記憶の脆弱性に関する耐久実験結果

「記憶、というものは考えているよりもずっと不確かなものなのだよ」


しんしんと降りしきる雪の中、薄暗い街灯だけが頼りの道で、あなたはそう言い切った。


「五分前に世界が誕生したという仮説を、結局は誰も否定できないのさ。キミは一秒前に右足を前に出した記憶があるだろうけど、それは左足かもしれないし足を降ろしていたかもしれない。もしくは立ち止まって靴紐を結んでいたかもしれない。無限大の可能性を持っているのは未来だけじゃあないのだよ」


「……それはないでしょう」


「ないとは言いきれないと言っているだろう。証拠がない過去は不確かで、あらゆる現象が入り乱れる未来は不安定だ。確かなのは今、この目で見ている現在のみ」


ざくり、とあなたは雪を踏みしめる。赤いチェックのマフラーと、古ぼけた茶色のコートにはうっすら雪が積もっていた。


「人間はいつだって自分自身という色眼鏡をかけて暮らしているのだよ。都合がいいように記憶をねじ曲げ、誇張し、いじくり回す。そんな加工品を馬鹿正直に信じるなんぞ愚の骨頂」


「ボロクソ言いますね」


びゅうっと風が吹いて、思わず学ランの襟を引き締める。マフラーはしているが手袋はない。持ってくればよかったなと少し後悔する。


「添加物山盛りのスナック菓子と一緒で、うまいが体には悪い。しかしうまいから毒性には見て見ぬふりをする」


「うまけりゃいいでしょうに」


「結果、早死にしてもか?」


「そのうまい毒を食った記憶は、もしかしたら偽物かもしれませんよ。世界は実は五分前に出来たのかも」


「……成程、こりゃ一本とられた」


肩をくすめたあなたの背中をぼんやり眺めながら右足を前にだしてみた。吐いた息は白い。髪についた雪を払う。


「話を戻そうか」


ピカピカに磨かれた革靴で雪を踏み固めながら。


「記憶は不確かだ。紙などの記録媒体に記録しなければ、それは昨日見た夢と価値は同等になる。どうやったって記憶は歪み、ねじ曲げられ、あやふやになってしまうのだよ」


「結局何が言いたいんですか」


あなたの話はいつだって回りくどい。そろそろ本題に入ってもらおう。

あなたは歩みをとめた。相変わらず雪は降り続けている。白く染め上げて、本来の景色を分からなくする。


「キミは自分の名前が本当に自分の名前だと言い切れるか」


自分は、柊雪風。


「キミは自分が本当に学生であると信じられるか」


自分は、この町の公立高校に通う学生。


「キミは自分の家族が本当の家族だと疑えるか」


厳しくて優しい母、おおらかで面白い父、生意気だけど可愛い弟。本当の家族。


「キミは、自分が本当に何の変哲もない道を歩いていると思っているのか」


道、道だ。探せば同じようなところは山ほど見つかるであろう、みちのはず。


「キミは、私が──目の前にいる人物が何者か知っていると断言できるのか」


……だれだ。


知らない知らない知らない! 誰なんだコイツは! 何故こんな場所で夜に二人で歩いている?! 何故毒にも薬にもならないような話をし始めた?! 目的はなんだ何者なんだ意味が分からないだれだだれだだれだ!


「質問を繰り返そう」


だれかは振り向く。茶色いコートに降り積った雪がパラパラ舞った。赤いマフラーがたなびく。革靴は雪で見えなくなる。


「キミは、ここが人間の歩ける道だと信じているのかね?」


かたん、かたんと足元に振動が伝わる。後ろから強烈な光で照らされた。思わず下を向けば、木と鉄で作られた線路があって。

だれかから視線を外して後ろを見やった瞬間、柊雪風の意識は赤一色になった。


……


人間の記憶は不確かである。

……それはもう何度も聞いたって? あぁ、すまないね。しかし、これが大前提なのだよ。これだけでも頭に入れておいてくれたまえ。

そう、記憶というのはひどく頼りない。自分の部屋の配置が勝手に変わっていたとして、それに気づける人間はどれぐらいいるのだろう。よくいくコンビニの店員さんがまったくの別人になったら、人間は気づけるのだろうか。勘違い、思い違い、気の所為、幻覚幻聴。簡単な言葉で違和感は覆せる。そうだったっけ、そうだったかも、で片付けられる。

ならば、その不確かには付け入る隙があるんじゃあないのか。

赤の他人に親しげに話しかけられたとしよう。「久しぶりだな! 元気だったか?」なんて言われて、すぐさま「誰だお前」と言い返せるヤツは少数派であろう。過去に会ったことあったかも、もしかしたら自分が覚えていないだけかも、なんて可能性に踊らされ、否定できなくなる。そのままずるずる関係を続けてしまうかもしれない。それほどまでに記憶は縋るには頼りなさすぎる。

もしくは、よくある怪談話。

十人で遊んでいたはずなのに、数えてみたら十一人いた。ちゃんと全員友達であるのに、いるはずのない人間が紛れ込んでいる。木の葉を森に隠すように、友人たちの中に紛れ込んで素知らぬ顔して遊び続ける、赤の他人。

それを、利用してやるのさ。

他人を友人に、線路を生活道路に。都合の悪い景色は雪で覆い隠して、顔、髪型などの姿形ではなく、誰でも真似できる服や装飾品で印象づけて。

……あぁ! かわいそうな柊雪風! なんにも知らぬ哀れな学生よ!


──是非とも、私の身代わりとなってくれ。


……


「記憶というのは、意外と頼りにならないんです」


「ふーん」


ザクザク雪を踏みしめて、アンタは呟いた。黒いマフラーは雪が積もって白くなっている。

学ランについた雪を払い、歩きながらアンタは続けるのだ。


「きみは一秒前に右足を前に出した記憶があるだろうけど、それは左足かもしれないし足を降ろしていたかもしれません。もしくは立ち止まって靴紐を結んでいたかも」


「んなワケねえじゃん」


「では、証拠は? その瞬間の写真があると?」


「……ねえけど」


「じゃあ分からないじゃないですか。……世界が五分前にできたのを、誰も否定できない」


もっともらしいことを言いながらアンタはかじかんだ指先を擦り合わせる。俺は見てるだけで寒くなったので、ジャケットのチャックを一番上まで上げた。


「きみの記憶は確かですか? 名前は言えますか。住所は? 身分は年齢は」


ローファーで降り積ったばかりの雪を潰しながら。


「見ている景色と状況に、おかしな点がないと言いきれますか?」


黒いマフラーをした学ランの少年はそう言って、俺にニッコリ笑いかけるのだ。

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異形とだれか 佐藤風助 @fuusukesatou

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