不運な熱帯夜のともしび

キトリ

不運な熱帯夜の燈火

 連日の、数字を見るまでもない熱帯夜。今日は空が茜色になる少し前、午後6時頃に降った夕立のせいかいつも以上に空気は湿気ている。

(暑い……)

 息苦しい暑さに千明は目を覚ました。扇風機から出るのは温風で、期待される役割を何一つ果たさない。一縷の望みをかけて枕元を手探りし、掴んだエアコンのリモコンを指でなぞる。指はボタンの上を何度か行き来して、なんとか冷房ボタンを探し出して押した。ピッと音は鳴るし、電源マークを模したエアコンのランプも光りはする。リモコンのディスプレイが示す外気温の数字は29度。

 手を上に伸ばしてベッドのヘッドボードの上に置いている、ジリ子と名付けた目覚まし時計兼温度計兼湿度計を取った。円柱の両端に、耳のように銀色のベルがついたジリ子は、暗闇の中でもとりあえず握れば液晶のバックライトのボタンを押せる。オレンジ色の光に浮かび上がる数字は時刻、23時44分、室温、34.2度、湿度、70パーセント。

「うぅ……」

 不快感に呻きながら千明は起き上がる。無理だ。無茶だ。こんな蒸し風呂のような部屋で寝られるわけがない。千明がベッドから立ち上がっても、クタクタに着古した綿のパジャマはベタリと背中や太ももに張り付いている。不快感の原因はこれか、と千明はパジャマを身体から剥がすように引っ張る。触れた布地はじっとりと湿っていて、これ以上の汗は吸えないと悲鳴をあげていた。

 千明はよろよろと壁にある小さな緑色のランプに向かって歩く。パチリ、と照明のスイッチを押した。LEDの真っ白な光に目が眩む。素早くスイッチを2回押して豆電球モードにしようとしたが、何度スイッチを押しても淡いオレンジの光にはならず、視界は真っ白と真っ暗を行き来する。諦めて真っ白な光をつけた。

 目が光に慣れた頃、強烈な喉の渇きを覚えて、冷蔵庫に向かい冷えた水を取り出す。500ミリリットルのペットボトルに入れてキンキンに冷やした水道水。ペットボトルの口に自分の口をつけないよう気をつけて、がぶ飲みした。喉越しが気持ち良い。冷たい水が食道を通り、胃に溜まる。

 夢中で嚥下しているといつのまにかペットボトルは空になっていた。蛇口を捻る。軽くペットボトルを濯いでもう一度水道水を注ぎ、冷蔵庫に入れる。次に喉が渇くのと、水道水が冷え切るのとでは、どちらが早いのだろう。わからない。

「ほんっとう運悪い……」

 一昨日くらいから、なんとなくエアコンの調子が怪しいなとは思っていたが、まさか本当に壊れるとは。大家の名前を取って眞月マンションと銘打っているが、実態は古くて狭い単身者用集合住宅。よって、オートロックが付いていてもアパートと大差のない家賃となっている。その3階4号室の、古い備え付けエアコン。元は白だったのだろうに、全体が黄ばみベージュ色になっているエアコン。リモコンは効くのに冷たい風は出ず、ルーバーが微動だにしないエアコン。

 エアコンの不調に気がついたのが金曜日の夜だからと、大家に遠慮したのが間違いか。それとも自腹覚悟で、昨日今日のバイトを休んででも電気屋を呼ばなかったのが間違いか。あるいは、同じバイト先の後輩のありがたい申し出を受けて、部屋に転がり込ませてもらわなかったのが間違いか。

 千明はリモコンを再度押してエアコンを切った。そしてカーテンを開け、窓に手をかける。外気温のほうが低いのだし、窓が開けられればまた少し状況は違うのだろうと思うが、開ける勇気が湧かない。

 というのも、今朝、換気のためにベランダに続く窓を片方、網戸にしていると、寝ぼけているのか連日の猛暑でバカになっているのか、カラスが網戸に突っ込んできて穴を開けるという大事件が起きた。カラスは衝撃で目が覚めたのか、けたたましい鳴き声を挙げながらバタバタと羽を動かして網戸から頭を引き抜くと、大急ぎで飛び去っていった。網戸に血はついていなかったのでカラスには怪我がなさそうで何よりだ。網戸は大ダメージだが。

 更に困ったことに、千明は蚊に熱烈に好かれている。幼少期から一貫して蚊に刺されやすく、どんなに虫除けを振り掛けようと、足をきれいに洗おうと、気がついたら肌が露出している部分、手にも脚にも、首にも、時には頬や額にも、ぽつぽつと赤い膨らみができているので、どう頑張っても蚊に刺される運命なのだろう。

 もちろん今日中に網戸を買って取り替えれば良かったのだが、網戸を売っているホームセンターはバイト先ー駅構内の弁当屋ーとは反対方向、かつ、部屋は3階。千明はこれまでの人生で一度も網戸を取り外したことがなかった。もちろんインターネットで調べればやり方はわかるが、部屋は3階である。ベランダがあるとはいえ、万が一にも落としたら……と思うと挑戦する気にならず、明日エアコンと共に大家に連絡するつもりでいた。

 よって千明はこの一晩をエアコンなしの窓を閉め切った部屋で我慢する覚悟を決め、バイトを延長して閉店時間である20時までエアコンのある店内に居座り、帰宅後は水シャワーを浴びて身体を芯まで冷やして、ベッドに寝転がった。早寝早起きして、日が昇る前に部屋を出て、涼しくて長時間滞在できるどこか——ショッピングモールか、ホームセンターか、図書館か——に行く気でいた。にも関わらず、ベッドに転がってから約2時間で、すでに暑さで目が覚め、喉はカラカラだ。早起きどころか熱中症まっしぐらである。

 しかし、網戸がないのに窓を開けて寝るなど千明には考えられない。今どきの蚊はマンションの3階くらい簡単に到達する。朝起きたらいくつ虫刺されができていることか。四肢がボコボコに腫れているだろうし、何より痒い。その痒みを抑えるのに必要な温度は43度以上。ただでさえ蒸し風呂のようになっている部屋で暑いシャワーは御免だし、入浴など論外である。八方塞がりだ。もう、どうしろというのか。

(いや、でもこれ、さすがに窓を開けないと救急車に乗ることになるかも)

 部屋は3階。下の階からの熱が上がってくる。加えてオンボロとはいえマンション、要は鉄筋コンクリート造。機密性が高いということは、熱と湿気が籠るということでもある。室温が下がる見通しはない。千明という人間が部屋にいるので、むしろ室温が上がる可能性の方が高い。

 はぁ……と千明はため息をついた。もう一度、水シャワーでも浴びるか、と考えたがそろそろ日付が変わる頃。今からシャワーを浴びたら、オンボロマンションの心許ない遮音性では近所迷惑になるだろうか。それに、浴びている間は涼しいものの、浴び終わった後に残るのは湿気だ。これ以上湿度が上がったらキノコが生えてしまう。

(やっぱり窓……開ける?)

 この部屋唯一の大きな窓を開けたい。でも何の蚊対策もなしに窓を開けたくはない。とはいえ暑い。しかし蚊に刺されるのは嫌だ。窓を開けようと開けなかろうと自分の健康は害される。

 なんというジレンマ!

 絶望的な気持ちで千明は窓の外を見る。近くにネットカフェやカラオケ、最低でもコンビニがあれば良いのだが、あいにく全てはこの部屋から5km先のバイト先付近にしかない。せっかくシャワーを浴びたのに、長袖長ズボンのジャージに着替え虫除けを振り掛けて外に出る気にはならないし、歩いていくうちに倒れる気もしなくはない。 いや、でも部屋でうだうだしているよりは外に出て歩いた方がマシではないのか。何でこんな事態に、誰が悪いのだろうと千明は自問自答する。

(いや、悪いのは自分か)

 悪いのはどう考えても千明自身である。もちろん壊れたエアコンが一番悪いが、そして網戸に衝突してきたカラスも次点で悪いが、なんとかする機会があったにも関わらず、あーだこーだと理由をつけて、お金をケチって、動かなかった千明自身が悪い。電気屋を呼ばなかったのも、網戸を買いに行かなかったのも、そもそもこのアパートまがいのオンボロマンションを住居に選んだのも千明の判断である。大家を攻めるのは八つ当たりだろう。熱帯夜の真の原因の地球温暖化は千明の手に負えるものじゃないので除外する。

「もうヤダ……」

 千明は床に寝転んだ。フローリングの床すら、ぬるい。絶望感が増す。この部屋に残る冷たい場所は冷蔵庫の中しかないのだ。千明の身体は到底入りきらない、単身者用の小さな冷蔵庫。大したものは入っていないので、一晩中冷蔵庫のドアを開けておこうか。いや、しかし部屋を冷やしきるには力不足だろう。冷たい水がなくなるのも命取りだ。

 ぼんやりと部屋の中を見渡す。ふと目についたのは、机の下でLEDの明かりを反射して鈍く光る金色の縁。ずるずると這って近づくと、見えてきたのは渦巻の文字。いつも洗濯を干す時に焚く蚊取り線香。毎日使うので缶で買ったものだ。普段は気に入っている信楽焼の蚊取り豚ー店でブタ丸と名付けられていたので千明もそう呼んでいるーに吊り下げて使っているが、元々の缶の蓋も線香皿として使える仕様だ。

(これに頼るか……)

 千明は手を伸ばして、机の下から缶を引き摺り出す。ブタ丸一匹だけでは不安だが、ブタ丸と線香皿で2つあれば大丈夫だろう。よっこらせと身を起こす。蓋を開ければ緑色の渦巻き。今夜の頼みの渦巻きを2巻とマッチ箱を取り出す。蓋をひっくり返して缶にのせ、付属品のグラスファイバーの敷物を敷いた。

 マッチを擦る。ライターは手が燃えそうで苦手だし、点火棒チャッカマンは使い方が下手なのかすぐに使い切ってしまうから、小学生の頃から理科の実験で慣れ親しんでいるマッチに落ち着いた。このシュッとマッチと側薬が擦れる音が千明は好きだ。

 線香に火をつける。火のついた線香はじんわりと赤くなった。うち1巻を敷物の上にのせ、付属品のカバーを掛ける。

 一つ息を吐いて、千明は意を決してベランダに続く窓を開けて缶を置いた。そして片足だけつっかけを履いて、急いでエアコンの室外機の上に置いたブタ丸にも線香をセットし、部屋に戻る。大きな穴の空いた網戸とレースカーテンを閉めた。扇風機を窓に向けて回す。蚊以外でも虫が入ってくるのはゴメンだ。

「ふぅ……これで良し」

 千明は電気を消し、ベッドの上のジリ子とスマホを手に取ると扇風機の横に座った。生地の重い遮光カーテンを閉めると風が入ってこなくなるから、きちんとカーテンを閉めるのはもう少し後で良いだろう。慣れ親しんだ蚊取り線香の匂いが夜風と共に部屋に入ってくる。それを扇風機の風が幾分か押し返し、幾分かかき混ぜで部屋に循環させる。ブタ丸の鼻の穴から覗くぼんやりと赤い光が今夜の希望だ。

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