第4話
床にうつ伏せになって足蹴にされていたイツセは、すっと、背中にあった靴の圧迫感が消えるのを感じた。今のでおしまいなのかなと内心に安堵が灯り、続け様、その灯火に情けなさが水をかけた。別に、父親の意に添えたわけではないのに。
うつ伏せのまま痛む首を引っ張って顔を上げると、父親がリビングから出ていくところだった。
「あ、ちょっと待って」
──謝らないと。謝って、これからどうすれば良いかを聞かないと。
イツセの心に危機感が生えて、黴のように斑点模様を作り出していた。このまま自分で考えていても父親の望み通りにはできないだろうと、そう思い始めていた。ゆえに彼は、たとえ父親に一時の迷惑をかけたとしても、父親に直接、自分がどうすれば良いかを聞くべきだと考えた。明確な指示を乞おうとした。
全身が痛んで、うつ伏せの体を起こすには随分な時間がかかった。立ち上がることなどとても叶わず、諦めて、四本の手足で父親の後を追った。ふと彼は自分がイヌになったような気がしたが、事実は、イヌにすらなれていないのだと知っていた。駆け寄って命令を受けても、見当違いなことばかりしていた。内臓が冷え尽くす思いだった。
言う通りに動けない猟犬の煩わしさは、彼も知らないものではなかった。
這う這う、イツセは鈍足でリビングを出て、横に伸びる廊下の右手、玄関に、父親の背中を見た。大きなバッグを背負い、肩からも一つ提げて、厚手の上着を着込んでいた。
「お父さん? どうしたの……?」
いかにもな格好に不安が再起する。薪を取りに行くような、買い物に行くような軽装ではなかった。イツセは目を凝らして、何かバッグから衣服がはみ出しているのを見た。
分厚いコートと荷物との隙間から、腰に下げられた一本の踏雪杖(ステッキ)が覗いた。
「待って、どこ行くの? ねえ!」
父親はその叫びに振り返る素振りも見せない。イツセが駆け寄ろうと手足を動かし、その膝の床板に打ちつけられる音があっても、父親は雪靴(ブーツ)の厚底で床を蹴って、その音を打ち消すかのよう。
やがてイツセが父親の脚に抱きつくと、痛めたばかりのその背中をステッキが襲った。
「このっ、離れろっ」
「う、やだ、やだっ。行かないでっ。僕、頑張るから、ちゃんとやるから──」
「しつけぇ!」
そこでとうとう父親が、イツセの抱きついている方の脚を勢いよく振り上げた。無理やり引き剥がされた体が壁に叩きつけられ、落ちて、死んだウサギのように床に倒れ伏した。それでもと精神に駆動されて伸ばされた左腕も、左手も、たちまち父親のステッキの下に屈服した。
腕は折れ曲がっていた。
「黙れ! お前など、もう知るか!」
叫び声と共に振り回された杖が壁を殴り天井を殴り、そうして家が軋んだ。イツセにとっては、十四年間、かつては三人で、母親がいなくなってからは父親と二人で住み続けてきた家が、父親の嘆きの火によって崩れんとしているかのようだった。あるいは家の軋みは、その薪炭である自分を非難する轟々とした声であるような気もした。──どうあっても、自分の起こした火によって自分の家を崩し、そこに埋もれる運命だった。
扉が開けられた。枠の向こうは吹雪いて灰色だった。その大流から分かれ出て侵入してくる風が父親のコートをはためかせ、そして家の軋みをいっそう大きくした。
「お父さん」
それは風雪の狂った声に比べれば存在しないも同然の呟きだったが、しかし父親は耳ざとく──わざわざそれをつまみ上げた。
「金輪際、お前を俺の子供だと思うことはない! 二度と、二度とだ!」
──なんて。
心内の池底に大きな穴が穿たれる。そこから滔々と水が流れ出ていく。水面の大浪が静まるよりも早く、水があっという間に枯れ尽くした。
勢いよく扉が閉ざされた。その大音を以って、二人の家が倒れ去った。
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