第72話
「クラス別の売り上げ、全校一位は、二年A組の『そらの旅』です!」
気付いたら、翔は体育館にいた。
文化祭が終わったらしい。司会の生徒の声で現実に引き戻された。今は全校生徒が体育館に集まって文化祭の総括をしている真っ最中だ。
あのとき姫奈と目が合ってからのことを、翔はあまり覚えていない。そういえば総括の前に体育館で演劇部の演劇を見た気がするが、内容は思い出せない。
だが今、司会のアナウンスを聞いて、じわじわと喜びが溢れてきた。
少し間が空いてから、翔のクラスメイトたちの歓喜の声が体育館に響いた。
「それではクラス代表の方、誰か一人、表彰状を受け取りに前へ来てください」
クラス全員の視線が姫奈に向く。
男子もたくさんいる全校生徒の前で話すことを、翔は心配した。
だが、姫奈はすぐに立ってステージに向かった。上下とも翔の制服を着て、男装をしたまま。暗い教室内だとビシッとしたスーツのような着こなしに見えたが、体育館の明かりの下で見ると、袖は手を覆うほど余り、裾は地面に擦らないように何回も折り重ねているのが分かった。そんな着こなしが可愛らしい。
翔はCA衣装のまま姫奈を見守る。
姫奈が満場一致で代表に選ばれたのは、彼女が人気投票で一位になったからだ。
午後に姫奈が男装してからというもの、女性客が絶えず訪れるようになった。その結果、姫奈は人気投票で翔を抜かすだけに止まらず、クラスの売り上げまでも一位にしてしまった。
ステージ上でマイクを持った姫奈は、クラスメイトへの感謝の気持ちを述べた。
二年A組は私が私らしくいられる場所で、温かい空気で迎えてくれる皆が大好きだ。そう声高に宣言した。
「虹ヶ丘さんは男装がとても似合っていますが、モデルにした人はいるんですか?」
盛り上げようとしたのか、司会の生徒が付け加えた。
姫奈は堂々と答えた。
「私の好きな人です」
体育館がざわつき始める。
「──、それは、俳優さんや声優さんですか?」
「ふふっ、秘密です」
姫奈はまたしても唇に人差し指を当てながらウインクしてみせる。カフェで翔が声をかけた時と同じ表情だ。一瞬目が合った気がして、翔の胸が熱くなる。
姫奈は一礼してステージを降りた。体育館は男子生徒の落胆した声と女子生徒の黄色い声援が入り混じり、混沌に包まれた。
こうして文化祭は幕を閉じたのだった。
翔たちは教室に戻り、片付けを終わらせた。夢の空間と化していた教室は、魔法が解けたみたいに日常に戻ってしまった。メイクも落とし、皆「そらの旅」のキャストから生徒に戻った。
だが、姫奈と翔だけは、未だに片足を文化祭に突っ込んだままでいる。
姫奈が翔の制服を着続けているのだ。片付けの後のホームルームでも、姫奈は翔の制服を着たまま席に座っていた。姫奈が着替えなければ翔は自分の制服を着ることができない。そのため、翔は依然CA姿のままである。
ついに放課後になった。翔は姫奈の席に行き、制服を返すように言った。
だが、姫奈は「いやだ」と言った。
「返してほしかったら、私を捕まえてみなさい」
軽く舌を出し、そのまま教室を飛び出してしまった。
一体どういうつもりなんだ。
意図がよく分からないが、翔は言われるがまま後を追う。
人の多い廊下を、姫奈は早歩きで進んでいく。翔は姫奈を見失わないように、一定の距離を保ちながら歩く。
生徒玄関を出ると、お互い軽い駆け足になった。
「姫奈、どこ行くんだ?」
「いいから付いてきて!」
翔が全力を出せば、とうに捕まえられているだろう。だが、距離を縮められない。男の翔が後ろから手を触れたら、姫奈に怖い思いをさせてしまうに違いないからだ。
南校舎の裏にある、誰も使わない特別棟。姫奈はその非常階段を上り始める。錆びついた螺旋階段に、二人だけの足音が刻まれる。
「走ったら危ないぞ姫奈」
「もうちょっと、もうちょっとだから!」
何がもうちょっとなのか分からないが、翔は姫奈の背中を追う。
特別棟は三階まであり、螺旋階段はその屋上へと繋がっていた。これ以上先は無い。だが、屋上に着いた姫奈はフェンスに向かって走り続ける。
「危ないよ姫奈、戻って──」
翔が本気で止めようとして手を伸ばした、その瞬間。
姫奈が急に振り返った。
「あっ──」
思わず目を閉じる。シャンプーの甘い香りがぶつかる。
目を開けると、翔は姫奈に強く抱きしめられていた。
「姫奈⁉ だ、大丈夫⁉」
姫奈は翔の胸に顔を埋めたまま、「うん」と答える。
何がなんだか分からない。沸騰しそうな頭を回転させ、翔はこういう時こそ男らしく振舞おうという結論に至る。
冷静に、姫奈を安心させるように低い声を作る。
「姫奈、どうしたの?」
「ずっと、こうしたかった」
行き場を失っていた翔の両手。姫奈はそれを持ち上げ、自分の頭に置いた。
頭をなでろ、ということなのだろうか。
翔はガラス細工を愛でるように、優しく、手を動かす。
姫奈は何も言わない。ただ、強く翔の体を抱いていた腕が少しずつ解けてゆく。強張っていた体から力が抜けてゆく。
「もう、平気なのか?」
「うん。でも、翔くんだけよ」
どうやらまだ、姫奈は男性恐怖症を完全に克服したわけではないらしい。
「翔くんだけは特別なの。他の男子は無理だけど、翔くんとだったら私は何でもできちゃう。ほら、今だって、こうして抱っこしてる」
「無理はしてない?」
翔が尋ねると、姫奈は頭に乗っている翔の手を持ち、今度は体の正面で握った。
使っている日焼け止めは、ローズマキアだ。
「私ね」
一歩下がった姫奈が翔の顔を見上げる。
「翔くんを目標にしたのよ、文化祭のとき。翔くんが藤原さんに聞いたことを、私に教えてくれたじゃない。『憧れに近付くために努力するから、人は変われる』って。だから私、『そらの旅』がピンチになった時、クラスの救世主になりたいって思ったの。私のピンチに駆けつけてくれた、翔くんみたいに」
体育館で姫奈が全校生徒を前にして言った「好きな人」というのは、やはり。
「翔くんのおかげで、私は活躍できたのよ。それに、翔くんの制服を着てたら、なんだか守られてるみたいで、何でもできそうな気持ちになれた。いつもそう。翔くんの存在が、私に勇気をくれるのよ」
姫奈は何かを決意したように頷き、急に姿勢を正す。
「……、この前の返事、してもいい?」
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