第2話 佐々木浩一

「行って来るよ、母さん」


 昭和の名残のような公営団地。その無骨なコンクリートの玄関口で、佐々木浩一はなけなしの見栄を張って買った革靴を履き、そう呟いた。


 返事は無い。

 浩一の母は医師から処方された眠剤ですっかり深い眠りに落ちている。

 その事に一抹の寂しさを抱きながらも、それで良いとほっとする自分もいる。


 それに気付こうとしないふりをするのも、浩一の日課だった。


 重度の認知症を発症した母親の介護。


 その為に二十年勤めた会社を辞め、公的支援を受けながら母親の介護を行い、合間にアルバイターとして日銭を稼ぐ。

 ただただ、人生を無造作に消化していく。

 そんな日々に浩一は思う。

 自分は一体なんの為に生きているのだろう? と。


 いや、それは少し違うか。

 自分の人生には何の意味があったのだろうか? と言うべきか。


 歌の歌詞にもあるじゃないかと浩一は思う。

 全てを諦めるには若すぎて、夢を見るには歳を取りすぎた、と……。


 若い頃には人並みに夢もあった、恋もした、野心もあった。

 歳を取り、世間を知って、そこへ来て母の病気。


 気が付けば、自分の人生は灰色で塗り固められてしまった。


 一体なんの為に? そんな虚無感。

 それがますます彼の心を蝕んだ。


 もう嫌だと、全てを投げ捨てようともした事もあった。


 だが出来なかった。何故なら自分はまだ母を愛しているから。

 これが赤の他人であるならば、簡単に見捨てられたのかもしれない。

 だがそれは出来なかったのだ。


 浩一は、はたと思い至る。

 自分はまだ人を愛する事が出来るのだと。


「ハハ……」


 小さく溢れる笑み。

 そのことだけで少し心が軽くなった気がした。

 恐らくは気の所為だと気付きながらも。


「……さぁ仕事だ」


 独りごちる浩一の頬が僅かに歪む。

 それは笑みか、あるいは己への蔑み

 か。


 それを聞き、頷く者は誰もいない。

 佐々木浩一はこの瞬間、確かに独りだった。

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トワイライト・ナイトメア ほらほら @HORAHORA

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