年末
仕事納めを終えてから、私たちは夜の街へと繰り出した。彼らはずっとホテルで過ごしているというので、夜の街を散策しようと私が誘ったのだ。
ここ帝都の夜は明るい。十数年前にガス灯が都市部に普及してからというもの、繁華街はまるで不夜城だ。
『こっちです』
白い息を吐きながら、私は人混みをかきわけて進む。ここは私の地元の街なんか比にならないくらい人が密集していて、いろいろな音やにおいがたくさんした。
『すごい人混みだな』
ゴルトベルクさんの声に振り返ると、群衆ににょっきりと生えた背の高い男二人が目に入って、私はひそかに笑いを飲みくだした。
ゴルトベルクさんもエーベルさんもかなり背が高いから、私が彼らを見失うことはない。逆は十分あり得そうで、ちょっと怖いのだけど。
『ここが繁華街か』
『はい。昼にはあそこの高い建物にのぼって街を一望できますし、オペラの公演も見ることができます』
ふむ、と興味なさげなゴルトベルクさんを置いて、エーベルさんはあれこれと興味深げにあたりを見渡している。私は彼らを率いて、レンガ造りの建物の扉を開けた。ドアベルが鳴り、ウェイターの「いらっしゃいませ」という言葉がやわらかく響く。
そこは十分に暖房の効いた、あたたかな空間。電気灯で明るく照らされて、多くの人々が食事をとりながら談笑している。
暖炉で薪の焼ける穏やかな音を伴走に広がる穏やかな光景に、私はほっと息を吐いた。
「……失礼ですがお客様、ご予約はしていらっしゃいますか」
不審者を見る目つきで、先ほど出迎えてくれたフロアのウェイターが私に尋ねる。私は「波多野ミナトが来たと、奥様にお伝えください」と囁いた。
ウェイターは怪訝な顔をしながらも奥に引っ込んで、しばらくすると私より少し年上の女性がいらっしゃる。ここでも未だに珍しいワンピース姿の彼女に、私はにこりと微笑みかけた。
彼女はこの洋食店の主人の妻で、女学校時代にかわいがっていただいた、私の尊敬する先輩だ。
「スミレお姉さま、ごきげんよう。今日も素敵なお召し物がよく似合っております」
「まあ、ミナトちゃん!」
彼女は私に熱烈な抱擁をして、背後の二人がぎょっとした顔で私たちを見る。私はそれに構わず、彼女の背中を叩いて再会を喜んだ。
彼女は私が男装している経緯を知っている、数少ない知人だ。
「よく来てくれたわね。何を食べていく? 今日はいい牛肉が入ったから、ステーキとシチューが人気よ」
「お姉さま、気が早いですよ。私の雇い主たちの紹介をさせてくださいませ」
私はそう言って、彼女から離れた。手でゴルトベルクさんたちを示す。
「私の雇い主の、ゴルトベルクさんです。この国には商いをしにいらっしゃいました」
そして、私は彼らにお姉さまを示す。
『彼女は私の姉です。この料理店の主人の妻でもあります』
その言葉を聞いて、お姉さまはぴしりと踵を揃えた綺麗なお辞儀を披露する。腰の角度はきっちり十五度。背筋は伸ばして、胸を張る。
『はじめまして。波多野ミナトの姉の、長谷川スミレと申します』
その流暢な言葉に、ゴルトベルクさんたちも少し驚いたようだった。私は思わず、少し得意げに微笑む。
彼女は私の憧れの人だから、彼女が一目置かれると、嬉しい。
『はじめまして。ルドルフ=ゴルトベルクです』
会釈をするゴルトベルクさんに、お姉さまは私にウィンクをとばす。何もかも心得ていてよ、の合図だ。私もぱちんとウィンクを返す。
『せっかくですので、特別な席にご案内しましょう。ちょうど個室が空いております』
お姉さまは厨房に顔を突っ込んで、慣れた様子で声を上げた。
「あなた! 私の後輩を賓客室に案内しますからね!」
返事を待たずに彼女はワンピースの裾をさばき、「ではこちらへ」と階段を示す。
私たちは彼女の案内に従って二階へとあがり、個室へと入った。赤い長毛の絨毯がしかれ、黒檀の重厚な机と椅子が鎮座している。
私たちを席に座らせた後、お姉さまは私に、こっそり囁いた。
「今回ばかりは奢りじゃないわよ。次のお給金につけとくから」
くすぐったくなって、私は小さく笑った。
「光栄です。では出世払いで、二倍につけておいてください」
私たちは顔を見合わせて密やかに笑って別れた。ゴルトベルクさんはぼんやりとした顔で私たちを眺めている。
『仲のいい姉妹なんだな』
『はい』
私はメニュー表を広げて、彼らに見せた。
『今日は僕が代金を払いますから、好きなものを注文してください』
『いいんですか?』
エーベルさんが言うので、『僕が連れて来たんですよ』といたずらっぽく笑った。
『もちろん、食事代は僕が持ちます。一番高いものを頼んでいただいても構いませんよ』
ゴルトベルクさんはその言葉に、遠慮なくステーキを指さした。本当に一番高いものを頼む奴がいるらしい。
『……今日はシチューがおすすめらしいですよ』
そう言うと、あっさりシチューに鞍替えした。エーベルさんもシチューを頼むことにしたらしい。
私はベルを鳴らしてウェイターを呼び、ビーフシチューを三人前注文する。
『本当にいいんですか?』
遠慮がちなエーベルさんを前に、どんと胸を叩いてみせる。ゴルトベルクさんはじっと私を見つめていた。
『ハタノ。お前は……』
彼は口ごもるというよりも、言葉を選んでいるようだった。私が首をかしげてそちらを見ると、彼はやっと考えがまとまったようだ。
『お前は、どうして通訳になった?』
『自分のできることをやりたかったからです』
『できることをして、どうなる』
『自活がしたいんですよ』
私が当たり前のように答えると、彼は黙り込んだ。しばらく彼は目を伏せて考え込み、頷いた。
『そうか』
私を見つめるその目に、何か得体の知れなさを感じた。反射的に背筋を伸ばす私に、ゴルトベルクさんは居住まいを直す。
『まあ、なんだ。……来年もよろしく頼む』
私はそれに頷いた。だけどなんと返すのが正解なのかは、分からなかった。
逃げ出した男装ヲトメ、金髪碧眼の商人に通訳として雇われる。~相場も分からないボンボンの尻叩きをしていたら、なぜか溺愛がはじまりました~ 鳥羽ミワ @attackTOBA
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