後編

 そんなふうに考えを巡らせていると、ふと傍らの机の上に何かが足りないことに気付いた。


 万年筆だ。


 いつもメイド服のポケットに入れて持ち歩き、自室に戻ったら机に置いているもの。

 それが無い。


 私は踵を返し、ハンガーに掛けたメイド服を探る。

 ポケットには無い。


 では別の場所に置いたか、落としたのだろうか。

 棚の上、床の隅、クローゼットの中やベッドの周辺に至るまで探してみる。

 が、万年筆はどこにも無かった。


 もしや、お屋敷のどこかに……。


 私は頭を抱える。

 しかし自室に無いなら、他の場所にあるに違いない。


 予備のペンはあるが、あの万年筆が無いと困る。


 仕方なく、私は持ち出し用のランプを片手に部屋を出た。


 万が一にもご主人様を起こさないよう、そろりそろりと廊下を歩く。

 もうブラウニーは居なけれど、夜のお屋敷はそれなりに怖い。


 私は暗くて不安になる景色よりも、手元のランプと空気を満たす魔法の温かさに意識を向けた。


 確か今日、午前の仕事の時に2階の物置き部屋に入って……そこで整頓中に、裾が少しめくれてしまった。


 ほんの些細なことだから気にしていなかったが、もしかするとあの時にポケットから万年筆が落ちたのかもしれない。


 私は長い廊下を、扉の数を数えながら歩き、なんとか件の物置きへと辿り着く。


 慎重に扉を開けて中に入るも、真っ暗で何も見えない。

 明かりはどこだったか。


 私はランプの光を頼りに、手を這わせて照明を探す。

 と、そこで、記憶にある物置きの景色と目の前に見えるものが、どうやら違うらしいことに気が付いた。


 部屋を間違えてしまったか。


 慌てて探る手を引っ込めようとすると、トン、と何かにぶつけてしまった。


 あ、と思うと同時に部屋がパッと明るくなる。

 手が当たったのは、奇遇にも探していた照明器具だったらしい。


 しかしもう照明に用は無い。

 再び器具に触れようとする……より前に。


 私の目に、部屋の全容が飛び込んで来た。


 壁沿いに並んだガラス棚と、棚の上に上げられた重たそうな壺、あちらとこちらに置かれた白いテーブル。

 それだけの部屋だった。


 が。


「ひっ……!?」


 私は近くのテーブルの上に置かれたものを見て、悲鳴を上げる。


 それは血に塗れた、小さな茶色い服だった。


 明らかに、確かに、今日の昼に見たあの小人の服だ。

 傍には使ったまま放置されているのであろう、果物ナイフ。


 ここで何があったのか、理解するには十分だった。


「メイドさん?」


 私は弾かれるように振り返る。


 知らぬ間に明かりの点けられていた廊下に、ヴィラ様が立っていた。


「どうしたの、こんな夜更けに。眠れない?」


「いえ、あの……」


 部屋に入って来る彼女に、私はじり、と後ずさる。


「これを探していたのかしら?」


 ヴィラ様は懐から何かを取り出した。


 私が探していた、万年筆だった。


「ふふ、おっちょこちょいね。廊下に落ちていたわ。さあ、返してあげましょうね」


 万年筆を手に持ったまま、ヴィラ様は歩み寄って来る。


 普段通りの、優しい表情と美しい姿。

 けれども私にはそれが、ひどく恐ろしいものに見えた。


 だって、このお屋敷に居るのは私とヴィラ様だけ。

 テーブルの上にある果物ナイフを使ったのは、間違いなくヴィラ様だ。


 だとしたら。

 もしかして、夕食の小さなステーキは。


「さあ、メイドさん?」


「っ!」


 ヴィラ様が、目と鼻の先まで近付いて来る。


 私は咄嗟に、彼女の横を走ってすり抜けた。


 そう広くないスペースを無理に通ったせいで、横のガラス棚に肩が強くぶつかる。

 痛かったけれど、そのまま廊下まで走り抜けた。


 くるりと振り返る。


 こちらを見る、ヴィラ様と目が合った。


 そして、ちょうど。

 ヴィラ様の頭めがけて、棚の上の壺が落ちて来るのが、見えた。


 ゴツ、という鈍い音が響く。


 壺共々、ヴィラ様は床に倒れた。


 ゴロ……と壺が転がる。


 ヴィラ様は動かない。

 声ひとつ上げない。


 静寂が訪れる。


 私は、全身から血の気が引くのを感じた。


「あ、ああ……!!」


 やってしまった。


 なんて、恐ろしいことを。


「お……お医者様を……!」


 震える膝を叱咤し、私は全力で走り出す。


 街に行って、お医者様を呼ばなくては。


 廊下を抜け、階段を駆け下り、エントランスへと向かう。

 心臓がバクバクと鳴っている。


 玄関扉が見えた。


 早く、早く。


 私は扉の取っ手に手を伸ばした。


「メイドさん」


 ぎくり、と動きが止まる。


 中途半端な姿勢のまま、私は硬直した。


「ご、主人、様……?」


 ゆっくりと、背後を見る。


 階段の上に、ヴィラ様が居た。


 無傷だ。

 痣のひとつもついていない、いつも通りの美しいお姿だ。


 だが、違った。


 直感的にわかった。

 彼女は私の知るヴィラ様ではない。


 少なくとも、今まで見て来た彼女とは、違う。


「どうしたの?」


 ヴィラ様は1歩1歩、階段を下りて来る。


 ……声が。


「困り事かしら」


 声が、聞こえる。


「ふふ、そんなに緊張しないで」


「慌てんぼうね」


 そこら中から、聞こえてくる。


「服が汚れているわ」


「何も怖いことは無いのよ」


「私のメイドさん」


「ステーキは美味しかった?」


 喋っているのはヴィラ様だ。


 けれども声は、声が、あちこちからしていた。


 壁から、天井から、絨毯から、手すりから、扉から。

 まるでお屋敷全体が喋っている、ような。


「ねえ、メイドさん」


 愕然としているうちに、ヴィラ様は階段を下り終えた。


 上品な足取りで、歩いて来る。


「っい、いや……!」


 私は玄関扉の鍵を開け、外へと飛び出した。



***



 雪が降っている。


 息を吐くたびに、温もりが白く凍って、空気に溶けていく。


 私はお屋敷の外庭を走った。


 このままでは逃げられない。

 なぜだかそんな気がしていた。


「メイドさん、外は寒いでしょう。中へ入っていらっしゃい」


 すぐ近くから声がする。


 死に物狂いで、私は足を動かす。


 雪と暗闇で視界が悪い。

 それでも何とか、記憶を頼りにペガサスの小屋へと辿り着く。


「お願い、お願い……!」


 私はヴィラ様に言われたことを思い出す。


――乗る用事がある時以外は目隠しを取らないでね。


――どこかに飛んで行ってしまうから。


 そうだ、どこだっていい。

 ここじゃなければ、どこに連れて行ってくれてもいい。


 私は飛び乗る準備をして、ペガサスの目隠しを外す。


 と。


 ぼたた、と何かが足元に落ちた。


 粘りけのあるそれは、氷のように冷たく、私の靴にまとわりつく。


 私はペガサスの目を見ようとした。

 見られなかった。


 ペガサスには、目が無かった。


 いや、目だけではない。

 その周辺ごと、何も無いのだ。


 ただ黒い空洞だけが、ぽっかりと口を開けている。

 そこから泥のような黒い汁が湧き、零れ出ていた。


「な……に、これ」


 私はよろめき、後ずさる。


 途端に、ペガサスは笑った。


 歯を剥き出しにして、人間のような口の形で、ゲタゲタとしゃがれた声で大笑いした。


 身の毛がよだつ。


 呆気に取られる私、その後ろで、さくりと雪を踏む音がした。


 反射的に振り返れば、小屋から抜け出したらしい、グリフォンが私を見ている。


「あー、アー、あー、あーー」


 淡い希望を持つ暇すら無い。


 グリフォンは嘴を有り得ないほど広げ、何ともつかない声を出し始めた。


「あーー、あー、ア、ア、あーー」


 首をぐりぐりと回しながら、グリフォンは近寄って来る。


 目は零れ落ちそうなほど見開かれ、眼球がほとんど丸見えだ。


 冷気が首筋にまとわりつく。

 私はもう生きた心地がせず、やぶれかぶれに走り出した。


 何にも頼れない。

 自力で逃げるしかない。


 お屋敷の敷地を横切り、塀に手をかける。

 門は使える気がしないからだ。


「うふふ。お転婆ね、メイドさん」


 ヴィラ様の声は、まだ聞こえる。


 不幸中の幸いか、ペガサスとグリフォンの気配は無い。


 塀には取っ掛かりが無いものの、高さ自体はそれほどだ。

 登れるはず。


 私は必死で地面を蹴り、手を伸ばす。


 もう少し。

 もう少しで、塀の上に手が届く。


 とにかく、このお屋敷の敷地から出るのだ。


 そしたら森を抜けて、街に出て、誰でもいいから人に助けを求めよう。


 それで、その後は――


「だーめ」


 耳元で声がした。


 まばたきをする。


 私は、雪の積もる地面の上で、仰向けになっていた。


 視界に、ヴィラ様だけが映っている。


 ヴィラ様が私に覆いかぶさっているのだ。


「メイドさん、捕まえた」


 私の手首をしかと掴み、彼女は笑う。


 冷たい。


 ヴィラ様の手は、氷のように冷たかった。


「ご、ご主人、様……」


「いいのよ、メイドさん。私たちの仲じゃない」


 身を屈めて、私の耳元に顔を寄せるヴィラ様。


 抵抗できない。

 怖い。

 体に力が入らない。


 何かが私を縛っている。


 でも、これは、魔法じゃない。


 絶対に、魔法じゃなかった。

 だってこんなにも冷たいのだ。


「メイドさん。制約、2つも破ってしまったわね」


 ヴィラ様は囁く。


 彼女が声を発するたびに、体の芯から凍り付くような心地がした。


「夜中に屋敷の外に出ない。私の体に触らない。……ね、3つのうち、2つも反故にしてしまったのよ」


 頭がぼうっとしてくる。


 気持ちが良い。


「今更、最後の1つを守ったところで意味は無いわ。メイドさん。もう制約は、守らなくて良いのよ」


 ヴィラ様。


 私の、美しいご主人様。


 捧げられるものは何でも捧げたい。

 身も心も、髪の1本に至るまで、全て。


「……わ」


 口を開く。


 冷気が体内に入って来る。


「私の、名前は――」


 ゆっくりと、しかしはっきりと、私は自分の名を声に出した。


 ヴィラ様が顔を上げ、再び私を正面から見つめる。


「よくできました」


 笑った。


 喜びが胸いっぱいに広がる。


 雪が降っている。


 冷たくて、気持ちが良い。


 ヴィラ様は私を抱き締めた。



 ああ、そうだ。


 私、あの万年筆で、両親に手紙を書こうとしていたんだった。


 なぜだかずっと、忘れてしまっていた。


 でも、まあ、いま思い出せたのだから、いいか。

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日の陰り、闇の眩き F.ニコラス @F-Nicholas

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