1-3 生

第5話

 この地の家々のドアには輪っかのついた金属器具が刺さっていて、そこにまた金属製のリングが吊り下げられて、これで扉をノックして訪問を知らせるようになっている。厳寒に耐え、音もよく伝わるからで、イツセの家にも取り付けられて来客を教える役割を負っていた。

 その音が数ヶ月ぶりに響き、ソファに伏していたイツセの耳にも訪れてきた。


 父親が去って以来、イツセの生活は古びた振り子に従って回っていた。起床と就寝と一日二回の食事とが全てゼンマイ仕掛けの事となって、そしてそれらの合間、彼は常に父親の姿を求め続けていた。「お父さん」と叫びながら暖炉の前と玄関との間を行き来し彷徨い、疲れるとリビングのソファに座り込んで、呆けつつ口から呼び声を垂れ流した。そしてまた発作を起こして立ち上がっては、幾度も廊下を往復した。その繰り返しが数時間続いて、数日続いて、それが初めの頃。

 やがて食料を食べ尽くした。肉や野草は二日やそこらで、ジャガイモも早くに無くなっていたが、ライ麦だけはまだ袋にあった。それが尽きた。


「寒い、無い、無い」


 地下に造られた食糧庫の中で、イツセは麦の入っていた布袋を両手で掴み、ひっくり返す。ほんの十粒くらいのライ麦が土の床に落ちて転がり、それを目で追っているうちに、イツセはまた幾つかの小麦の粒が床の上にあることに気付いた。

 拾おうと伸ばした手が冬の枝木のように映る。唐突に、雪の深い林の中にでも立っているような気分がした。


「……やっぱり、もういいかな」


 床に散らばっているライ麦を集めれば、確かに麦粥のもう二、三食くらい作れそうではあった。けれどもイツセにはその先が見えない。父親が立ち去ってから独りで夜を越すようになって、冷たい寝床に就いた回数はもう二十を回っていた。落ち麦拾いでそこに数日を加えたとして、再び父親に会えるかどうか──何より、再会した父親の期待に自分が応えられるのかどうか、それがイツセには分からなかった。


「戻ろう」


 イツセの靴が、ライ麦を踏んだ。


 そうして食事をしなくなったのが、もう四日前のこと。空腹感はすでに去った後で、全身の不調と苦痛はまだやって来ていない。ただ、眠気があってイツセはソファに横になっていた。

 そんな時に玄関がノックされるのを聞いてイツセのゼンマイは切れて弾け飛び、彼は勢いよく体を起こした。


「お父さん!」


 そう、一瞬思ったからだった──しかし、鍵を持っているはずの父親がドアを叩く理由はない。父親でないならとイツセは関心を薄れさせたが、もう立ってしまったからには無視してソファに戻るのも気が引けて、彼はソファの肘掛けや廊下の壁に寄りかかりつつ玄関へと身体を引っ張った。

 はい、と返事をしてドアを推し開く。三週間余り家の中に籠っていたイツセの両目を、外の世界が真白い光で包み込んだ。風もまたイツセの隣に佇んで動かず、彼の頭を抱きしめて身体をさすっていた。

 イツセか、としわがれた声を聞く。数ヶ月ぶりに見る老爺が両手にかごを携えて立っていた。


「……村長?」

「うむ、久しぶりだの。見ないうちに随分と顔が瘠せこけとるが、大丈夫か? ちゃんと食べておるか?」


 イツセは一考して首を横に振った。


「体調でも悪いか?」

「いえ……ちょっと前に、食べ物、無くなって」

「なぬ?」


 村長は一言断ってイツセの上着の袖をめくった。使い古して麻のようですらある布の下の腕は、細く角張って青白い。──数日どころか1ヶ月近く十分な食事ができていなかったのではないかと、村長には思われた。


「村まで取りに下りて来れば良かったろうに……いや、言っても詮無いことかの。それより、おぬしの父親はまた何をしとるんだ。食べ物を取りに来るのはあやつの仕事だったはずじゃ」


 そう言って村長は開け放たれている玄関を覗き込み、かすれた声を張り上げて「出てこんか!」と叫ぶ。当然、いらえどころか物音も無かった──三度叫んで、その三度とも。


「おぬしの父親は外出中か?」


 それならそうと言ってくれれば無駄なことをせずに済んだものを、と村長は少しばかり面倒くささを滲ませた。


「今は、いないです」

「いつからじゃ?」

「二十日以上は、帰ってません」

「なっ、二十日じゃと……おぬし、それは」


 ──外出ではなくて、見捨てられたのではないか。

 ぐりん、と家の中からイツセの方へ振り向き、村長はそう口走りかけ、すんでのところで、その窪んだ両目にイツセの顔が映って口が閉じた。

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