日の陰り、闇の眩き
F.ニコラス
前編
雪が降っている。
息を吐くたびに、温もりが白く凍って、空気に溶けていく。
私は森の中を歩いていた。
馬車も通れないような細い道は、しかし木々に埋もれることなく、ペンで引いた線のようにはっきりと続いている。
じきに日が暮れる。
厚い雲の向こう側から、太陽が弱々しい光を送っている。
急がなくては、約束の時間に間に合わない。
懐中時計を見る暇も惜しい。
段々と雪が積もって行く道の上、私はひたすら足を動かした。
鋭い風がマフラーやコートの隙間から入って来て、とても冷たい。
大きな鞄を持つ手も、手袋をしていてなおかじかんでいる。
防寒魔法の編みこまれた服があれば、と思うけれど、そんな贅沢品はとても手に入らない。
考えるだけ無駄だ。
早く、早く。
私は歩く。
歩き続ける。
ふと前を見ると、立派なお屋敷が目に入った。
――いつの間に、こんな近くまで来ていた?
寒さと歩くことに気を取られすぎていたのだろうか。
私は首を傾げる。
まあいい。
ともかく、中へ入ろう。
両手で持っていた鞄を左手だけに持ち替え、鉄製の門に右手をかける。
瞬間、にわかに強い風が吹き、門はひとりでに開いた。
私は再び鞄を両手で持ち、敷地の内へと入る。
すると今度は逆方向に風が吹いて、門が閉まった。
その勢いが中々のもので、ガシャン、と耳に障る音がした。
しばらく、私は振り返って門を見つめる。
魔法、ではないだろう。
不思議な偶然もあるものだ。
しかし何だか歓迎されているようで、悪い気はしない。
「メイドはお屋敷にも敬意を払わなければならない。お屋敷もまた、メイドが仕える相手なのだから」。
学校の先生が仰っていたことだ。
自然と、背筋が伸びる。
頑張ろう。
故郷の家族のためにも、指導してくれた先生方のためにも。
私はお屋敷の方へと向き直る。
と、目の前に女性が1人、立っていた。
「っ!?」
心臓が跳ねる。
こんなに近付かれていることに、全く気付かなかった。
驚いて言葉を失う私に、女性は柔らかい笑顔を見せた。
「こんにちは。貴女が、今日から働いてくれるメイドさんね」
「は、はいっ! ルチェの町より参りました。――」
流れのまま名前を名乗りかけて、はたと止める。
危ない、制約のことを忘れていた。
「な、なにとぞよろしくお願い致します、ご主人様」
習った通りの角度と速さで、私はお辞儀をする。
くす、と笑う声が頭の上から聞こえて来た。
「こちらこそ、よろしくね。さあ、中に入りましょう」
「はい!」
私は女性に続き、お屋敷の玄関へ向かって歩き出す。
雪はこれから、強くなっていきそうだった。
***
「寒い中、たくさん歩いて疲れたでしょう。今日はゆっくり休むと良いわ」
「わかりました。ありがとうございます」
お屋敷の中は暖かかった。
部屋の暖炉には惜しみなく薪がくべられており、堅牢な壁は隙間風ひとつ通さない。
柔らかいカーベットが敷かれた廊下にも、魔法によりまんべんなく暖かい空気が満ちている。
私は目の前を歩く女性を眺める。
彼女の名はヴィラ。
このお屋敷に1人で住んでいる魔法使いで、唯一の使用人だったメイドが辞めたため、新たに私を雇い入れてくださった。
しなやかな金髪を後ろでひと纏めにし、上等な服を自然に着こなしたその姿は、上品というほか無い。
佇まいは勿論のこと、扉を開ける、廊下を歩くといった所作ひとつひとつを取っても美しい。
端正な顔は慎ましやかな表情をつくり、薄い唇はしっとりと落ち着いた声を発する。
偉ぶったところは少しも無く、視線から声色から、私のような小娘を優しく受け入れてくださっているのがわかった。
メイドとしてこの方にお仕えできることは、恐らくとてつもない幸福だろう。
早くも私は、ヴィラ様に敬愛の念を抱き始める。
「ここが貴女のお部屋。必要なものがあれば、言って頂戴ね」
そう言ってヴィラ様が扉を開けて見せたのは、使用人の部屋にしては広すぎる一室。
ヴィラ様がついと指を動かせば、ポッと部屋の明かりが点く。
私は思わず息を呑んだ。
汚れひとつ無い絨毯、乳白色の壁紙、日の差し込む大きな窓、白いレースのカーテン。
天蓋付きのベッドに分厚い布団、新品にしか見えない机と椅子、綺麗な柄のランプ、クローゼットと本棚。
身に余る上等さに私が部屋とヴィラ様の顔を交互に見れば、彼女はくすりと笑った。
ちょっとしたいたずらが成功した少女のようなその笑顔に、心臓がドキリとする。
「ところで、制約はちゃんと覚えているかしら」
「はい」
慌てて意識を戻し、私は制約の内容を諳んじた。
「ひとつ、自分の名前を口に出さない。書くのも禁止。ふたつ、夜中にお屋敷の外に出ない。みっつ、ご主人様のお体に触らない」
この3つの制約を守ることが、このお屋敷で働く条件となる。
ヴィラ様は魔法の研究をしているらしく、制約もそれに関係するとのことだ。
私は魔法を使えないからよくわからないが、魔法使いには決まり事が多いのだと噂に聞く。
無論、心身をご主人様に捧げるメイドたる私には、制約に従わない理由など無い。
「忘れないようにね」
「重々、承知しております」
私は深々と頭を下げる。
これほどまでに良くしていただいて、なぜ不義理を働くことがあろうか。
「ああ、そうだ。もうひとつ、制約を足そうかしら」
ふと思い立ったように、ヴィラ様は言う。
いったい、何を追加なさるのだろうか。
少々緊張した面持ちで続く言葉を待つ私に、彼女は柔らかく微笑みかけた。
「よっつ、自分の健康にも気を遣うこと。良い?」
「! はい、かしこまりました」
「じゃあ、明日からお願いね、メイドさん。私はリビングに居るから、何かあったら呼んで頂戴」
そう言い残し、ヴィラ様は去って行った。
私は鞄をそっと床に置き、改めて部屋を見回す。
美しいご主人様の、美しいお屋敷の、美しい部屋。
雪が窓に吹き付ける音すら、心地良く感じられた。
***
コンコン、という軽やかなノックの音で目が覚めた。
私は机から身を起こす。
どうやら荷解きを終えて少し休憩するつもりが、眠ってしまっていたらしい。
「メイドさん、いま良いかしら?」
「はい、只今!」
慌てて髪と服を整え、扉を開ける。
そこにはヴィラ様が、にこやかな笑顔と共に立っていた。
「夕食にしましょう。ついて来て頂戴」
「かしこまりました」
私はぴしりと背を伸ばし、彼女の後に続く。
学校で仕込まれた様々な技術の中でも、料理はかなり得意な方だ。
きっとヴィラ様のお気に召すお食事を作ろう、と気合が入る。
恐らく今は、厨房に案内してもらっているのだろう。
着いたらまずはヴィラ様の食の好みをお尋ねして、それから調理器具の確認を……などと考えながら歩いて行くと、ほどなくある一室の前に到着した。
「ここが食堂よ。覚えておいてね」
「はい」
ああ、厨房ではなかったのか。
誰に聞かれていたわけでもないが、予想が外れて少し恥ずかしい。
まあ順序の問題だろう。
それに、最初に食堂の位置を知っておいた方が、厨房から料理を運ぶのにスムーズだ。
そう思考する私だったが、ヴィラ様は別の場所に移動するのではなく、食堂の扉を開けた。
「どうぞ」
「? 失礼します」
疑問符を浮かべる私を余所に、彼女は私を中に招き入れる。
と、そこで私の目に飛び込んで来たのは、既に食事の用意がされているテーブルだった。
「えっ……」
思わず声が漏れる。
私が準備をするのではないのか。
副菜から主食まで、作られたばかりであろう料理が揃っており、飲み物とグラス、カトラリーも並べられている。
ふわりと良い匂いが漂って来て、思わず唾を呑み込んだ。
シェフが居るのだろうか?
いや、お屋敷の使用人は私1人だけという話だ。
困惑する私に、更にヴィラ様は椅子をひいてこう言った。
「さ、座って」
「わ、私もですか……!?」
無礼とはわかっていながらも、声を上げてしまう。
だって、こんなの、あまりにも常識外れだ。
しかしヴィラ様は何でもないことのように、「勿論」と言って笑う。
「お言葉ですがご主人様、一介のメイドがご主人様と同じテーブルに着くなど恐れ多く……」
「いいのよ。誰かと摂る食事の方が美味しいもの」
「……で、では……失礼致します」
ご主人様がここまで仰るのであれば、これ以上食い下がってはいけない。
私は胃がねじ切れそうな思いで、恐る恐る席に着く。
ちらりとヴィラ様の様子を窺えば、彼女は何の含みも無い、美しい自然体で向かいの席に居た。
本当に、どこまでお優しいのだろうか。
ヴィラ様の金色の瞳に見つめられると、そこに魂ごと吸い込まれるような心地がする。
それこそまるで、魔法にかけられたような。
あるいはもっと何か、別の……。
――こんこん。
「?」
はた、と私は右を向く。
今そちらで壁を叩くような音が聞こえた、気がしたからだ。
私は壁をまじまじと見る。
しかし、何も無いし誰もいない。
「どうかした?」
「いえ、何でもありません」
たぶん空耳か何かだろう。
音のことは思考の外に弾き出し、姿勢を正す。
「では、いただきます」
フォークを手に取り、私はまずサラダを口に運んだ。
新鮮な葉野菜に、甘味のあるドレッシングが和えられている。
初めて食べる味のはずだが、私は妙な安心感を覚えた。
「お味はどう?」
「とても美味しいです!」
「そう。良かった」
満足そうに頷き、ヴィラ様もサラダを食べ始める。
フォークを握った手の滑らかな指遣い、少し伏せた目のまばたき、野菜を咀嚼する口の動き。
やはり、美しい。
私はちらちらと彼女を盗み見ながら、料理を味わう。
心臓を抱き締められたような気分だった。
***
「それじゃあ、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさいませ」
夕食の後、湯浴み――これもまた、使用人にあてがうには立派すぎる浴場を使わせていただいた――をして、私は自室に戻った。
すっかり暗くなった窓の外からは、しかし柔らかな月の光が降り注いでいる。
温まった体を冷やさないよう、ブランケットを羽織る。
机の上のランプに手を振れれば、ふわりと淡い光が灯った。
このお屋敷の照明器具は、全てヴィラ様手製のものらしい。
魔法を使えない者でも使える、魔法の道具だとか。
私はしばらく、ぼんやりとランプの光を眺める。
普通の火や自然の光と、魔法の光は少し違う。
上手くは言えないけれど、後者は身体の芯まで沁みるような温かさがあるのだ。
恐らく、魔力というものの影響だろう。
魔法を使えない私みたいな人でも、魔力の存在を感じ取ることはできる。
みんな大抵、魔力を「ふわふわしてぬくいもの」と表現するが、私もそれに賛成だ。
単なる温度ではなく、もっと心に近い部分で感じる「ぬくもり」。
有史以来、魔法が悪用されたことが無いのは、もしかするとこの「ぬくもり」のおかげでは無いだろうか。
選ばれた人間だけが仕える力。
人を幸せにする優しいもの。
優しい、ヴィラ様のような……。
そんなことを考えているうちに、とろりと眠気が襲って来る。
両親に手紙を書こうと思ったけれど、また明日にしよう。
私は再びランプに触れて、光を消す。
ベッドに潜り込んで目を閉じれば、あっと言う間に私の意識は暗闇の中に溶け出した。
――すっ、すーっ、すっ。
まどろみの中、不意にどこからかそんな音が聞こえてくる。
何の音だろうか。
考えようとするも、私は呆気なく睡魔に負け、眠りの底へと落ちて行った。
***
翌朝、私は早速ヴィラ様から仕事の説明をしていただくことになった。
私服から仕事服へと着替え、ヴィラ様についてまずはお屋敷の外に出る。
広い敷地をぐるりと回って、お屋敷の裏手へ。
そこには馬小屋のような建物があった。
「紹介するわね。この子がうちのペガサスよ」
「わあ……!」
真っ白な毛並みをした、希少と名高い生き物を前に、私は歓声を上げる。
実物を見るのは初めてだ。
馬に似た体はたくましく、大きな翼はしなやか。
毛の1本、羽根の1枚に至るまで汚れの無い、神秘的な姿に見惚れる。
「基本的に大人しい子だけれど、乗る用事がある時以外は目隠しを取らないでね。どこかに飛んで行ってしまうから」
「かしこまりました」
続いてヴィラ様は隣にある、かなり奥行きのある小屋に移動した。
入り口はあまり大きくなく、壁と屋根でしっかりと覆われた小屋は、中が見えない。
と、ヴィラ様が掌を上に向け、小さな魔法の炎を灯した。
光に照らされ、ぼんやりと小屋内の様子が見える。
よくよく目を凝らせば、奥の方で何かが横たわっているのがわかった。
「あそこに居るのはグリフォン。今は寝ているわ。睡眠の邪魔をすると怒るから、こうやって覗いてみて、起きている時にお世話をしてね」
「はい」
グリフォンも、ペガサス同様そう簡単にはお目にかかれない生き物だ。
もちろん飼育をするのも易くはないだろう。
ヴィラ様への尊敬の念が、いっそう強くなる。
その後も私は、物置き、洗濯場、書庫などお屋敷の施設をひと通り案内していただいた。
どこも完璧に整えられており、私がそれを維持しなければならないことを思うと、責任感で身が引き締まる。
「掃除、洗濯、ペガサスとグリフォンのお世話。これが貴女の仕事になるわ」
「炊事はよろしいのですか?」
「ええ。自分で作るのが好きなの」
にこ、とヴィラ様は笑う。
その瞬間だった。
――がしゃん!
けたたましい音が、どこからか聞こえて来た。
音の具合からして、近くではない。
壁をいくつか隔てた、遠くの場所からだ。
「ご主人様、少し見に行ってきますね」
何かが倒れてしまったのだろうか。
私は急いで踵を返す。
が、ヴィラ様は不思議そうに首を傾げた。
「あら、何か気になったかしら?」
「え……?」
まるで私の行動の意図を読めていないかのような台詞だ。
いや、あるいは。
「ええと……物音がしたので、確認をと」
「物音? どんな音が聞こえたの?」
私は息を呑む。
ヴィラ様には、先ほどの音が聞こえていない!
だとしたら、私の幻聴だろうか。
けれども万一ということもあるから、放ってはおけない。
私は「まあ、少し……」と言葉を濁して、音の発生源を探しに行った。
しかし結局、何かが倒れているのも、定位置から動いているのすらも、見つけることはできなかった。
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