不運な熱帯夜の灯火

 風に当たりながらぼんやりとブタ丸と見つめあっていると、スマホの着信音が鳴った。見知ったアイコンが見えたので画面をスワイプする。

「はい」

『あ、先輩?今日、熱帯夜ですけど大丈夫ですか?エアコンつきました?寝れてます?』

 いきなりの質問責めに面食らう。2学年下、同じ大学の1年生、一樹イツキ。バイト先で店長から世話を任されている後輩。黙っている分にはおとなしそうな、しかし喋り始めると天真爛漫な印象に変わる純朴な後輩とは、大学内では学部も学年も異なるのですれ違うことすらない。もちろん私生活でも関わりはない。週12時間かける13週間、計156時間で築かれた関係はバイト先の同僚でしかない。

 だから千明は驚いている。「うちに泊まったらどうですか?」と帰り際にバイト先で言われたことも、今電話がかかってきたことも、名乗るのすら忘れて心配そうに矢継ぎ早に質問されるのも、同僚の関係性で想定されるレベルを飛び越えている。

「……まぁ、暑すぎて無理。部屋の外より中の方が暑い」

『マジですか。え、どうするんですか?』

「どうもこうも。窓開けて、水飲んで、やり過ごすつもり。さっきよりはかなりマシだよ、室温29.8度の湿度66パーセント」

 千明はジリ子のライトボタンを押して言った。外も湿気ているので湿度の下がり方は微妙だが、暑い空気が外に逃げているからか室温はどんどん下がってきている。ちなみに、時刻は0時14分。

『いやいや、ほぼ30度じゃないですか!暑いって……。そういや網戸、穴開いたって言ってたのに窓開けてるんですか?先輩めちゃくちゃ蚊に刺されるでしょ?今日なんて手の甲と足首と』

「なんで知ってるの」

『先輩は色白だから刺されたところが目立つし、足首は物を取るのにしゃがんだ時に見えました』

「あ、そう。一応蚊取り線香という武器があってね。今2巻焚いているから大丈夫……多分」

『多分って……先輩のいないバイト先とか無理なんで、倒れてもらったら困るんですけど』

 言い方から、言外に「うちに来ても良いのに」と思っているのがわかる。千明は苦笑いした。素直な後輩なので口に出している理由が本心のように思うが、何か別の魂胆、あるいは、考えたくはないが下心があるのか。わからない。どちらかというとお人好しで警戒心が薄いのだろうと思う。

 いくら同じ大学の学生で、バイト先でそこそこ仲が良いからって、3ヶ月程度の仲だ。プライベートで遊びに行ったこともない。電話も、今日が初めてではないだろうか。そんな相手をいきなり一人暮らしの部屋に招こうとする感覚が千明にはよくわからない。それとも世間的には一樹の方が普通の感覚で、千明の警戒心が強すぎるのか。

「別に無理なことはないでしょ。一樹は他のバイトの子ともパートのおばちゃんズとも仲良いくせに」

『仲良いって……あれでもめちゃくちゃ気を遣ってなんとか合わせてるんですよ。先輩みたいにはいかないんで』

「どういう意味?」

『先輩みたいに雰囲気のある人間なら塩対応でもいけるでしょうけど、凡人はそうはいかないんで』

「雰囲気って何。っていうか、別に塩対応ではなくて、あれでもそこそこ愛想良くしてるつもりだけど?」

 千明は一樹とは違って愛想の良い人間ではない。それでもさすがに20ハタチを過ぎた人間、少しは世渡りの仕方を覚えたので愛想笑いはするし、世間話に当たり障りのない返しもするし、無気力や不機嫌を表に出さないようにもしている。千明の基準では決して塩対応ではないのだが、一樹から見れば塩なのだろうか。

 一樹本人は「めちゃくちゃ気を遣っている」と言うが、千明から見れば一樹とは誰とでも難なく談笑しているように見える。それとも、一樹も千明のように学習した口なのだろうか。

『あ、すみません……』

「今はもうお愛想モードはオフだから。切っていい?」

『あ、はい。え、いや、明日』

 慌てたように一樹が言葉を繋げる。千明は通話を切ろうと伸ばした指を引っ込めた。

「明日?」

『明日もエアコン、直らなかったら、うち来たっていいんで。8時には帰ってるんで』

「どうも。……時期的にどう考えても明日には直らないと思うんだけど。下手したら居候になるよ?友達ならまだしも、知り合って日の浅い相手に軽々しくそんなこと言わない方が良い」

『……別に先輩なら良いんですけど』

「いやいやいや。っていうか、一般論って知ってる?」

『先輩は先輩なんで。一般枠じゃないんで』

「あぁ、そう……。おやすみ」

『……おやすみなさい』

 一樹の不服そうな声を聞き遂げて千明は通話を切った。思わず天を仰ぐ。

(素直な子は、眩しい)

(光属性って、怖い)

 千明だなんて、千の明かりと書く名前を与えられはしたものの、暗くて、辛気臭くて、捻くれ者で、臆病者で、言うなれば闇属性なものだから、「先輩」の仮面を外して一樹に関わったら蒸発してしまいそうだ。あるいは、焼かれて線香のように灰になっていくか。

(でもまぁ、2、3日で直らなかったら頼もうかな)

 自分には蚊取り線香くらいのぼんやりとした光がちょうど良い、と千明は思うが、そう何日もこの生活を続けられる体力があると問われると困る。熱帯夜がいつまで続くかもわからない。

(にっちもさっちもいかなくなったら、光属性の部屋に居候させてもらおうか……)

 いきなり、そして、堂々と、関係性を飛び越えてきたから驚いているだけで、千明かて一樹のことを嫌っているわけではない。「先輩」の仮面を被った自分に対して厚意的に接してくれるなら、それはありがたいことだし、その厚意を受け取るのもやぶさかではない。

 とはいえ、やはり捻くれ者で臆病者な千明には単身で他人の部屋に転がり込むのは、ハードルが高い。千明はジリ子を撫でていた手を止め、指を弾く。爪がベルに当たってリーンッと鳴った。それに呼応するようにブタ丸の鼻の穴からのぞく赤がぼうっと強くなる。

(その時はジリ子とブタ丸も一緒にね)

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不運な熱帯夜のともしび キトリ @kitori_quitterie

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