば、この格納倉庫ガレージの術式も彼女に教わったものだ。

「まず、世界の状況から。この状況から推測できる通り、日本は列島ごと海の中に沈んだ。外じゃヘリを出したり、探りを入れてはいるけれど、無事にここまで到着した人間は、まあ、二桁はいないでしょうね」

「――その中に、先生は含まれてるんだね?」

「そうよ。で、外じゃ魔物が発生してる」

「魔物? 異形じゃないのかい?」

「動物の進化系や幻想種の類よ。航空機系は飛翔竜ワイバーンに見つかれば破壊されるし、装甲車でさえ大型の魔物に対しては無傷とはいかない」

「武器を揃えるにしても、護衛をつけるにしても、移動そのものが困難になるね。いや、もうなってるのか。……無人機が幅を利かせそうだね。それに少なからず、人的資源も減ることになる。そこに内戦でも発生したら――うん、難しいね」

「対魔物か、対人か、どちらにせよ戦乱の世になりやすいでしょうね」

「あちらはあちらで大変そうだけど、空腹にはならないんだね」

「そうね。隔離されたのはこっちだろうけれど、果たして見捨てられたのはどっちなのかしら」

 それは。

 ――どうなのだろうか。

「理由はともかく、こちらの話をしましょう。結論から言えば、元に戻っただけ」

「じゃあ、世界は最初からこうだったと?」

「それもちょっと違うわね。あんた、東京壊滅のことはどれくらい知ってる?」

「封印指定区域になっていることは知ってるけど、詳細は知らないよ。東京の壊滅なんて、もう五十年以上は昔のことだろう? ボクはまだ生まれてもないよ」

「私もよ」

「いやそんなこと疑ってないし、あえて口に――おっと殴るのは勘弁してくれ」

 昔はよく殴られたが、かなり痛いし、避けるともっと痛いのが不思議だったものだ。

「じゃあ、かつて東京で起きたことが今、日本全土で発生してる?」

「そうよ。東京の時は、まあ、ある人物の協力もあって、本来なら日本全土――今回のようになりそうだったところを、東京だけで済ませたの」

「初耳だ。いずれこうなるって予想はできてたのかい?」

「まさか、違う落としどころを用意したかったわよ。あんたが異形と言ってるやつらはね、昔からそこにいたのよ。ただ、人の形をしていただけ」

「――擬態していた?」

「本人に自覚がないくらい、ね」

「完全に同化していたなら、それはもう人間と同じじゃないか」

「子供が生まれない夫婦の八割は、これが原因だと言われてるわね。語弊を覚悟で言うのならば、種族そのものが違う。そして今回、空腹によって彼らは思い出した――いや、それは一部で、大半は殺されてから、かしら」

「人としての死……待てよ、そもそも人としてのカタチは存在の一部でしかなかったんじゃないかい?」

「どうして」

「異形は切断された部位が消える。逆に銃弾を当てても、空いた小さな穴はすぐ元に戻るかのようだった。そして異形の大半は大きい――だから」

「よろしい。まあ、今出てきてるやつらは雑魚だからってのもあるけれど、黒い影じゃなく、きちんと形を作ったやつらには気を付けなさい。話は通じるけれどね、私でもためらうわよ」

「遭遇したら、諦めた方が良さそうだ。ほら、どうぞ」

 ステンレスのカップに淹れた珈琲を渡せば、一口。

「あら、良い豆を使ってるじゃない」

「こんなご時世だからね」

 戦地ではよく休憩時間には珈琲だった。泥水よりもマシだと飲んでいたが、良い豆なら今はそこらを探せば転がっている。

「元からいた、それはわかったけど、そもそも異形は一体どういう存在なんだ?」

「長くなるから、詳しくは自分で考えてたどり着きなさい。ただ、そうね、いわゆる妖怪の類と思っていいわよ」

「……」

 思い出す。

「そうか、かまいたちだ。切断の現象が見えたから相殺したんだ、最初にね。まるで妖怪のかまいたちだと思ったのが、正解だったわけか」

「直感を素直に信じるべきだったわね。古来より、武術家の敵として彼ら――妖魔は存在していた。人間の天敵として」

「じゃあ武術家ってのは、効率的に殺せる方法を持っていたってことかい?」

「そうね。存在を同じくできる……ま、彼らと同じ領域に至れるってところかしら」

「もしかして、先生が武術家じゃないって否定するのは、そこらが理由なのかな」

「いいえ、同じことは術式で可能だもの」

 ああ、こういう人だった。忘れてた。

 世界の中で、唯一と呼ばれる魔術師の一人。ともすれば頂点と、そう呼んでも差し支えないのが彼女だ。そこらの魔術師が、新しい思いつきで研究を始めた術式など、とっくに結果を出している。

「昔はそれなりに住み分けをしていたみたいだけれどね。それこそ数千年前って話」

「だから、元に戻っただけ、か。なるほど、正常な在り方ね、強引な気もするが」

世界の意志プログラムコードなんてそんなもんよ」

 感情を持たない、ただの決定機関とされる世界の意志。そんなものがあるのを知った時は衝撃だったが、彼女はそれを深く知っているらしい。

「先生は、どうしてこっちに?」

「ん? 暴れるなら、こっちの方が都合良いし、友人もいるから……わかりやすく嫌そうな顔をしない」

「巻き込まないでくれればそれで良いんだけどね」

「あら、巻き込まれるほどの実力があると思っているの?」

 藪蛇だ、冗談じゃないと両手を上げる。

「そういうあんたはどうなの」

「ボクかい?」

「妊娠もしてるようだし」

 言われ、視線を下げても腹部はまだ大きくなっていない。

「そうか、当たりを引いたみたいだね、嬉しい限りだ――けど、そうか」

「で?」

「ん、ああ、相手はまだ生きてるよ。以前、先生から貰った武術の技術結晶をあげて、どうにか馴染んでるらしくてね」

「賭けに出たわねえ……」

「どういう不具合が想定できる?」

「たとえば」

「ボクはまず、肉体と技術の不一致は危惧してる。どう考えても肉体が追いつかない――けど、時間と共にそれは解決すると思う。彼は思考時間を無駄だと思わないからね」

「でも武術家じゃない」

「それはもちろん」

「確かに、技術の獲得から肉体が成長して合わせられる結果は、想定できる。ただ当たり前の状況じゃないの」

「うん……あ、そうか、世界の変異なのか、自身の変化なのか、判断基準がない」

「いつ逢うのかは知らないけど、注意だけはしておきなさい。それと、時間があるうちに新しい胃袋をどうにかすること」

「諒解だ。先生の課題も久しぶりだなあ」

「……たぶん、あんたの子供はその新しい胃袋を持たないでしょうけれど」

「――あくまでも、今いる人間に対してのもので、恒常的なものじゃないと?」

「おそらくね。ただ、いつでもその気になれば、同じことを起こせる。前回は東京で抑えられてしまった反省とはいえ、通用したからって二度も使うことはないでしょう。全滅させたいわけじゃなさそうだし……人間なんて、数十人も残ればすぐ増えるって感覚だけは、どうにかして欲しいわね」

 ご馳走様と、カップを置いて彼女は立ち上がる。

「知り合いに声をかけて、あんたに手を貸すよう伝えるわ。出産もそうだけど、それ以降もね」

「それは、素直に受け取っていいやつかい?」

「さあ……」

 そこは曖昧にしないで欲しい。

「じゃあ元気で。――ああ、最後にもう一つだけ」

「うん?」

「体感時間にズレがあるでしょうけれど、修正すると地獄を見るわよ」

「気を付けるよ」

 そうなさいと、振り返りもせず言って、空間転移ステップの術式で姿を消した。

 出逢ったことは、僥倖ぎょうこうだったのだろう。いろいろと不穏なことはあったが、情報を考えれば充実していた。

 良いことなのだが、手早く珈琲セットを片付けて立ち上がる。一人になってよくわかるが、やはり、この海を前にして平然としてはいられない。

 さて。

 しばらくはまだ、周囲を見て回ろう。今の情報を踏まえて、そう。

 可能ならば、ここから出る可能性を追って。

 誰かが、出たいと願った時に手伝えるように。

 ――ただ、何をどう調べても、安心できる要素は、ほとんどなさそうだ。


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イギョウ 雨天紅雨 @utenkoh_601

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