第3話

 そしてその隙間は、渦巻き状の風が暖炉の火を包み込み、細くなっていって遂に炎をねじり消してもなお、生まれる隙を持たなかった。


「おい」

「は、はい」

「今のは、何をしたんだ?」

「え? えっと……火を点けなおすために風の魔法を使って」

「なんだと?」


 父親が正座をするイツセを見下ろした。


「その、か、風の魔法で火を消したんです」


 もはやイツセには、風の魔法が正解だったのかどうかすらも分からなくなっていた。あるいは水を操って薪に触れないようにすべきだったのか、あるいは水の魔法で湿った薪をまた乾かすのが良かったのか。父親の望む答えは、暖炉が消えて薄暗くなった部屋に隠れてしまっていた。

 ただ明らかなのは、自分が間違ったということだけ。

 案の定、再び舌打ちがあった。


「お前は俺を馬鹿にしてるのか?」

「ち、違います。ただこれなら薪が濡れないかなと思って、そしたらあの、すぐに火の魔法をやり直せるから」

「風の魔法だの火の魔法だの」


 ああくそ、と父親が頭を掻き毟った。荒い息で床を何度も踏み蹴り、その度に、イツセの積み上げた薪が崩れていく。彼は俯いて、歪み軋む床板を見つめていた。──視界の中の父親の足が、いつか自分に向かってくるのではないかと怯えながら。

 しかしそれは突如として止み、イツセの視線の先で父親の踵が向きを変えた。


「もうずっとそこにいろ。俺に話しかけてくんな」


 たとえ何を言われても、イツセは「はい」と返事をするつもりでいた。今までと同じようにどんな言葉にも従う意志であったし、そもそも繰り返し使ってきたその応答は、今では何かあればすぐに口から出るようになっていた。

 しかし今回ばかりは、それが詰まった。


「え、お父さん──」


 顔を上げて視界に映ったのは、離れゆく父親の背中だった。


「待って、僕が悪かったから! ちゃんとやるから!」


 イツセは左手で床に転がっていたナイフを拾い上げて、それを高く掲げた右手に突き刺した。流れ出す血を乱暴に薪の上へと撒き散らし、火の魔法を使って「ほら、まだできるから!」と指し示す。そうしながら見つめ続ける。


「ねえ、見てよ! ほら!」


 イツセは立ち上がって父親の背に縋り抱きついた。羽の立ったその服が右手をつたう血でベッタリと汚れた。しかし彼にとってはこの汚れを理由に罵声を浴びるのも蹴りを受けるのも歓迎するところで、何もされないのが最も恐ろしいことだった。

 彼にとって、攻撃は間違いなく自分を対象としているのだった。自分に対する反応なのだった。そして今、自分の存在と行動とを「見る」人は、父親しかいない。


「まだ全然、何にもできないけど、お父さん、僕よりずっとすごいし、僕の魔法なんてくだらないかもしれないけど、でも、ちゃんとこれから練習して、お父さんみたいになるから、だから──」


 そのとき自分を振り払おうとしていた力がふと弱まって、イツセの心に、父親がまた自分に反応してくれたという喜びが沁みた。

 そうしてふり返る父親を見つめていた彼は涙滔々の目元を拭い、そしてその目を開けたとき、ちょうど彼は、父親の手のひらが自分の胸元に触れているのを見た。

 そこに、大声があった。


「ふざけんじゃねえっ!」


 ──何よりもまず、イツセは足が浮いたのを自覚した。頭が何か硬いものにぶつかり、次の瞬きの後には狭暗い場所に押し込まれていた。嗅ぎ慣れた炭の匂い──それが暖炉の中なのだと知り、そうしてから、父親の言葉が頭の中に入ってきた。

 自分が突き飛ばされたと分かったのは、最後の最後だった。


「何が俺みたいにだ! いっつもお前は馬鹿にしやがる!」

「お、お父さん──」

「来んなっ!」


 周囲のものを投げ散らかしていた父親が、暖炉から這い出てきたイツセの頭を蹴り、そしてその背を踏みつけた。


「毎度毎度、お前は昔っからそうだ。口を開けば俺を馬鹿にする、余計なことしか言わねえ。もう散々だ、我慢ならん」

「待ってよ! 謝るから、何とかするから、ねえお父さん!」

「はんっ、お父さん、ね。俺の子供ならそれらしく振る舞いやがれってんだ。俺の望み通りにしろってんだ。それができないくせに俺の子供ヅラすんなっ、馬鹿が」


 唾を吐き、父親が一際深くイツセの背中を踏みにじる。襤褸が引っ張られ、さらに破ける。

 先に流した涙はとっくに塗り替えられていた。しかしそれは痛みによってというより、父親の言う通りにできないこと、父親の期待に応えられないことへの申し訳なさによってだった。それが薄く、恐怖という衣を纏っているだけで。

 そもそも、イツセの心の中はまだ波立っているに過ぎなかった。精神の小池があって、その水が上下していた。如何な強風が水を跳ね上げたとて、その量はたかが知れていた。だからこそこの時のイツセには、言わばまだ余裕があった

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