イギョウ
雨天紅雨
第1話 変わってしまった世界の中で
人が、人を殺す。
親が子を、子が親を。
大人が子供を、子供が大人を。
老若男女の区別なく、背後から正面から
人はその欲を我慢できない。
それは食欲と似ている。
欲に従わず我慢し続ければ己の死が明確に目の前に迫り、それを拒絶した時点で確実に死ぬのがわかる。少しずつでも欲に従わなければ、空腹は満たされない。それでもと否定した先にあるのは、食いたいという本能だ。理性が消し飛んだ獣になる。
だから、殺し、殺される。
そんな生き残った人間を殺すのは人だけではない、化け物もまた何かしらの理由により人を喰う。
化け物は屍体から生まれ、屍体が成る。だがその造形は決して人ではなく――異形、そう表現して良いモノだ。
たとえば、それは、巨大な甲殻類のような異形。
七本ある足は細長く、先端は針のようになっており地面を突き刺し、半ばほどにある関節部は折りたたまれているが、そこまでの距離がおおよそ3メートルはあり、人は見上げる必要を迫られ、見上げた先にある胴体は、平たくなっているよう見えた。
この手の異形はまず、姿勢を崩すところから始まる。
ふらりと散歩気分のよう、だらりと脱力した状態で間合いに入り、一閃。そこから次の脚に向かうのに12メートル、そこまで全力疾走で向かって一振り、切断が完了した。
バランスが悪くなり、残った五本のどこに重心が向かうかを確認しながら、外周ではなく内部、異形の影に入る。押しつぶされる危険性はあるが、自分の移動速度に照らし合わせた距離、そして異形のサイズから計算した押しつぶしの時間から、最悪の場合でも走り抜けられるとの判断。
だが、内側に入ってすぐ、視線を感じた。甲殻類、たとえばカニでいうなら腹部に入っているというのに、目玉のような器官が三つ、こちらを視認した。ぎょろりと濁った目玉が揺れ動くのを決して視界に入れず、鞘に納めた刀を手に目の前だけを見て走る。
そしてさらに二本、予定通りに抜刀から切断し、巨体が崩れ落ちるのを見届ける。音を立て、周囲の瓦礫を揺らし、埃を立てながら――落ちた、そこに踏み込む。
軽い跳躍、全体像を把握することはできない、胴体を目視、だから。
――抜刀〟
上空からの抜刀、斬戟は縦に振り下ろされ、胴体の端を切断するが、しかし、その勢いのまま切断の現象が一気に広がり、無数の亀裂が走るよう奥に向けて細切れになった。
着地、背を向ける。
残心の必要はない、異形の死は誰よりも殺した側が確信できる。
腹が膨れるからだ。
吐息を落とした頃、異形は黒色の霧、あるいは塵のようにして消えた。跡形もなく、まるで異形なんて存在していなかったかのように。
納刀の前に刀を見る。細かい傷や刃こぼれはあるものの、許容範囲内。異形を相手にしているならば、刀が錆びつくことはないが、それでも手入れは必要で、使った時の終わりには必ず確認しておく。
納刀、瓦礫の一つに腰を下ろし、煙草に火を点けた。足元には荷物、それから予備の刀が三本ある。煙草などの娯楽品は、もう生産できないだろうけれど、利用者の数がほとんどいないに等しいため、入手だけなら簡単だ。むしろ刀の方が見つけにくい。
結局――。
山の中で暮らしていても、こうして街に降りてきても、生活そのものは変わらない。どこにでも異形はいるし、――人はどこにもいない。
いや、いないは言い過ぎだが、見かけることはあっても、お互いに接触しようとは考えなくなってしまった。
生き残っているのは。
人ではなく、異形を狩っている者だけ。
そして死んだ数だけ、異形は残っている。
だから。
人の気配がした時、必ず刀を握る。皮のベルトを改良し、袴装束と同じように使えるようにしており、長く使っているので馴染んでいた。いつでも対応できるよう、鞘ごと腰から半分ほど引き抜く。
そう、いつものこと――だったのに。
「――やあ」
声をかけられたことに、右手がぴくりと反応する。抜く動作に入ろうとしていたが、その手が止まったのだ。
聞き覚えのある声、そしてゆっくり歩いて近づく、小柄な影――。
「久しぶりだね」
彼女は。
「先輩……?」
「うん、そうだ、きみの愛しい先輩だ」
愛しくはねえよ、と返そうとしたが、思ったよりも自分が声の出し方を忘れているらしく、煙草を足元に落として消しながら、荷物から水のボトルを取り出し、相手を気にしながら喉を潤す。
だが彼女は、声が届く範囲に入ると、ぴたりと足を止め、手ごろな瓦礫に腰を下ろした。
顔を見る。
大学の頃の先輩で、就職してからも一緒だった彼女の顔は、かつてと変わっていないようでいて、変わっている気もした。
「生きてくれていて嬉しいよ」
返事をしようとして、何を言ったらいいかわからず黙り、しばらくしてから煙草に火を点けた。
「……先輩に逢ったら、聞こうと思ってたことが山ほどあったんだけどな」
「それはきっと、ボクも同じだよ。逢いに来たわけじゃない、逢いたいと思っていただけで、たまたまだからね。でも、ボクが死んでるなんて、きみはほんの少しも考えてなかったのか?」
「ないな。というか……許されないだろう? 私をこうしたのは、先輩だ」
「そうだね、少なくともきっかけを作ったのはボクだ」
「私に何をした」
「理由は、聞かないのかい?」
「……それによって、私が生き残っているのは事実だ」
「そうだね、きみに死なれたくはなかった。でも、わかっているだろう? それだけで生き残れるものじゃないぜ、きみが前向きでかつ、慎重で、運が良かったからこうしてまた逢えた。嬉しいのは嘘じゃない」
事実、何度も死にかけた。異形相手に、そして人を相手に。
ほんの少しの油断、縋りついた今までの常識、こうあって欲しいなんて願望、そうしたものが死に直結したのを体験し、運良く乗り越えられた――それだけだ。
「魔術について、話そうか」
「仮定に仮定を重ね、信憑性と可能性で包んだものを集め、それを理論で繋ぎ合わせ、世界を知る」
「覚えていてくれて嬉しいよ」
大学のサークルで、一番最初に彼女から教わったことだ、忘れるはずがない。そうやって、ともすれば屁理屈のようなものを、ああでもない、こうでもないと話し合った時間は、今にして思えばとても楽しかった。
「それも嘘じゃないんだけど、きみには本質的な部分は伏せていたんだ」
「本質?」
「武術がそうであるように、魔術もまた、魔の術ならば、それは技術なんだよ。
少し、考える時間をおいて。
「……あれか? 長い距離を移動する時、本来は距離と時間と速度、この三つを必要とするが、それらを無視するために、いや、あの時の結論は確か」
「うん」
「同じ場所なら、そもそも、移動は起きない――だったか」
「その同じ場所を作るのが、魔術だよ。詳細を語るともっと大変なんだけどね、実際にそれは存在するし、ボクは魔術師だ。そして、技術の継承に関しての研究をしていた」
そう、そこが聞きたかった。
「私に継承したのは、武術家の、技術か」
「きみが実際に経験しているから、そこはわかりやすいね。日本に古くからある、
「抽出して、私に入れた……という認識で合ってるのか?」
「そうだね、わかりやすく言えばそうだ。厳密には抽出っていうより、ぼくが作ったんだぜ? 技を実際に見て、思考を教わって、それらを選択するっていう局面まで想定してね。実際にきみは、使えただろう? そして、使った時の行動、思考、そういったものに疑念を得たはずだ」
「ああ、最初は違和しかなかった。私ではない誰かが、勝手に躰を動かしているような感覚に近かっただろう」
「今は馴染んでるみたいだね、さっきの戦闘も見ていたよ」
「戦闘……か」
戦っている、という感覚もなかったように思う。ただ、処理をしただけだ。
いつからか、そうなっていた。
「技術結晶の譲渡は、はっきり言って成功確率は低かった。割合がどうかっていうのはわからないけど、よほど運が良かったんだろうぜ。もちろん、多少は手を入れたけどね」
「そこまでしてでも、私に生きて欲しかったのか?」
「愛しい後輩に死んで欲しいなんて思わないさ」
「……先輩の選択は理解できるし、今では感謝もしている。間違いなく、コレがなければ」
未だに手をかけたままの刀に視線を落として。
「私は死んでいただろう。あっさりと、ほかの誰かと同じように」
「正直に言えば、ただの賭けだったよ。しかも分の悪い賭けだ、感謝はいらない。ボクはただ、わがままを通しただけだから」
「責めはしないと、そう言った」
「……すまないね」
律儀なところは変わらないようだ。
「一体、何が理由で私たちがこうなったのか」
人を殺さずにはいられないのか。
「わかっているのか?」
「そうだね。いろいろと理由はあると思うし、ボクもまた、全てを知っているわけじゃないけれど、多くを知ることができたよ。ただ一つ言えることがあるとしたら、変わったのもまた、一つだということだ」
「何が変わったんだ。今にして思えば、先輩はこの事態にすぐ適応していたようだった」
「魔術師の基礎訓練として、自身の把握っていうのがある。これはいわゆる内観に近いんだけど、肌の表面を境界線として、その内側と外側を明確にして、自分を知る行為だ。今回の事態は、つまり、内側に影響したものだったから、その違和を把握できた」
「人を殺さないと空腹になる――私としては、胃袋が一つ増えたように捉えていたが」
「間違っていないよ。でもね、人はこうなる以前から、命をいただいていた。動物も、植物だって生きている。だから、小さくてほとんど把握できず、気付いてもいなかったけれど、人間にはそういう、命を貰うような器官が備わっていて」
それが。
「――あの時、その器官が大きくなったんだよ」
それが事実ならば。
一体どうして、そんなことになったのだろうか。
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