第73話
その瞬間は、翔の予期しないタイミングで訪れた。
もう少し待つと思っていた。
心の準備は、まだ万全ではない。
「うん」と返事をした翔は、危うく空気で喉を詰まらせそうになった。
心臓がふいに騒がしくなる。津波のような血流が全身をめぐる。
告白した時も緊張したが、今はその時と違った緊張感がある。大丈夫、と思っているからこそ、そうじゃない答えが返ってくるのが怖くなる。
だが、どんな結果でも受け入れる。その覚悟を決めた。
翔は顔を上げ、前を向き、姫奈と向き合った。
姫奈の瞳には、緊張で険しくなった翔の顔が映る。姫奈もまた、強張った表情をしていた。
見つめ合う二人。
放課後の緩やかな空気は、二人の周りにだけ重々しく滞留している。
姫奈は口を開かないまま、黙って翔の顔を見つめる。
にらめっこのようになる。重かったはずの空気は、次第に柔らかく二人を包むものに変わっていく。
「ふっ」
吹き出すように姫奈が笑う。
「好きだよ! 翔くんのこと」
そして、いつものように天真爛漫な笑みを見せた。
「……本当、に? 本当の本当に⁉︎」
翔は嬉しくて、まるで夢の中にでもいるようで、確かめずにはいられない。
「恥ずかしいから、何回も言わせないでよ」
姫奈は頬を膨らませる。だが、もうその頬はすっかり緩み切ってしまっていて、幸せが漏れ出てしまっている。
「こういうの自分から言うの初めてだからさ、私も。なんて言っていいのか分かんないや。とりあえず、これからよろしくお願いします」
差し出された手。
翔はその手を握り返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
やがて手が離れ、二人はカットの合図がかけられたように改まった。
「……、……帰る?」
「……そうね、帰ろっか」
「そういえば、オレの制服は……」
「今日は私がこれ着て帰っちゃダメ?」
「さすがにダメ。そしたらオレがCA姿で帰らなきゃいけない」
「いいじゃん似合ってるし」
「さすがに恥ずかしい」
「えー、ダメなの?」
「上目遣いしてもダメ」
「あ、そうだ!」
何かを思いついたらしく、姫奈は悪い顔になって「ししし」と笑う。
「罰ゲームの話、覚えてる?」
「さあ、何のことだか……」
翔は口笛を吹いてごまかそうとしたが、緊張したからか喜びで口が緩んでしまっているからか、うまく吹けなかった。
「約束したわよね。翔くんが一位を取れなかったら、何でも私のお願い聞くって」
「確かに言ったけど……」
まさか姫奈に人気投票で一位を獲られたことが、こんなところで使われるなんて。
「じゃあ私からのお願い。私が着てる制服を脱がしてくれない?」
「……え」
「言っておくけど、ブレザーだけだからね」
「分かってる、けど」
急に翔の指先が震え始めた。緊張を悟られないように、優しくブレザーの襟を持つ。右肩から脱がせる。
下からワイシャツ越しに姫奈の華奢な肩が現れ、翔は息をのむ。
冷静に、冷静に。次は左肩。
脱がせようとして前のめりになった時だった。
姫奈が急に背伸びをした。
顔が急に近づいてきて、気付いたら、翔の頬には柔らかい感触が残っていた。
「………………‼」
情報の処理に頭が追いつかず、危うく気を失いそうになる。
脱ぎかけの制服を自ら脱いでしまった姫奈は、それを抱きしめながら一歩翔に近付いた。
返してくれるのかと思ったが、姫奈の口から飛び出したのは、またしても翔の予期しない言葉だ。
「……翔くんも、私にチューしても、いいよ?」
「……い、いいのか?」
「──だって、私だけなんて、不公平じゃない。ほら早く、言うこと聞きなさいよ。私が一位になったから、何でも言うこと聞くんでしょ?」
「でもそれ二つ目……」
だが、もう逃れられない。
姫奈は長いまつ毛をそっと伏せ、背伸びしながら少し唇をすぼめる。
翔は震える唇を軽く結ぶ。前屈みになり自分の顔を姫奈の顔に近付ける。
もう、少し。
初めてだから正しい所作なんて分からない。暗闇の中を彷徨うように、姫奈の肩にそっと手を置いた。
もう少し。
その時、翔の世界は本当に暗闇に包まれてしまった。
頭上には布の感触。いつもの肌触り。
それは翔の制服だった。姫奈が二人の頭を翔の制服で覆ってしまったのだ。
「ねえ、暗闇の中ならさ、何しても分からないよね」
いつか聞いたことのある言葉と共に、密着する姫奈の体。
幸せすぎて息ができなくなる。
いいんだろうか、こんな。好きな人と本当にこんなことをしてしまっても。
正体不明の葛藤に苛まれる。
暗闇の中で姫奈の感触を確かめながら、唇を近づけ、また遠ざける。ゆりかごのように。
あと一歩が踏み出せない。
だが、いよいよ翔が覚悟を決めた、その時。
制服によって作られていた暗闇が突然消え、光が差した。姫奈が制服を下ろしてしまったのだ。
赤い顔をした彼女は、そのまま翔の胸にもたれかかる。
「姫奈、大丈夫か?」
「ちょっと、酸欠かも」
「無理するから」
「違うわよ、翔くんが焦らすから」
言葉に詰まる翔を見て、姫奈は「うそうそ」と優しく笑う。
「翔くんのせいじゃないわ。私が、その、気持ちを抑えきれなくなっちゃっただけ。まだ完全じゃないけど、克服できたのが嬉しかったから……」
目を見つめ、姫奈は「好きよ」と甘い声でつぶやく。
「オレも」
翔は姫奈の頭を撫でる。
「あ、見て!」
大人っぽい雰囲気から一転、姫奈は一気に幼い表情に戻った。
空を指さして満面の笑みを見せる。
その先には、虹がかかっていた。
「綺麗……!」
それはまるで、二人の想いが結ばれたことを祝福するゴールのようにも、これから続いていくであろう幸せな日々への入り口のようにも見える。
それを見上げる姫奈の笑顔は太陽よりも眩しく、まるでこの虹すらも姫奈によって生み出されたもののように、翔には見えた。
光あるところに闇が生まれ、その光が強いほど影は濃くなる。
それは、一般的には事実なのかもしれない。
だが今の翔なら、そんなことは嘘だ、と笑い飛ばせる。
照らしてくれる光が強いほど、心は何色にも染まらず純粋になれる。
二人の透明な影が、それを物語っている。
「翔くん、私、これからもっと翔くんと、楽しい瞬間を一緒に積み重ねていきたい! ずっと、ずっと! ……欲張り、かな?」
「ううん。姫奈らしい」
えへへ、と照れくさそうに笑う姫奈。
翔はその額に優しく口づけをして、祝福を添える。
誰のことも好きにならない男──七瀬翔は、虹ヶ丘姫奈と初めての恋に落ちた。
それは、透明なままの恋だった。
〈了〉
透明なままの恋 石花うめ @umimei_over
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