ありがとう、またね。~二代目 女牧場主が一人前を目指すまでの物語~

@tama_kawasaki

第1話

3月の彼岸を過ぎたとはいえ、日高町の空気はまだ冷たく凛と張り詰めていた。夜明け前の新冠川に月明りが差し、そのほとりにある青山ファームの放牧地に解け残る雪を照らし出していた。

 放牧地の外れにある16頭を収容できる厩舎の馬房内で、一頭の白毛のサラブレッドが所在なさげにグルグルと歩き回っていた。

「そろそろか」

 馬房に隣接している宿直室で、モニターを見ながら大岩厳がつぶやいた。

「小林、起きろ。スノーフェアリーが産気づいたかもしれん」

 大岩はソファーで寝ている小林の頭を小突いた。

「へ……あ、はい」

 寝ぼけ声で返事をすると、小林は起き上がり、ボサボサになった茶髪の頭を掻きながらあくびをした。

「でも、少し早くないですか。大久保先生からも言われてるんですよね?」

 確かに出産予定日より1週間ほど早い。昨日往診に来た獣医の大久保からも来週くらいと言われている。

「ふむ……」

 大岩は短髪の白髪交じりの頭を撫でながらつぶやいた。

 大岩にも出産だという確証が持てないでいた。出産予定日より早いだけではなく、スノーフェアリーの動きに違和感を感じていた。

「馬も人も予定より早まることは良くある話しではあるが……」

 大岩が話していると、馬房から大きな物体が倒れる音が響いた。

 モニターには、馬房に横たわり苦しそうに前足をもがいているスノーフェアリーの姿があった。

 宿直室のドア越しに、スノーフェアリーの悲鳴のようないななきが聞こえた。

 大岩と小林は宿直室から飛び出し、スノーフェアリーの馬房に駆けつける。

 大岩が馬房の中に入り、苦しそうに息をしている馬の産道をのぞき込む。

 破水はしていなかった。

 大岩はスノーフェアリーの下腹部を強めに圧迫した。

 スノーフェアリーはナイフで刺されたかのような声をあげ一瞬立ち上がり、またすぐに倒れこんだ。

 大岩は顔をしかめた。

「くそ、どうして気づかなかった…」

「厳さん、何が……」あったんですかと小林が言う前に、

「スノーフェアリーが疝痛を起こしてる。腸ねん転かもしれん。大久保先生と嬢ちゃんを呼んで来い」

 大岩は振り返らず、スノーフェアリーの腹を擦りながら言った。

「腸ねん転って、それってやばいんじゃ…。腹の仔っこは…」

「さっさと呼んで来い!」

「は、はい!」

 小林は、一瞬ビクッとすると、まだ暗い馬房の外へ飛び出していった。

「ちくしょうめ……」

大岩はスノーフェアリーの腹を擦っていた両手を握りしめた。



 ベッドサイドにおいてあるスマホの着信音が鳴る。青木遥はベッドから腕を出してスマホを取り上げた。着信画面を見るとスマホのデジタル時計は4時を、着信名は小林と表示されていた。この時間に連絡が入るというのは、よほどのことが起きた時だ。正常分娩で夜中に呼び出されることはない。胸がざわついた。

「もしもし、小林くん。なにかあった?」

「代表、すぐ来てください。スノーが、スノーフェアリーが疝痛を起こしています。厳さんが言うには腸ねん転じゃないかって」

 嫌な予感が当たった。遥は息を飲み、返事ができなかった。

 馬は解剖学的に腸管が長く固定されにくい構造となっている。そのため腸の位置が変わりやすく、腸ねん転も起こりやすい。開腹手術で治療するが、腸管の壊死が広範囲に広がっていると助かる見込みはない。

 スノーフェアリーは2か月前にも腸ねん転を起こしている。

 その時は腸管の壊死範囲が少なかったため手術は成功した。それでも小腸を8m以上も切除した。大久保からは「次に腸ねん転を起こしたら、助かるか分からない」と言われている。

「代表?」

 返事がないことを心配した小林が電話の向こうから声をかける。

「ああ、ごめん。すぐに行く」

 そう返事をすると、通話を切り、スマホをベッドサイドテーブルに置く。テーブルに置かれているフォトスタンドがカタカタと音を立てた。スマホを掴んだ遥の手が小刻みに震えていた。

「大丈夫、きっと大丈夫」

 遥は、仔馬のスノーフェアリーと14歳の自分が頬を寄せるように映っている写真を入れてあるフォトスタンドを手に取ると、胸元で抱きしめた。



 遥が厩舎に駆けつけた時には4.5名のスタッフが、スノーフェアリーの周りに集まり、代わるがわる腹部をマッサージしているところであった。

「スノー!」

 遥は馬房の柵をくぐると、スノーフェアリーの頭に顔を寄せた。

「厳さん、スノーは……」

 遥は馬房の外に立っている大岩に声をかけた。

「見ての通り疝痛を起こしてます。大久保先生に診てもらわないと何とも言えませんが、たぶん腸ねん転でしょう」

「でも…過食とか便秘の可能性だって…」

「痛がり方が尋常じゃない。嬢ちゃんだって分かるでしょう」

 この牧場で生まれ育った遥は疝痛で苦しむ馬を何頭も見てきている。腸ねん転の痛みは過食や便秘による疝痛とは比べ物にならない。単なる過食や便秘では立ち上がれないほどの痛みにはならない。

「申し訳ありません。もっと早くに気づくべきでした。出産の動きだと思い込んでいました」

 遥は頭を振り、

「いいえ。それよりスノーは……それにお腹の赤ちゃんは……」

「嬢ちゃん。つらいでしょうが選択しておいた方がいいでしょう」

「選択?」

「母馬をとるか、仔馬をとるか」

「……」

遥は表情をこわばらせたまま何も答えられなかった。遥の心臓の音が激しく頭の中に響いていた。頭の中は真っ白で何も考えられない。

「そんなの……分からない……。診断だってついてないのに……」

かすれた声で遥はつぶやく。

大岩は天井を見上げると目を閉じてため息をついた。



「大久保先生がみえました」

大声で言いながら、小林が大小のカバン二つを抱えながら厩舎に入ってきた。その後ろをジーンズに白いワイシャツ姿の上から白衣をかけた大久保がついてくる。

「先生……」

遥は、スノーフェアリーの腹部をマッサージしている手を止めて立ち上がると、泣きそうな声で言った。

 大久保は、遥の肩をポンと叩くと、馬房のなかに入った。

 大久保は白衣のポケットから聴診器を取り出し、スノーフェアリーの下腹部にあて聴診を行った。聴診の後、大久保は小林から大きいカバンを受け取り、ポータブルエコーを取り出すとスノーフェアリーの下腹部にゼリー状の液体をかけた。

 大久保はそのゼリーの上からプローブと呼ばれるデバイスをあてると、ゆっくりと動かした。

 大久保は表情を変えずにポータブルエコーのモニターに映し出される画像を凝視しする。

 静寂に包まれたた馬房の中に、スノーフェアリーの苦しそうな息とポータブルエコーの機械音だけが響いていた。

遥は生きた心地がしなかった。診断結果が出た後の対応など、考える余地もなかった。

遥が亡くなった父親から牧場を受け継いで一年余り。飼育している馬の命の選択の場面に出くわすのは初めての経験であった。よりによって、その対象がスノーフェアリーである。遥は自分の運命を呪った。

「遥さん、前回僕が話したことを覚えているかい?」

 大久保はモニターを見つめながら言った。

「次、腸ねん転になったら、助かるかわからない、と……先生、まさか……」

 かすれた声で遥はこたえる。

「結腸が肥厚してる。腸ねん転で間違いないと思う。まずは鎮痛剤を投与するから」

大久保はもう一つのカバンを小林から受け取ると、なかから輸液とカテーテルを取り出し、慣れた手つきでカテーテルを血管に刺した。

カテーテルに接続した三方活栓に鎮痛剤の入ったシリンジを接続すると、ゆっくりとシリンジの内筒を押した。

 遥は馬房の外でしゃがみ込むと、顔の前で祈るように両手を組んで目を閉じた。

 スノーフェアリーは遥にとって特別な存在だった。

 14歳のときに初めて自分でスノーフェアリーを取り上げて以来、遥は実の妹のように可愛がり、放牧場で時間を見つけては2人でじゃれあった。スノーフェアリーを放牧場から厩舎に戻すとき、遥は決まって歌を歌いながら歩いた。「お馬の親子は仲良しこよし…」遥の歌に導かれるように、小さなスノーフェアリーは遥の後をトコトコとついて歩くのが常だった。

「……さん。遥さん」

遥が目を開けると、大久保が目の前にしゃがみ込んで遥と同じ目線で話していた。

「鎮痛剤を投与したところ、スノーに少し落ち着きが出てきた。鎮痛剤が効いているんだと思う」

 遥は黙ってうなずいた。

「一度の鎮痛剤の投与で奏効したから、腸の壊死はそれほど進んでいないかもしれない。もちろん重症は重症なんだけど、今から開腹手術をすればあるいは……」

「助かるんですか!」

 遥は地獄の中で一筋の光明を見たかのような表情で言った。

「可能性はあるよ」

「お願いします!」

「小林! 馬運車をまわせ!」

大岩がスノーフェアリーの腹部をマッサージしていた小林に大声で指示を出す。

手術すると決まったらスピードが命だ。小林は厩舎から駆け出した。別の者は馬服を取りに走り、また別の者は小林の代わりにマッサージを始める。にわかに厩舎内が騒がしくなった。

まだ予断は許さないが、それでも最悪の事態は免れるかも知れない。遥は自分の顔に生色が戻るのを感じた。

自分もついて行こうとジャケットをとりに戻ろうとした遥の腕を大岩がつかんだ。

「診療所には俺が行きます。嬢ちゃんはここに残ってください。何かあったら連絡します。嬢ちゃんには、この牧場の代表としてやるべきことがあるはずです」

「それは……」

 大岩の言う通りであった。もうすぐ夜が明け、牧場の一日が始まる。牧場の日常業務は任せられても、業者との打ち合わせや調教師の訪問対応など対外的な仕事は遥がやるしかない。しかも、それは牧場経営に関わる重要な仕事だ。

 牧場に残り、自分の仕事をするべき。確かにその通りだろうが遥には受け入れられない提案に聞こえた。遥にとってスノーフェアリーは自分の妹同然であった。妹の危機に側にいない姉がどこにいようか。

「でも私がいないと……」

「嬢ちゃん、優先順位を間違えちゃいけません」

「優先順位って……」

遥には大岩の言っている意味が理解できなかった。父からは馬のことを最優先で考えろと言われていた。目の前で苦しんでいる馬がいるのだから、そちらが最優先なのは当たり前ではないか。

「お父さんは馬の事を最優先で考えろっていつも言ってた。厳さんも知っているでしょう」

「先代が言っていたのは、そういうことではありません」

「じゃあどういう……」

「準備できました。いつでも行けます」

小林が割って入った。

馬房の中で、馬服を着せられたスノーフェアリーがゆっくりと立ち上がろうとしていた。頸部からは点滴のカテーテルがだらりと垂れ下がり、大久保が輸液バッグをスノーフェアリーの首より高くなるように持ち上げていた。

スノーフェアリーは立ち上がったものの、息は荒々しく、その足元は震えていた。

「話は帰ってからにしましょう。私が行きます。厳さんは牧場をお願いします」

「取引先との話し合いはどうするんですか。調教師の先生や馬主さんも見えるんですよ。先方にどれだけ迷惑をかけると」

「緊急事態なのよ。1回キャンセルしたところで牧場は潰れないわ」

「俺が言っているのは、牧場の代表としての自覚を……」


 バシャ!


 バケツの水を撒いたような音が馬房に響くと同時に、生臭くやや酸味がかった匂いがたちこめる。それと同時にスノーフェアリーが悲鳴にも似たいななき声をあげて倒れ込んだ。

「破水した。産まれるぞ」

 輸液バッグを小林に持たせ、大久保はスノーフェアリーの膣口を覗き込みながら言った。

 鎮痛剤もむなしく、腸捻転と陣痛の二重の痛みは容赦なくスノーフェアリーに襲い掛かる。スノーフェアリーは馬房に倒れたまま悶え苦しんだ。

「仔馬を先に取り上げるぞ。尾っぽを結べ!」

 スタッフがスノーフェアリーの尾を包帯で巻き束ねる。

 あとは羊膜に包まれた仔馬の前足が出てくるのを待つ。通常の出産であれば、必要以上に仔馬が産道から出てくるのを介助しないが、今回はスノーフェアリーの命もかかっている。足が出てきたらすぐに引っ張れるように、大岩と遥が今かと待ち構える。

 が、出てこない。

「5分たちました」

 小林が腕時計を見て告げた。

 通常のお産であれば、破水から5分以内に前足が出てくる。5分たっても足が出て来ない場合は、何かしらの異常が起きている証左である。

 大久保は肘までかかる手袋を右手に着けると、産道に手を入れた。

 大久保の右手に仔馬の頭の感触が伝わる。しかし、前足の感触は1本しか感じられない。仔馬の右前足が完全に子宮に引っかかっている状態であった。出来れば病院に運んで帝王切開したい。だが、とにかく時間がない。破水してから40分以上経過すると、仔馬の生命が危なくなる。

 もうすでに破水してから10分は経過している。手術設備のある病院まで車で30分はかかる。手術準備に要する時間も考えるとかなり厳しい。そもそも、痛みにのたうっているスノーフェアリーを馬運車に乗せる事自体が無謀だろう。

 選択肢は2つしかない。

「遥さん、仔馬の右足が子宮に引っかかっています。本当は病院に運んで帝王切開したいのですが、もう時間がありません。そもそも、いまの状態のスノーを馬運車に乗せることはできないでしょう」

 大久保は言葉を選びながら落ち着いた口調で遥に話した。

「遥さん、選択肢は2つです」

「いますぐ仔馬を堕胎させて、スノーを病院に運んで手術をするか」

「もしくは、スノーのことは優先順位を下げ、リスクをおかしてでも仔馬の態勢を整復して出産させるか」

 無理に仔馬の態勢を整復しようとすると、仔馬の蹄が子宮を突き破る危険性がある。子宮が破れたら、母馬を助けることは不可能だ。

 遥は、自分の顔から血の気が引くのを感じた。

「どちらを選択されるかは、青山ファーム代表の遥さんに委ねます」

「スノーか仔馬……私が……」

 遥はよろよろと立ち上がると、馬房の壁によりかかった。とても自分の足では立っていられない。

 ついさっきまで両方とも助かるかもしれないと一筋の光明を得た気持ちから、奈落の底に落とされたようだった。天から降ろされた蜘蛛の糸が切れ、地獄に再び落とされたカンダタもきっと同じ気持であったであろう。

 自分の感情の落差に遥の思考がついていかない。

「嬢ちゃん」

 大岩の声に、呆けた顔で遥は視線を向ける。

「嬢ちゃん、覚悟を決めてください。この牧場の代表としての覚悟を」

「でも……私、どうしたら……どっちも助けたい……わからない……」

 遥は目を泳がせながらつぶやく。

「そうだ、厳さんが決めて。それならみんな納得する……」

 遥が言い終わる前に、大岩は遥の襟元を掴むと馬房の寝藁のうえに遥を引き倒した。

 遥の目の前には、苦しそうに息をしているスノーフェアリーの顔があった。

「嬢ちゃん、あなたはさっき馬が最優先と言った。確かに先代は常日頃からそう言っていました。でも、それは単に馬を可愛がるだけの話しじゃない。馬が何を望んでいるのか、何が馬にとって望ましいことなのかを考え抜くことだ。その先に牧場経営とスタッフの生活の安定がある」

 大岩は遥の襟元を掴んだまま静かに、しかしはっきりと話した。

「だが、いまの嬢ちゃんはどうですか。あなたはスノー可愛さに自分の気持ちしか考えていない。そんな人に牧場を、我々スタッフの生活を預けることはできません」 

「スノーが嬢ちゃんにとって特別だというのはわかります。だからこそスノーの処遇は嬢ちゃんが決めなきゃいけない。スノーにとって何が大切か、どうして欲しいか嬢ちゃんだからこそ分るでしょう」

 大岩は遥の襟元から手を放す。

「嬢ちゃんが一人前の牧場主になれるようにスノーが身を張って教えてくれています。無駄にしちゃあいけません」

 最後はやさしく諭すように大岩は言った。

 大岩の言う通りだった。遥は顔を上げることができなかった。

スノーフェアリーは繁殖入りした後、不受胎や流産が続き、今回ようやく仔馬を授かった。そのような母親が自分の命と子供の命のどちらを優先してほしいと思うか明白だろう。牧場としても助かる見込みの薄い繁殖牝馬より仔馬を選ぶ。

こんな分かりきったことすら他人に委ねようとしていた。惨めさと悔しさの入り混じった感情が遥に湧きあがってくる。目からとめどなく涙があふれてきた。

遥は寝藁を掴んだ。

選択の余地はない。あとは覚悟を決めるだけだ。

動かない遥を見て、大岩が大久保に声をかけた。

「先生、スノーを……」

その瞬間、遥は大岩の腕を掴んだ。

「先生、仔馬を優先してください。先生の診立てで、スノーは難しいと判断されるのであれば、その時は……」

遥は顔を上げ、大久保に向かってはっきりと言った。

「その時はスノーを楽にしてあげてください」

遥の顔は涙で濡れていたが、決意に満ちた表情であった。

「小林君は厳さんと大久保先生のサポートに付いて。難しい整復よ。スノーが命をかけて教えてくれるの。ひとつも無駄にしないで」

遥がその場で指示を出す。

「誰かシャインスターファームに連絡して乳母馬を手配して。以前もそこで乳母馬を融通していただいたから。馬の種類は問わないわ」

「わたし連絡してきます」

若い女性スタッフが走りだす。

「手の空いている人は、乳母馬と仔馬を入れる馬房を準備して」

残っていた数人のスタッフも急いで動き出した。

「よし。小林、お前が仔馬を押し戻せ。それでも右足が出ないようなら合図しろ。俺がロープで牽引する」

大岩はそう言うと長手袋を小林に投げ渡した。

「やります。いえ、やらせてください」

そう言いながら小林は手袋を着ける。

「よし、いくぞ」

大岩が号令をだすと同時に小林は産道に右腕を入れる。

スノーフェアリーの悲鳴にも似たいななきが厩舎の屋根に響く。

遥はスノーフェアリーの頭をしっかりと抱きかかえた。



真新しい寝藁を敷かれた馬房につい先刻連れてこられた道産子馬は、産まれたばかりの白毛馬をなかなか近づけようとしなかった。

「仔馬に乳母馬の糞でもションベンでも擦り付けろ。匂いで自分の子供だって思わせるんだ」

小林がスタッフ達に指示していた。

幼い白毛馬が産まれた後の馬房ではスノーフェアリーが息を絶え絶えに横たわっていた。

小林や大岩の働きで、仔馬は無事に産まれた。白毛の牡馬だった。

しかし、産まれるときに子宮が傷ついたのであろう。出血が止まらない。

大久保はバスタオルを産道に入れての圧迫止血や止血剤の投与を行ったが効果はなかった。

大久保は遥を見て、静かに首を横に振った。大久保の白衣とワイシャツは、血と汗と寝藁で汚れていた。

遥はスノーフェアリーの頭を抱いたまま黙って頷いた。

「わかりました。準備します」

大久保は立ち上がると、必要な薬剤を取りに厩舎から出ていった。

遥はスノーフェアリーの前髪を撫でながら語りかけた。

「つらかったね、よく頑張ったね。仔馬は無事に産まれたよ。真っ白な白毛の男の子。産まれた瞬間に厳さんが言ったの、『未来のダービー馬が生まれたぞ』って。聞こえた?」

 点滴を持ったまま立っていた大岩は、2人の様子を見ながら苦笑いをした。

「良かったね。厳さんが言うなら間違いないよ。だから心配しないで。仔馬の事は私たちに任せて、だから……」

 涙声で遥は言った。

「だから、ゆっくり休んで。そして仔馬の事を見守ってあげて」

 遥はスノーフェアリーの頭に自分の顔をすり寄せた。

「よろしければ、準備に入ります」

 頃合いを見て、戻ってきた大久保が声をかけた。

「はい。お願いします」

 スノーフェアリーの目を見ながら遥は答えた。

 大久保は薬品の詰まったアルミ製の鞄から麻酔薬を取り出し、シリンジで吸い上げる。それを点滴の三方活栓に接続して、大久保はゆっくりとシリンジの内筒を押した。


「お馬の親子は 仲良しこよし いつでも一緒に ぽっくりぽっくり歩く……」


 遥はスノーフェアリーの前髪を撫でながら、スノーフェアリーの瞼が閉じるまでなんども静かに歌った。

 やがてスノーフェアリーが瞼を閉じると、大久保は別のシリンジを三方活栓につないだ。

「硫酸マグネシウムです。これを投与してゆっくりと心臓を止めます」

 内筒を押そうとする大久保の手を遥がとめた。

「最後は私に……」

 大久保は頷くと、シリンジを遥に持たせた。

「ありがとうスノー。またね……」

 遥はゆっくりとシリンジの内筒を押した。



 大久保は聴診器を耳から外し腕時計を見た。

「6時10分。スノーフェアリー号の死亡を確認しました」

 遥と大岩は馬房に横たわるスノーフェアリーに対して手を合わせた。いつの間にか馬房に集まったスタッフたちも一斉に合掌した。誰からともなく、すすり泣く声が聞こえる。しかし、遥の目にはもう涙はなかった。

 遥は、パンっと自分の両方の頬を叩き立ち上がった。

「厳さん、あとはお願いします」

「嬢……代表、どちらへ?」

「朝いちで調教師の先生と馬主さんがみえるから準備しないと。今日は一日来客対応だから、現場は厳さんにお願いします。スノーの埋葬の段取りが付いたら教えて」

「分かりました。任せてください」

 遥は頷くと、スノーフェアリーが命と引換えに産んだ仔馬の馬房を見た。

 馬房では仔馬が乳母馬の乳を飲んでいた。もう乳母馬に仔馬を遠ざける様子はなかった。

 遥は安心したように微笑むと、朝日が差し込む厩舎の出口に向かって歩いて行った。

「一晩で嬢ちゃんを一人前の牧場主にしちまった。たいした名牝だ」

 そう言いながら大岩はスノーフェアリーの首筋を撫でた。

 雪がまだ深く残る山々の稜線から刺す陽の光が青山ファームの放牧地に降り注ぎ、凍った空気中の水蒸気をキラキラと反射させた。それはあたかも晴れ渡る空に舞う雪のようであった。

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