第2話 私の生きる理由
就職先に選んだのは、主に農作物の品種改良を行う職場だった。
新品種を作ることを目的とした培養が基本的な仕事であり、そのほとんどを精密機械に任せてはいるものの、逆を言えば機会に任せる部分があるのならば、人間の手が必ず必要な部分も存在する。そのため、実際に現場を視察することはあっても、生産は別の部署で行われており、仕事内容は大きく違う。
農作物とはいえ種類があり、食品はもちろん花も手がけていた。品種改良だけではなく、単一品種を増やす仕事もあるのだが、いずれにしても時間がかかる。一年や二年を短いと感じるくらい長い作業だったので、部署移動もほとんどない――ここが就職の決め手だ。
そこに大学の先輩がいたのは、本当に偶然だった。
二つ上だったので、卒業以降の接点といえば、たまに食事に誘われて会話をするくらいで、世間話や同じサークルで活動していた魔術の話ばかり。あちらは勉学の話を振らず、こちらは仕事の話を振らない――取り決めをしていたわけではないが、自然とそういう暗黙の諒解があったように思う。
職場が同じになってからも、お互いに仕事の話はあまりしなかった。その上で、プライベイトも知らないような、微妙な関係性である。
だから同僚の質問に対しても、上手く答えられなかった。
「お前、副所長と付き合ってんのか?」
同じ部署は五人態勢。癖の強い所長、それから先輩の副所長に加えて、社員が三人であり、もちろん彼も仕事の先輩ではあったけれど、更衣室では顔を合わせる相手が同性の彼一人だったので、食事以外でも世間話をすることがあった。
「副所長、好みですか」
「冗談はよせよ」
彼は本当に嫌そうな顔をして手を振って否定し、すぐに慌てて周囲を見るが、更衣室なのでほかに人はいない。
そして、声のトーンを少しだけ落として。
「……見た目は可愛いだろ、間違いない、そう、おう、俺はそう思うぜ」
「つまり性格的にはありえない、と」
「お前なあ」
「いや、副所長の性格がちょっとアレなのは知ってますよ」
「ちょっとか……? 良い上司だとは思うけど、興味がねえことは、本気で聞いてないだろ、あれ。反論もキッツイ時が多いし、ありゃ正論ぶつけられてるんだろうな」
「そうですね、質問に答えると――付き合っては、いませんね」
「仲良いだろ」
「悪くはないです。食事も、泊まりがけの旅行もたまに行きますね。でも付き合っている、恋愛感情があるか、と問われると難しいです。私も副所長とは違う意味で、ちょっとアレなので」
「あー……お前、あんまり感情が出ないもんな」
最近はちゃんと表情を作るし、感情も見えるようにしているが、本質的には、感情が共有できない。相手の感情がよくわかっていないからだ。それでも上手くやれているのは、もう子供ではないからで、周囲に合わせるくらいのことはする。
だから仕事場では、お互いに関係が悪くなることもなく、問題はなかったように思う。
――その日も、いつも通りの平日だった。
出勤して着替え、それぞれの様子をチェックしつつ、新規の依頼への対応。一日の進捗データの整理、そんないつもの内容を行っていた。そういえば腹が減ったなと時計を見た時に、まだ一時間も昼には早い時間だったのは、予兆だったのか。
ようやく昼になり、休憩室で食事となる。仕事が多い時は時間をズラすこともあるが、今日は三人で昼食をとった。待ち望んだ食事だったため、食べ終えても少し足りないなと感じたのを覚えている。
そこに少し遅れて、副所長が顔を見せたのだが。
「やあ諸君、所長からの伝言だ。今日はこのまま帰宅して構わないよ」
「――急っすね」
「まあね、ボクもそう思うけど、詳しい理由は聞いてないよ。ただ、とっとと帰れとのお達しだ。ただし、裏口から出るようにね」
そう言われてしまえば従うほかなく、それぞれ着替えて軽い挨拶をしてから、首を傾げながら帰路につく。
途中、弁当を一つ購入した。
一人暮らしであるため、狭いアパートに到着するが、妙な気分だ。まだ陽が高い。
所長は嫌味は言わないが、効率的に仕事を回すことには厳しく、指示も多いので苦手意識は強いけれど、残業を許さない。むしろ定時に仕事が終わらないと怒るくらい、妙な人だ。そのぶん仕事を徹底しろと言うのだから、ブラックなのかホワイトなのかよくわからない。
なんというか、時間を持て余した。
こういう時、趣味の一つでもあれば良いのだろうが、特に何もなかったので、昼寝をすることにする。ソファにごろんと横になり、頭の後ろで手を組めば、自然と目が閉じられ、意識は眠りへと誘われる――。
目が覚めた時には、すっかり陽が暮れていた。
腹が減ったなと、何も考えずに買っておいた弁当に手を伸ばし、ぴたりと手を止める。
おかしい。
何かが、おかしい。
違和を探るため、意識して空腹という欲求を抑え込み過去を探る。
だが引っかかりは空腹という単語。ゆえに思い出したのは昼食――そうだ。
いつもならあったはずの会話がなかった。全員が目の前の食事に集中しており、それは自分も例外ではなかったはず。
この空腹は、自分だけではなく誰もが感じている?
可能性に思い至っただけで、行動するには充分だ。すぐに財布と鍵を手に取り、一刻も早く移動するため、ガレージにある
自分だけが空腹を感じている、あるいは普段とは違う異常性がある――これは、よくあることだ。他人と違うことは日常であるし、それこそ体調を崩すこともあるだろう。
しかし、考えてみて欲しい。同じ職場の人間、全員が体調を崩しているように見えたのなら、外的要因を疑うだろう。たとえば、誰かが流行性の病気にかかり、それを持ち込んだ可能性だってある。
そう、外的要因なのだ。
わかりやすく表現したのなら、――ルールが変わった、と言えば良い。
原因が何であれ、体調を崩していたのなら、そういうルールで動くことになる。疲れやすい、頭が痛む、ミスが多い。この場合はどちらにせよ、とにかく休んで治せ、という正解があり、それが共有されることだろう。
だから、ありえない。
いくら同じ職場で生活しているからといっても、個体差があり、性別差もあり、仕事以外の時間帯はまるで違う行動をしているはずの人物全員が、同じ症状、同じ空腹を感じていただなんて、それこそ常識が改変されるくらい、とても大きなルール変更だ。笑い話にもならない、創作か空想の類。
万が一、そうだった時のことを考えて単車を走らせる。
思えば、急に昼で仕事が終わりになったのも、おかしいではないか。
これが勘違いで、それこそ激しい空想の類だったら笑い話――そう、笑って済むのならば、それに越したことはない。
いろいろと考えていたこともあり、さらには平日のこの時間帯に公共交通機関以外で移動したことがほぼなかったため、車通りが少ないことに気付かなかった。
到着してすぐ、駐車場に停めてヘルメットを脱ぎ、ようやく。
騒がしさを感じた。
どこかで祭りでもあったのだろうか、そう思うくらいには空気がざわめいている。それなのに、目の前の職場からは一切の音がしない、そういう静けさがあった。
ごくりと、唾液を飲み込んだ音が聞こえるほど、妙な気配だ。
裏口に当たる職員専用の出入口から中に入り、ある意味で嗅ぎなれた、普段なら決してない匂いに気付く。
――血の匂い。
大学の解剖実験や、あとは実家にいた頃に嗅いだことのある匂いだが、中に入ってすぐ気付いたのなら、かなりの出血量だ。何かがあったのだと警戒するのは当然のこと。
それに、外から見てもわかったが、電気がついているのがおかしい。
仕事は終わったはずなのに。
深呼吸をするほどではないが、あえて意識して呼吸を深くする。血の匂いは嫌だったが、それを理由に呼吸を浅くすると、視野も狭くなるのを経験として知っていたから。
ゆっくり非常階段を昇り、二階へ。ちらりと通路を見るが人影はなく、いつもの仕事場への扉を開くのにも可能な限り注意して。
そして。
「やあ、きみか――」
入ってすぐ、右手に見える控室、開きっぱなしの扉から、聞きなれた声がした。
「こっちにおいて、話をしようじゃないか」
「先輩……?」
ぐっと足に力を入れ、すぐに近づこうとする躰を制御し、入ってきた時と同様にゆっくりと扉に近づけば、テーブルに腰を下ろした彼女がそこにいた。
「おっと、会話の前にやることもあるんだっけ」
ひょいと飛び降りた彼女は、隣の部屋へ。ちょいちょいと手を招かれたので、そちらに行き。
――絶句した。
人は、あまりにも現実離れしたものを、受け入れようとした時、理解する許容量を越えてしまうのだと初めて知る。
眩暈、そして全身から血の気が引くような感覚と共に、膝から崩れ落ちる。それを我慢しようと左手を壁に当てようとするが、その動きで逆に安定を失って倒れてしまった。
「呼吸だよ」
言われるまでもない。先ほど同じよう、自分の呼吸に意識を向け、けれど目が閉じれなかった。
仕事部屋は見る影もなく、倒れ、壊され、足の踏み場も見当たらないほどだったが、そんなことよりも、ほぼ中央に鎮座する化け物から、視線を逸らせない。
あえて表現しようとするのなら、ムカデを半分ほどに切って人間二人ぶんほどの大きさに拡大し、足を規則性なく短く、あるいは長くして、いわゆる頭部と呼ばれる部分を失くしたような姿の、黒色の何か。
「……なんだ、これは」
「うん、その前に、きみにはこれを殺してもらわなくちゃならない」
「――どうして」
「腹が減っているだろう?」
「……」
やはり、そうなのか。
「ルールが変わったんだな? 先輩は以前、言っていたはずだ。世界のルールは、人の手によって変えられない」
「そうだね。だから、――変えたのは世界そのものさ。それも後回しだよ」
「だが」
「まあいいか」
結果は同じだと言われた直後、躰の動きがぴたりと停止した。何かを言おうと口を開こうとしても、言葉が出ない。
彼女はどこからかナイフを取り出し、それを勝手に手が握れば、躰が動いた。
近づき、嫌悪感がありながらも、それを拒絶できず、まずは一振り。長い足を何本か切断する――なんて切れ味の良いナイフだ。
拒絶できない。強引に振りほどこう、そう思えるほどではなく、おそらく意識したところで自由は得られなかったのだと、あとになって知る。
「ボクが知る限り、細かく切断してしまえば殺せるよ。人間の心臓のような核があるかどうかは、まだわからない」
胴体を縦に斬り、それから横に斬ってしまえば、あとは砂の――いや、霧になって消えた。
拘束していた、電源コードなどを繋ぎ合わせて作った紐がぼたぼたと床に落ちて、ようやく己の躰の主導権を取り戻す。
「――っ」
ナイフを傾いたテーブルに置くが、それは彼女がすぐ回収した。
ああ。
気持ちが悪い。
腹が満たされて気分が良いのが、逆にこれほどまでに気持ち悪いだなんて。
「どういうことだ、先輩」
「落ち着いて会話ができそうだ。とはいえ、誤魔化すわけじゃなく、ボクも全ては知らないよ。だから知っていることを話そう。ルールが変わったのは事実だ。きみがここへ来たのは、ボクにとって予想外で、もしかしたらと期待していたことでもある」
それはそうだ。呼び出されたわけでもなく、予定していたわけでもない。運が良かった、そう言いたくなるくらい、行動が早かっただけだ。
「空腹、いや、たぶんこれは飢えなんだろうね。本来なら食事によって得られるものではなく――人を殺すことによって、これは満たされる」
「……なんだって?」
「飢餓、つまり極限状況に追い込まれれば、きっと美味しそうに見えるだろうね。人によって個人差はあれど、ほんの数日で人の数は半分になる」
それが事実ならば、そうだ。殺して満たされた人は、逃げるか、次を満たすかを考える。他人が避難しようとも、警察機構は機能不全に陥るだろうし、そもそも頼れる相手がいない。
そう、誰も信用できなくなる。
どれほど信頼した間柄だろうと、飢餓の前にできることは、目の前の何かを食べることか、――自ら命を落とすか、どちらかだ。
「なら今の化け物はなんだ」
「ボクは異形と呼ぶことにしたよ。何しろ、人の屍体が変わったものだからね。生態についてはまだよくわかってないよ。ただ、間違いなく人だったものだ」
「だから、……空腹が満たされた」
「そうだね。でもちょっと、人の手には余るよ。ボクは運良く、捕獲できたし、もう二体くらい殺したけど、常識は通用しないし何より単純に強い」
「襲ってくるのか?」
「うん。きっと異形も腹が減るんだろうね」
「――世界は、人を淘汰するつもりか」
「いいね、きみはよく考えてる。そしてボクも同じ結論さ。どうしたって、一気に人はいなくなる」
食料が限られたサバイバル。しかも、食料は勝手に腐っていくため、溜め込むことができない――そんな状況だ。
大きく、ため息を落とす。
「冗談だと、笑い飛ばしたい気分だ」
「うん、理解するのは大変だし、受け入れるのも難しい。でも、即応しなけりゃ人は死ぬ」
「わかっている……」
「なんて、このあたりは予想も混じるからね。わかっていることは少ない。――ということで、ちょっとボクと子供を作ろうぜ」
「ああ……、……ん? 今なんて言った?」
「えっちなことをしようぜ」
「……どうして」
「状況に対しては丁度良い現実逃避だろう? 想い出くらい作ってもいいじゃないか。実際に作るのは子供だけど。なあに、当たろうが外れようが文句は言わないさ」
「頭は大丈夫か? いや、以前から先輩はそうだったな……」
「残念そうな顔をするんじゃない。よし、いいだろう、そこまで言うならきみの躰を拘束して、ぼくがその気にさせてやろうじゃないか」
「おい――チッ、本当に動きを封じやがる」
「そういうプレイも面白そうだ。なあに心配はいらない、一時間くらいは大丈夫さ」
一時間。
おおよそ、そのくらいの時間があったのは覚えている。
――ただ、そこから一体、どれほどの時間が経過したのかを知らない。
気付いた時には一人、自分が横になっていた事実と、とても空腹であること、この二つしか認識できなかった。
飢餓。
知識としてはあっても、経験したことのある人間はほとんどいない。思考力をそぎ落とされ、自分が何をしているのかもわからず、ただただ腹を満たすことしか考えない。
いや。
考えることすら、しない。
どうして寝ていたのか。起きてすぐ、近くにあった日本刀を手にしたのは何故か、そんなことは意識すらせず、そこが地下であることに疑問も抱かずに階段を上り、外へ。
目的のモノは、近くに。
「いたあ……」
その顔は、きっと他人には見せられないような、酷い笑顔だっただろう。
ひょろりと細長い黒色の異形。まるで子供のらくがきのようでもあるが、全体的に丸みを帯びていて、両手も両足もやけに長い。左手に刀を持ち、右手を柄に添えながら走り出し、近づけば近づくほど、その大きさがわかる。
6メートルはあっただろうか。
縦に一撃、それから左右一振りずつ。
移動速度を落とさず攻撃して六分割、停止して納刀するまでに二秒、それだけで異形は消滅した。
腹が満たされることよりも、激痛が自意識を戻す。
「――」
口から血を吐き出し、全身が張り裂けそうな痛みが急に発生したため、バランスを崩して瓦礫から滑り落ち、そのままの姿勢で動けなくなった。
痛い。
――痛い、痛い。
内臓、筋肉、全てが骨に振り回された。直感的に理解したのは、人間の骨格を最大限利用した攻撃であり移動であり、それを技術と呼ぶのだろう。
こんなものは知らない。
だが、起きてしまった現実を考えるに、少なくとも技術に対して躰がついていっていないのは事実。
初めて、自分は死ぬのだと実感したのが、この時である。
しばらく身動きができなかったが、痛みを堪え、躰を引きずるようにして元の場所まで歩く。周囲に視線を走らせながら、人気がないのを確認していたが、実際にいたかどうかはわからない。
200メートルが、絶望的なほど長かった。
瓦礫の山に隠れて、地下への入り口がぽっかりと空いている。息を荒げながら、額の汗を拭いながら見ると、砂埃の上に足跡があり、それは間違いなく自分のものだ。足のサイズは覚えていないが、真新しい。
一瞬、中に戻れば安心なのかと疑問を抱いたが、消去法でそれ以外にないと、躰を壁に押し付けるよう、ゆっくりと中へ。
地下は記憶の通り、倉庫になっている。消耗品や交換用器具が段ボールで詰まれており、古くなった装置が二つほど隅に置いてあり、その隣に簡易的なパイプベッドが作ってある。毛布が床に落ちているのを見て、そこに寝ていただろうことがわかった。
深呼吸をすると肺が痛む。
まず――。
記憶を遡れば、最後に交わしたのは彼女と、お互いに生きてまた逢おうなんて、それこそ冗談みたいな言葉だ。それ以降はなく、起きた今に繋がっている。
左手に持った刀を引き抜こうと右手を向けた時、長袖から覗く手首が内出血によって色を変えていたのに驚いた。それだけ無理な行動をした証拠だろうが、どうにか解決しなくてはならない。
刀を握る手に違和はなく、半分ほど引き抜いた刀身は波紋が綺麗に出ていて、実家で見た時と同じよう、本物であることがわかった。
たまたま、ではない。
これが使えることを見越して、誰か、つまり彼女が置いていったのだろう。だとしたら、このおかしな状況は、彼女の意思が介入していることになる。
こうしているだけで、刀を扱えるのがわかる。わかってしまう。何をどうすれば良いのか、あらゆる状況下でどう躰を動かして戦闘をするのか――知識と、そう、経験さえも己の中に刻まれていた。
肉体がついて行けていない。
現状はこんなところか。先ほどの討伐で腹は満たされているし、全身が痛いこと以外はどうにかなる。このまま休みたいところだが、その選択は果たして正解なのだろうか。
まずは呼吸が落ち着き、次に心拍数が平常へ戻る。痛みが引くのに時間はかかるが、先に慣れがやってきた。
軋む躰を動かし、ゆっくりと階段を上り、周囲に人間の気配がないことを確認してから、外を見て。
どうして気配なんてわかるのかと疑問に抱くことを忘れ、息を飲む。
随分と見晴らしが良くなっていた。
遠くには廃墟となってはいるものの、まだ崩れていない建造物がちらほら見えるが、大半の建物は壊され、瓦礫となり、山まで見通すことができる。
一体、どれほどの時間が経過したのだろう。五年や十年と言われても、おそらく信じたはずだ。体感は昨日のようだし、空腹の感覚からしても、点滴もないこの状況ならば、せいぜい二日か、三日くらいなものでしかない。
いろいろ考えた結果、移動することにした。
まず、刀が一振りでは心もとない。手入れの道具もないし、壊れてしまったら終わりだ。できれば予備が欲しいのだけれど、販売店がどこにあるかもわからないので、まずは実家に向かうことにする。
あるかどうかはわからないが、期待はしないでおく。建物が残っているとも思えないから。
思い出しても、たぶんこれが、人生で一番長く感じた道のりだ。
瓦礫ばかりで道路がなく、看板もなければ方向もわからない。
空を見上げても太陽が存在しないのには、さすがに驚いた。夜も来るが、星や月の姿はない。
本当に、世界が変わってしまったのだと痛感する。
異形も何度か討伐したが、それ以上に生き残った人間の方がよっぽど狡猾だった。
助けてくれと言われて助ければ、背中を刺されそうになり、片腕を斬り落として逃げたり、領域を作って罠を張り、そこに踏み込んできた獲物を狩る人間に捕まったり。
それもまた、移動を困難にした理由の一つだ。
長い時間をかけて、実家だった場所へ到着した時は、普段よりも感情がわかなかったのを覚えている。
もう、一日を数えるのはやめた。十五日を過ぎたあたりで忘れてしまったからだ。二ヶ月はかかっただろうと思うが、定かではない。
ちらほらと見覚えがあるものもあるが、ほぼ瓦礫だ。かつてのよう、出迎えてくれる人たちはおらず、呼ぶなと言っているのに若と呼んで笑ってくれた人たちも、いない。
ここに来るまでに衣類は調達できたが、さて、刀はあるだろうかと捜索を始める。周囲への警戒も慣れたもので、それほど気を張らないで良いのも経験した。
さて。
瓦礫をひっくり返して探すのは面倒だが、見えている部分に落ちているようなことはないだろう。生活用品の類は壊れているものが多く、しばらく探し回り、見つけたのは脇差が一振りだけ。しかも鞘は割れてしまっていた。
修理が必要になるので、そのための道具を何かしら探すべきだ。脇差も屋内戦闘なら優先的に扱える。
いろいろ考え、たまにはぼんやりとして、二日ほど過ごした。
――旅を続けよう。
ここまでの道のりは長かったし、良いことはあまりなかったけれど、それでも、得るものは多くあった。鞘の修理もそうだが――何より。
やはり、同じ場所に留まるのは、気分が落ち込んで嫌なことしかなさそうだ。
いや。
ただ、本当に単純なことで、内心を吐露したのならば、足を止めた瞬間、そこから動けなくなりそうだっただけだ。
敵対しなかった人間もいた。
脇差の修理が終わり、改めて予備の刀を探している最中だったので、実家に到着してから、それほど時間が経過していなかっただろう。果たしてそれが一ヶ月なのか、半年なのかはもうわからない。
気付いたのは、動物の気配。人間とは違っていたし、群れのようにも感じたので、少し調べてみようと思った。周辺を見れば、まだ倒壊していない――いや、元はそれなりに高いビルだったのだろうけれど、二階まではどうにか残っているような建造物がある。
中に入り、まずは二階へ向かった。
気配は地下からだが、迷わずそちらに向かえるほどの度胸はない。薄汚れた階段だが、中央部分だけ道ができているのを見るに、どうやら人の出入りがある――か、あったのか、いずれにしても誰かがいたようだ。
いくつかある部屋、という名の空間に、手書きのメモを発見した。テーブルの上に積まれていたそれを一つ手に取れば、報告書ではないにせよ、いろいろとわかったことが記してある。
かなり興味深い内容だったため、テーブルの強度を確認してから、その上に軽く尻を乗せ、紙に目を通した。突発的な状況だったのにも関わらず、それを冷静になってから、改めて振り返り、そこからの試行錯誤が読み取れる。
どうやら、地下では動物を繁殖させているらしい。それに気付けば、動物の排泄物の匂いがするような気もした。
文明に触れたと言えばおおげさだが、久しぶりに人間らしいものに触れたような気がして、つい没頭してしまったためか。
――声をかけられるまで、気付かなかった。
「だ、誰だ」
一瞬で不覚に気づき、次にはもう、どう返答をしようか悩んでいて。
「できれば姿は見せないでくれ。私はお前を殺したくはない」
まずは忠告をしたが、しばらく返事がなかった。
気配は間違いなくある。最初の頃はこの感覚に戸惑っていたのが懐かしく思えたくらいに、余裕はあるようだ。
しかしこの気配は、人というよりはむしろ――。
「よく調べてあるな。世界のルールが変わって、人間に新しい器官が発生した……というのが、私なりの見解だったが、生き残るのに必死でそれ以上は調査していない」
「……お、おもしろい見解だ。世界のルールとは、つ、つまり法則か?」
「そうだ。その中でも特に、想像や仮定でしか語れない部分の、という前提はつくが」
「な、なるほど、それは難しいがおもしろい」
「お前は家畜を殺しているのか?」
「ひ、人を殺すよりも満たされないが、それでも生き残ることはできる」
「それは朗報だな」
軽い相槌だが、しばらく返事がなかった。
「……どうした」
廊下、見えない位置にある気配が、床に座ったような動きがある。
「あ、あんたは、水を飲んでいるか?」
「もちろんだ」
「煙草は?」
「吸わない」
「そうか。だ、だったら、吸った方が良い」
「健康に気を遣うってわけじゃないが、何故だ」
「お、おれはもう、いつから食事をとっていないのか、覚えていない――」
思わず。
手にしていた紙から顔を上げた。
「食事をとらない?」
「ほ、本来での意味の空腹はもう、ないんだ。喉も乾かない。目がよく見えないのに、何があるのか、わ、わかったりもする。こ、怖くて鏡が見れない……お、おれは、人間なのか?」
「――」
そうだ。
彼の気配はもう、異形としか感じない。
「煙草を吸えば解決するって問題でもないだろう」
「だ、だが、人として当たり前のことを、わ、忘れないでいられる。か、確証はないし、おれがこうなったのは、か、家畜を殺し続けていたかもしれない。人をこ、殺した時に決まったのかもしれない。い、今のおれにはもう、それを探るだけの時間が、の、残されてはいないはずだ」
「人として当たり前、か……私には、この状況下で世界は、ルールは、人間を生かしておくつもりはないと思えるが」
「それでも、お、おれは最後まで人でありたい。さ、最初に人を殺して空腹を満たした時、そう強く思った」
「……そうだな。人かどうかを見定めてくれる相手は、もう、いないか」
「や、やはりもう、ひ、人はいないか?」
「生き残りはほとんどいないな。敵対を含めて、会話をしたのも久しぶりだ」
「そ、そうなるだろうと、予想はしてたが、そうか。だ、だが、人の数と比較して、あのば、化け物たちの数が少なくはないか?」
「――見たのか」
「見た。し、屍体が消えて、霧のようなものが集まり、そ、そこに化け物が出てきた。まるで、な、成り代わったように」
ああ、それも以前に話したことがある。
「昔、そういう話をしたことがある。たとえば、人間ってやつが世界に管理されていたなら、生死のサイクルがどんなものかを考えた時、私たちが出した一つの結論は、食洗器だった」
「さ、皿の上に料理を乗せて、た、食べ終えたら綺麗に洗って、違う料理をまた乗せるサイクルを、ひ、人の誕生と死に見立てたのか」
「皿自体が変化したのか、洗って乗せたのか……いや、おそらく前者だろうな」
「洗えなくなったのかもしれない」
「確かに人よりは少ないが、だったらストックされていると考えた方が良さそうだ。種類は多い、敵対意志にも個性があるが、無害はない」
「個性……成り方の、ち、違いかもしれないな」
「死に方の差か?」
「い、いや、たとえば人を殺した数」
「死ぬまでに何をしたか……なるほどな」
人を殺したのか、殺していないのか。家畜を代わりにしたのか、そうでないのか。
どちらにせよ、検証するには数が足りない。
「……」
ゆっくりと、通路の隅で気配が動いた。
「お、俺はもう、地下に行く。た、楽しい時間だった、ありがとう。だが追っては来ないでくれ、た、頼む」
「安心しろ、何もしない。するなら、もっと早くにやってるよ。私も久しぶりに人と話せた」
「そ、そこにある資料は、す、好きにしてくれ。あ、あんたが生きる足しになれば、そ、それでいい」
「私だって、いつまで生きていけるかはわからない――が、受け取っておこう」
それ以降、返事はなかった。ずるずると足を引きずるような気配と共に、地下の動物たちと混ざってからは、追跡をやめ、しばらく資料を眺めてから、その場を去った。
そこからだ。
少しは検証をしよう、そういう目線を持って生きようと考え始めたのは。
各地を巡るにしても、違う視点を持てばそれが目的になる。
この頃から、肩掛け鞄の中に煙草などを入れ、予備の刀を結んで持ち運ぶようになった。水や食料、煙草もそうだが、必要ないと思っても口にするようにしたのは、彼の影響だろう。
自分は人である、なんて
彼女と出逢ったのは、本心を言えば自分以外の誰かを探していたからだ。
あまり感情を表に出さないが、何も感じないわけではなく――いや、それを感情と言って良いのかどうかはわからないが、混乱していたのは確かで、何かを、誰かを。
ああ、そうだ。
自分がまだ一人ではない、なんてことを、ただ確認したくなっただけ。
もう、人間なんて、生き残りなんて、いるとは思えなかったのに、それでも。
ただ、そう思っていたのにも関わらず、それほど移動せずに気配を掴めたのは、幸運と呼ぶべきか、悪運なのか――結果的には、後者だった。
教会がある。
日本にはあまり数がない教会だが、今のところ旅の道のりを回想してみると、教会はどういうわけか残っていることが多い。もちろん目につく建造物というのもあるし、半壊してはいるものの崩れ切っていない、くらいなものだが。
教会に足を踏み入れようとする時に、我に返った。つまり、自分がどういう理由で誰かを探していたのか、きちんと理解した上で、弱さを改めて自覚して。
どうしたものかと迷ったが、中に足を踏み入れることにした。
壊れそうな屋内には慣れており、意識せずとも強度をなんとなく把握しながら広間を抜ければ、椅子だったであろう破片が散らばった礼拝堂があった。いわば大広間――多少の瓦礫は落ちているが、屋内としては広い。
彼女は、膝をついて両手を組み、祈っていた。
直感的に理解する、――失敗した。
振り向かず、手荷物を入り口の傍に放り投げ、ため息を落としながらも刀に手をかけて、中に入る。今さら悔やんでも、もう遅い。
ただ。
「――お客様でしょうか」
彼女から、声が放たれたのには、驚いた。
「わたしを殺すために? それとも、わたしの躰が目当てでしょうか。食欲が満たされた次は、性欲ですから」
「そういう野郎がいるのも事実だが、どっちでもねえよ。さっきちょうど、私たちが世界から切り離された事実を知って、落ち込んでいた」
「そうでしたか」
「頷くなよ、笑うところだ。お前は何をしている?」
「祈っておりました」
「何に、なにを?」
「さあ……祈ることに、理由はいりません。言葉もいりません。何故なら祈るとは行為で、内容ではないのですから」
「聖職者、か。お前、人を喰ったか?」
「いいえ、誓って、ありません。こうして生き残っているのは、ただ運が良かっただけなのでしょう」
運が良かった。
祈りが通じた、とは言わないあたりが本物だ。何が偽物なのかは知らないが。
「腹は減らないのか」
「最初は空腹を感じていましたが、いつしかそれもなくなりました。それ以来、いえ、その時からずっと、わたしは祈り続けています」
「なるほどな。……最後の質問だ」
問いかける。
「何人殺した?」
「――さあ、覚えておりません」
彼女は嘘を口にしない。
「ただいつからか、わたしは知ることができたのです」
組んでいた手を離し、彼女はゆっくりと立ち上がり、こちらを見た。
「わたしは」
黒い影が人のかたちになっただけの、人の姿をしただけの、――異形が。
「
次の瞬間、何かをするより早く、衝撃を受けて外まで吹き飛ばされた。
屋内での戦闘で教会を壊されることを避けたのだろう、彼女はゆっくりと外へ出てくる。
「あら……今まではこの一撃で殺せていたのですが」
「大半の人間はそうだろうな」
言いながら、砂埃を振り払うよう前へ出て、飛ばされている最中に拾った自分の荷物を、足元に改めて置いた。
それと、脇差も腰から外して、その上に。
予想できていたし、攻撃の際に後方へ跳ぶことで威力を殺し、荷物を持ち出す余裕もあった――が、油断できる威力ではなかった。
「安心しろ、まともに喰らえば私も死ぬ」
全身に力を入れてから、一気に抜く。その状態が、いわゆる自然体だ。
余計な力は必要ない、それがこの戦闘技術である。
いくら後天的に身に付いたものとはいえ、自分の内側にあるものならば、把握し解析することも可能だという持論のもと、ずっと考え続けてきた。
一撃。
直線的な攻撃を回避しつつ、軽く距離を取るが、その一撃で周囲の瓦礫を吹き飛ばし、粉塵を舞い上げるほど強烈な衝撃をまき散らす。瞬間的に姿を見失うので、気配を察知して居場所を特定しておくのを忘れない。
そもそも――。
この刀を使った戦闘技術の本質は、先手を取ることだ。
先の先、あるいは
相手が動いてからでは遅い。予備動作、あるいは関節、たとえば肩の動きを見た瞬間には、こちらの攻撃が終わっているような、最速の一撃。もっと究極的なことを言えば、相手が攻撃しようと思った瞬間に終わらせる速度。
肉体的な負担がない範囲では、予備動作が見えた時に攻撃をしている、くらいは動けるのが現状であり、無理をしたところで、攻撃が終わっているくらいの速度しか出ない。
相手の起こりを見て、待ち構え、反撃を合わせたのにも関わらず、表面を斬るくらいの状態で彼女は直撃を避けた。
まずい。
致命傷にならないことがわかったら、次は相打ち狙い。さすがに直線的な動きが目立つとはいえ、そのくらいの頭は回るだろう。
失敗続きだ。
最初から教会に立ち入るべきではなかったし、やるなら全力で挑むべきだった。
「ふふ、うふふふ……」
「楽しそうで何よりだ」
まったく――やるしかないか。
おそらく、一撃で胴体を斬ったところで、相打ちにはならないだろう。彼女は平気なまま、こちらが死ぬ。
人型とはいえ、黒色の不安定なその形は、異形そのもの。つまりやり方は同じで、細切れにしてやるしかない。
一息。
骨が軋む、筋肉の繊維が千切れる聞こえなれた音と共に、お互いに交差する。
せり上がってきた血液を、そのまま吐き出しながら膝をつき、呼吸に濁りが見えたので、喉に残った血を改めて吐き捨てる。
「あー……楽しかったです」
彼女の最期は、そんな無邪気な言葉であった。
霧のようになって消えるのは同じだが、首を斬って躰を十字に斬るのを、一秒以下でやるのは、さすがに躰が耐えられなかったし、太もも付近に一撃貰ったのはいただけない。さすがに吹き飛んではいないが、骨は折れた可能性がある。
この戦闘技術には、明確な目的がある。
居合いを主体として速度を追求し、一撃目から続く
今は三度の攻撃を続けただけであり、とてもではないが技としても完成してはいない。
知識に対して、経験と肉体がまったく追いついていないのだ。こんなことばかり続けているものだから、いつか壊れるのではと心配にもなる。
雨が降ってきた。
舌打ちを一つ。戦闘の余韻はどこかへ消えてしまったのか、煙草が濡れるじゃないかとぼやきながら荷物を手に取り、先ほどの教会へ戻る。
先ほどまであった、彼女が放つ肌を刺すような殺意も、今はもうない。
痛みの中、煙草を取り出して火を点ける。建物内部の捜索も、刀の手入れも後回しだ。
いつだって、戦闘は綱渡り。あっさり終わったように見えても、駆け引きも含めて、あっさり終わらせなくてはならなかった、というのが現実。
戦闘が終われば、いつも考える。
こんなことまでして、生き続ける必要があるのだろうか、と。
死にたいと強く思うことはないが、この世界の中で生き抜くことの大変さと、自分自身の変質に、いつまで耐えきれるのかという不安がある。
いつからか、異形を倒しても空腹が満たされる感覚がしなくなった。
旅をしていると、それなりに遭遇することがあって、今回のよう戦闘に発展する。彼女のような強さはあまり感じなかったし、不意打ちや常に有利を崩さずに戦っているので、躰の負担を度外視したのならば、それなりに戦えるようになってきた。
おそらく彼女が言っていた通り、――天敵。異形は人間に対する敵意を抑えきれない。だから否応なく戦闘に発展するのだが。
倒し過ぎたのか、それとも自分が少しずつ狂ってきているのか。
いつしか、昼でも夜でも見える光景が変わらなくなってきた。普通の食事も意識しているが、空腹はもちろん、味もよくわからなくなっている。
こんなになってまで――。
考える。
戦闘が終わって、休む時はいつだって、どうしてと。
だが、理由なんて小さくていい。
私は。
私は少なくとも。
――先輩に逢うまでは、死ねない。
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