中編

 こうして、私のお屋敷での生活が始まった。


 朝は日が昇る少し前に起床、夜はヴィラ様がお休みになるのを見届けてから就寝。

 食事は必ずヴィラ様と共に摂り、休憩時間にはヴィラ様に勧められた本を読む。


 規則正しく、順風満帆な毎日。

 しかし、悩ましいことがひとつだけあった。


 音である。


 初日に食堂で聞いた壁を叩く音や、次の日に聞いた何かが倒れる音のような、「何も無いのに聞こえる音」が私を度々困らせていた。


 ある時は、微かに響く金属の擦れる音。

 ある時は、骨にまで轟く落雷のごとき音。


 音の種類や大小は様々である。

 ただ幸いにも、音は鳴るだけで実害は無い。

 私が少し驚くだけだ。


 ヴィラ様もペガサスとグリフォンも、音の影響は全く受けていない。

 音が実在のものか幻聴かは置いておき、放っておいても大丈夫そうだった


「行ってらっしゃいませ、ご主人様」


「ええ。夜には戻るわね」


 私は買い物をすると言って出かけるヴィラ様を見送り、昼下がりの掃除に取り掛かる。


 お屋敷はヴィラ様の魔法で美しく整えられているが、どうしても埃や汚れは少しずつ溜まっていく。

 それを人力で綺麗にするのが、メイドたる私の仕事だ。


 今日は窓ふきを中心的にしよう。


 バケツに水を汲み、雑巾を持って、私は廊下を移動する。


 窓枠には特に汚れが溜まりやすい。

 ご主人様が不快な思いをされないよう、徹底的に磨かなくては。


 私は長い廊下にずらりと並んだ窓と対峙した。


 広いお屋敷には、当然、沢山の窓がある。

 のろのろやっていては文字通り日が暮れてしまうため、ここが腕の見せ所だ。


「よしっ……!」


 腕をまくり、私は早速、窓ふきを始める。


 拭いて、雑巾を洗って、次の窓に移動、また拭いて、雑巾を洗って、次の窓に移動。

 水が濁って来たら汲み直し、戻って続行。


 素早く、かつ丁寧に作業を繰り返す。

 気付けば1階の窓は全て拭き終わり、2階へと突入していた。


 外はまだまだ明るい。

 この調子で行けば――と思ったその時。


 コツ、コツ……と背後から足音がした。


 ヴィラ様のそれと同じに聞こえて、私は慌てて振り返る。


「申し訳ありませんご主人様! もうお帰りになって――」


 だが、しかし。


「……?」


 誰もいない。


 また例の類の音だろうか。


 しかし「足音」がしたのは初めてのことである。

 それもヴィラ様の歩く音と酷似しているなんて。


――コツ、コツ、コツ……。


 私が困惑している間も、足音は止まない。

 音が長く続くのもこれまた前例に無いことだ。


 よく聞けば、足音は段々私から遠ざかっている。


 廊下をゆっくりと進み、突き当たりを……恐らく曲がって、右へ。

 遠くなって自然と消えるまで、足音は聞え続けていた。


 そこでふと、私は思い立つ。


 あの音の向かった方に、何かあるのだろうか? と。


 好奇心半分、警戒心半分だ。


 音が新たな動きを見せたということは、私に対する何かのアプローチかもしれない。

 あるいは、お屋敷かヴィラ様への悪意ある行為かもしれない。


 いずれにせよ、初めて「進行方向」を示した音に、探りを入れない手は無いだろう。


 私はいったん水を汲み換えたばかりのバケツと雑巾を置き、小走りで足音の進んだ方と向かう。


 いったい、何があるのだろう。

 音の正体を突き止められたりするのだろうか。


 妙な高揚感と共に、私は角を右に曲がる。


「あ」


 瞬間、得も言われぬ悪寒が走った。


 誰か居る。


 何も見えない。

 けれど、誰かが居る。


 廊下の先に。


――ズーッ……ズーッ……。


 何かを引きずっている。


 こちらに向かって来ている。


――ズッ、ズッ、ズッ……。


 音の感覚が狭まる。


――ザリ。


 持ち上げた。


――トタ、トタ、トタ……。


 軽い足音だ。


 裸足で歩いて来る。


――トタ、トタ、ト、ト、トトト……。


 段々音が早くなる。


 依然として、私の目には何も見えない。


 でも居る。

 近付いて来る。


「あ、あの……」


 耐え兼ねて、声を出した次の瞬間。


 バタバタバタバタ! と物凄い音を立てて、見えない何かは走って来た。


「っ!!」


 私は弾かれるように踵を返し、駆け出す。


 音は私を追って来る。


 明らかに1人分の足音じゃない。

 もしくは、二足歩行の生き物の足音じゃない。


 いや、そもそも、足の音ですらなかった。


 手。

 手で床を叩くような音だ。


 私の直感が警鐘を鳴らす。

 絶対に、追い付かれてはいけない。


 私は角を曲がってすぐの部屋に飛び込み、鍵を閉める。


 部屋は使われていない物置きだった。

 近くにあったテーブルを扉に付け、しゃがみ込んで息を潜める。


 心臓がドクドク鳴ってうるさい。

 全身の血液が沸騰しそうで、頭が痛い。


 膝を抱え、必死に呼吸を整える。


 ……音は聞こえない。


 もう行ったのだろうか。


 徐々に落ち着きが戻って来るも、廊下に出る気はまだ起きない。


 もし扉を開けて、そこにあの「誰か」が居たら。

 そう考えると恐ろしくて、身動きが取れなかった。


 しばらくそうしていると、コンコン、と扉がノックされた。


 びくりと肩が跳ねる。


 居場所がバレたのか。

 私はもう、ここまでなのか。


 恐怖で硬直する私だったが、聞こえて来たのは優しい声だった。


「メイドさん?」


 耳に心地よい、温かい声色。

 ヴィラ様だ。


 私はパッと立ち上がり、扉の方を見る。


「どうしたの? 大きい音がしたけれど」


 帰って来ていらしたのだ。


 私はじわりと溢れそうになる涙を堪え、テーブルを除ける。


「ご主人様……!」


 良かった、もう大丈夫だ。


 希望に満ち満ちた心持ちで、扉を開ける。


 そこには、誰も居なかった。



***



「あら、メイドさん。顔色が悪いわ。何かあったの?」


 お戻りになったヴィラ様は、出迎えた私の顔を見て開口一番そう言った。


 私は今度こそ本当にヴィラ様が帰って来たのと、自分の状態を察してもらえたのとが嬉しいやら安心するやらで、今までの出来事を一気にお話しする。


 まくし立てるように、そのくせ要領を得ず言葉を絞り出す私を、ヴィラ様は優しく見つめる。

 時おり、こくり、こくりと頷きながら、彼女は最後まで話を聞いてくださった。


「そう、そんなことがあったのね……」


 ヴィラ様の瞳が憂いと慈しみの色を帯びる。


「でも大丈夫。それはきっとブラウニーの仕業よ」


「ブラウニー、ですか?」


「ええ」


 ブラウニーというと、家に棲み付く妖精の1種だ。


 人が居ない間に掃除をしてくれるけれど、逆に散らかすこともある……との話を聞く。

 以前、私の友人が、自分の家にブラウニーが居ると言っていた。


 音で驚かすという話は聞いたことが無いけれど、有り得なくはない。

 それにヴィラ様が言うのであれば、きっとそうなのだろう。


「この屋敷に新しく来た貴女に、いたずらをしたのだと思うわ。私の前には現れないみたいだけれど……見つけ出して叱っておくから、安心して頂戴」


「ありがとうございます、ご主人様……!」


 私はホッと胸を撫で下ろす。


 よかった。

 本当に。


「それにしても、怖い思いをしたわね。気付けなくてごめんなさい。……そうだ、今日は一緒に寝ましょうか」


「い、一緒にですか!?」


「私が近くに居れば、滅多なことはして来ないはずよ。それに万一何かあっても、すぐに助けられるわ」


 そう優しく言われれば、恐縮よりも甘えたい気持ちが勝ってしまう。


 私はおずおずと口を開いた。


「で、では……お言葉に甘えさせていただきます」



***



 夕食を摂り、お風呂に入ったのち、私は自室ではなくヴィラ様のお部屋へと向かう。


 またあの音が驚かして来ないかと恐る恐る廊下を進み、突き当りの大きめの扉を開けると、ふわりと温かい空気が肌を撫でた。


「いらっしゃい」


 暖色の光が満ちた部屋の中、ヴィラ様はベッドに腰掛け、私に手招きをする。


「し……失礼します」


 私が中に入り、扉を閉めたのを確認してから、彼女はくるりと指を動かした。

 ふ、と照明が少し弱くなる。


「どうぞ」


 促されるまま、私はヴィラ様のそれと並べて置かれたベッドに座った。


 数秒、私とヴィラ様は見つめ合う。

 否、私がヴィラ様に目を奪われる。


 風呂上りで血色の良くなった彼女の肌は、思わず触れてみたくなるほど魅力に溢れていた。


 惚けた私の視線に、ヴィラ様は微笑みで応える。


「おやすみなさい、メイドさん」


 ややあって、ベッドに横たわり、布団を被るヴィラ様。

 私も同様に眠る姿勢をとった。


「おやすみなさいませ、ご主人様」


 ふ、と照明が消える。


 ほのかに甘い香りがしている。


 温かい。


 ヴィラ様の魔法を感じながら、私はゆっくりと眠りに落ちた。



***



 驚くほどよく眠れた。


 私は小鳥の鳴く声で目を覚まし、疲れも恐怖もすっかり取れた体で伸びをする。


 隣を見ると、ヴィラ様はもう居なかった。


 サイドテーブルには書き置きがあり、「厨房に居ます」とのこと。


 いったん自室へ行き着替えを済ませ、私は急いで厨房に向かう。

 と、ちょうど料理の乗った盆を手に、ヴィラ様が出て来るところだった。


「おはよう、メイドさん。よく眠れたかしら?」


「はい、おかげさまで……! あ、お持ち致します!」


「ふふ、ありがとう」


 手と手が触れないよう気を付けながら、彼女から盆を受け取る。


 窓からは朝の柔らかな日差しが入って来ており、晴れた空が顔を覗かせていた。


 日常が帰って来た。

 そんな気がして、自然と頬が緩む。


 私はヴィラ様と共に朝食を摂ってから、いつも通りの仕事を始めた。


 まずはペガサスとグリフォンの小屋へ。

 2頭とも心なしか機嫌が良く、私の頬をぺろりと舐めてじゃれついてきた。


 次に、落ち葉が溜まってきている中庭へ。

 落ち葉掃除は常なら少々骨の折れる作業だが、不思議と今回は早く終えられた。


 洗濯をすれば、汚れがよく取れた気がした。

 物置きの整理をすれば、自分でも驚くほど綺麗に陳列できた。


 調子が良い。


 私は昨日の恐ろしい体験などすっかり忘れ、清々しい気持ちで休憩時間を迎えた。


 自室で空気を入れ替えつつ読書をしていると、ヴィラ様がやって来た。


 手に籠を下げた彼女は、それを軽く掲げて微笑む。


「メイドさん、捕まえたわよ」


 見れば籠の中に、茶色い服を着た小人が入っていた。

 ブラウニーだ。


 ヴィラ様によって捕らえられたらしいブラウニーは、籠をガタガタと揺らして抵抗している。

 が、魔法がかかっているのだろう、どんなに力を入れても籠の扉は開かない。


 ヴィラ様は籠を自分の顔の高さまで持って来て、ブラウニーと目を合わせた。


「いいこと、ブラウニーさん。この子は私の大切なメイドさんなの。あまりいたずらはしないでくれるかしら」


 続いて、すい、と空いている方の手で空気をなぞる。


 すると籠の扉が音も無く開き、ふわりとブラウニーが宙に浮いた状態で出て来た。


「わかってくれた?」


 ブラウニーはなおも藻掻く。


 小さい手足を懸命に動かす姿は、ちょっと可愛らしい。

 これがあの音の主だったと思うと、怖がっていたことが下らなく感じられる。


 やがてブラウニーは身体を振り子のように大きく揺らし、ぽーんと窓の外へと身を放り投げた。


 その刹那、私と目が合う。

 豆粒のようなブラウニーの目は、きつく吊り上がっていた。


「あ……」


「出て行ったみたいね。もうこれで大丈夫よ、メイドさん」


「ありがとうございます。本来なら、私がご主人様をお守りする立場なのに……」


「いいのよ。私たちの仲でしょう?」


 ヴィラ様は私の目を見て、淑やかに笑う。


 どきん、と胸が鳴った。


 思考を挟まずして、思わず私は口を開く。


「あの……」


 ヴィラ様。

 私とヴィラ様の仲。


 まだ冬も越していないけれど、私たちの距離は確実に縮まっている。


 ヴィラ様がお優しいからというのが根本にあるが、きっとそれだけではない。


 時間と、行動が、信頼になっている。

 違いない。


 私は一生懸命に働いているし、いくらヴィラ様とはいえ共寝に近いことを使用人に許すのは、普通のことではないはずだ。


 私とヴィラ様は、ただのメイドとご主人様ではない。

 対等だなんて露ほども思わないけれど、それでも何か、特別なものがある。


 でも、そうだとしたら、ひとつだけ納得がいかない。


 どうして私は、ヴィラ様に名前を知っていただけないのだろう。


 こんなに近しい仲なのに、名前も知らないなんてことはおかしい。


 知ってほしい。

 ヴィラ様に、その麗しいお声で、呼んでほしい。


「私、私の、名前……は……」


 喉が震える。


 舌が動いて、最初の文字を発音しようとする。


 ヴィラ様。

 ご主人様。


 私の名前を、聞いてください。



――がらん!!



 は、と我に返る。


 たらいが落ちた時のような音。

 窓の外から聞こえた気がした。


 全くの意識外から飛び込んできたそれにより、私はそれまで何を考えていたのかさっぱり忘れてしまう。


 ややあって、状況を――ブラウニーの問題をヴィラ様に無事解決していただいたことを思い出した。


 ちらりと壁掛け時計を見れば、休憩時間は終了間際だ。


「あ、いえ、何でもありません。それでは失礼します」


 私はお辞儀をして、ひと足先に部屋を出る。


 妙に頭の隅がぼんやりしていた。

 安心して、気が抜けてしまったのだろう。


 両頬を軽く叩き、気合を入れ直して、私は次の仕事へと向かった。


 午前と同様やはり調子が良いらしく、私はお屋敷内の掃除や洗濯物の片付けなどを僅かの滞りもなく進めた。


 やがて日が落ち、夕食の時間。

 今日の食卓に上がったのはステーキだった。


 肉は小さいながらも味が染みており、とても美味しい。

 さすがヴィラ様である。


 馴染みのない味だったので肉の種類を尋ねると、「珍しい鳥よ」とのこと。

 恐らく、高級店などから取り寄せたのだろう。


 食事を終えたら、片付けをお手伝いし、お屋敷の戸締まり確認。

 お風呂に入ってヴィラ様のご就寝を見届け、自分も自室へと戻る。


 私は窓の外でちらちらと舞う雪を見ながら、カーテンを閉めた。


 まだ春は遠く、外では白い息が出る。

 けれどもこのお屋敷の中は、いつでも温かい。

 ヴィラ様のおかげだ。


 ……そう言えば、ヴィラ様はどのような研究をなさっているのだろうか。


 研究に使われているという部屋はいくつかあるが、立ち入りが禁止されているため中を見たことが無い。


 門外不出の、高尚な技術を高めておられるのか。

 あるいは、ヴィラ様は周囲への影響を気にしていらしたし、少々危険を伴うものなのかもしれない。


 いずれにせよ、私がずけずけと踏み込める領域ではないことは確かだ。

 そしてヴィラ様の研究が、世のため人のためのものであることも。

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